第66話 聖君のお嫁さん
夕方、お店にやすくんが来た。最近は、土日の夕方にシフトを入れているらしい。
聖君に私と凪がいると聞いて、やすくんはリビングにすっ飛んできた。
「あ、桃子さん、お久しぶりです」
「やすくん。久しぶり」
「凪ちゃんも、元気そうっすね」
「うん」
やすくんは嬉しそうに凪の顔を覗き込んだ。
凪は座布団の上で、クロの尻尾で遊んでいた。
「凪ちゃん。俺、覚えてる?」
凪はやすくんを見て、にこりと微笑むと、今度はやすくんのほうに手を伸ばした。
「可愛い。抱っこしてもいいっすか?」
「うん、いいよ」
やすくんは嬉しそうに凪を抱っこした。
「やすくん、ほんと、赤ちゃんが好きなんだねえ」
それを見ていた聖君のお父さんが、パソコンをする手を止めてやすくんにそう言った。
「はい。好きです。俺も早く、自分の子供欲しいっす」
「へ~~。いいパパになりそうだよなあ。やすくんは」
お父さんはにこにこしながらそう言うと、しばらく凪を抱っこしているやすくんを優しい目で眺めていた。
「やす!そろそろ、交代の時間だよ」
お店から聖君の声がした。
「はい、今、行きます」
やすくんはそう答え、凪を座布団に寝かせると、
「またあとでね」
とそう言って、お店の方にすっ飛んで行った。
「あの…。やすくん、杏樹ちゃんとは?」
私は小声でお父さんに聞いてみた。
「変わらないよ。どっちも思いを告げることなく、あのまんま」
「そうなんですか」
「だけど、見てると初々しいよ。嬉しそうに話をして、照れ合ったりしてね。思いをまだ伝えていない片思いの時期って言うのかな。ああいう時もいいね、なんだかさ」
お父さんはそう言うと、ちょっと遠くを見てクスッと笑い、またパソコンを打ち出した。
あ、もしかして今、自分のことを思いだしていたのかなあ。
片思いの時期、私はそんなに楽しくなかったな。いっつも、落ち込んでいるだけだったもの。
それに、聖君と付き合うようになっても、ずっと片思いをしている気分だった。本当に私は彼女なの?私のこと、本当に好きなの?どこが好きなの?
そんなことばっかり思ってた。それに、別れる恐怖もいつもあったし。
聖君が冷たかったわけじゃない。聖君は優しかった。ただ、私が自信がなかっただけ。
…あ、でも、付き合った当初は、聖君、周りに友達がいると、私とあんまり話したりしなかったっけなあ。それに、海に行ったりすると、はしゃいじゃって私のことほっておいたり。
それで、私がナンパされてると、慌てて戻ってきたりしてた。
他に夢中なことがあると、私のことを忘れちゃうのかな。
「お先に失礼します」
お店から、絵梨さんの声がした。あ、帰るんだ。バイトの時間終わったのね。
ほ…。ため息をつくと、それをお父さんがめざとく気が付いて、
「絵梨ちゃんのこと、心配だった?」
と聞いてきた。
「え?いえ。心配って言うか…、ちょっと聖君も気疲れしてたから、きっと聖君、楽になったかなって思って」
「ああ。聖のことを心配してたんだ」
「…はい」
「浮気の方じゃなくって」
「浮気?!」
「聖が浮気するなんて、そんな心配は桃子ちゃん、しないか」
「…は、はい」
「クス」
「え、そういう心配を私がしていると思ったんですか?」
「うん。ちょっとね。でも、もうそんな心配は桃子ちゃん、しなくなったんだね」
「……はい」
浮気の心配はしていないかな。それより、聖君、いまだに女の子が苦手だし、きっと疲れてるだろうなって、そっちの心配のほうが大きいかも。
あれ?なんでかな。浮気を聖君がするとは思えないな。
そりゃ、女の人が言い寄ってくると、嫌なことは嫌なんだけど、前みたいに私よりも他の女性に目が行っちゃうんじゃないかとか、私のことをもう、好きでもなんでもなくなっちゃうんじゃないかとか、そんな心配はないかもしれないなあ。
結婚したから?凪がいるから?
「聖、あれだけ桃子ちゃんにべったりしてるし、いまだにメロメロだもんなあ。さすがに桃子ちゃんも、そんな聖を見ていたら、浮気をするだろうなんて思わなくなるよね」
「え?」
「でしょ?」
聖君のお父さんはにっこりと笑ってそう言った。
「…は、はい。そうなのかな?」
私にメロメロって…。その言葉はいまだに、聞いてて恥ずかしいけど、前みたいに信じられないってこともなくなった。
ただ…。
「父さん、桃子ちゃん、夕飯持ってきたよ」
聖君が元気にリビングにやってきてそう言った。
「サンキュ。聖は?もう夕飯食べられるのか?」
「俺はまだ。もうちょっとしたら、落ち着くから、そうしたら店で食っちゃうよ」
「忙しいのか?」
「ううん。予約客だけだし、そうでもない」
聖君はにっこりと微笑みながらお父さんにそう言うと、お店に颯爽と戻って行った。
「はあ」
なんで、あんなに爽やかなんだろうなあ。
「今、聖に見惚れてため息ついたの?桃子ちゃん」
ドキ~~。お父さんに見られてた。
「は、はい」
真っ赤になってうなづくと、お父さんはあははって笑って、
「いまだに桃子ちゃんも、聖にメロメロだもんなあ。まったくこの夫婦は面白いよね」
とそう言った。
「……」
何も言い返せない。
そうなんだよね。ただ、私の方も聖君に今も夢中で、他の人なんて目に入らなくって、聖君にいまだに恋をしているんだよね。
だから、なんとなくね、お店で聖君に見惚れてボ~~っとしている絵梨さんの気持ちも、わからなくもない。それに、あれこれ聖君とのことを妄想しちゃうのも、わからなくもないんだ。
もし、私も聖君に片思いをしていて、熱をあげているファンの一人だとしたら、きっと絵梨さんと話があって、一緒に妄想して、聖君に見惚れて、きゃっきゃしていそうだもん。
結婚式でのタキシード姿や、紋付はかま姿は、きっとかっこいいだろうなあって、そんな妄想をして喜んでいるんだもん。絵梨さんのこと、あれこれ言えないよね。私…。
妄想…かあ。
絵梨さんの妄想ってどんなかな。たとえば、聖君とのデートとか?結婚したらどんな毎日を過ごすんだろう…とか?
告白されるときのシチュエーションや、プロポーズの言葉や、そんなことをあれこれ妄想しちゃうのかな。
私は、そんな妄想したことないな。なにしろ、告白されるなんて思ってもみなかったし、悪い方を考えてばかりで、そんな楽しいこと考えられもしなかったし。
そして、いざ、告白されても、ぴんと来てなかったしな。
私のことを好き?今の、幻聴かな…。なんて、そんな感じで。
………。プロポーズとかも、妄想したことない。
結婚はある。朝起きたら、ちゃんと朝ご飯を作って、聖君を起こす。
「おはよう、起きて、聖君」
そうすると、可愛い寝ぼけ眼で聖君は、おはようって眠そうに言う。
愛妻弁当を作って、仕事に行く聖君に、
「はい。行ってらっしゃい」
と言いながら、渡す。聖君はそれを受け取って、
「行ってきます」
とそう爽やかな笑顔で言うと、私にキスをする。
いってらっしゃ~~~~い!玄関から、聖君が見えなくなるまで見送る。聖君も振り返って、手を振ってくれる。
なんて…。
そんなの妄想していた気がするんだけど。
現実は、全く違っている。
朝、起こされるのは私。聖君は目覚めると、さっとベッドから起きて、着替えて、部屋を出ていってしまう。
凪が生まれてからは、凪のことを見ていたいのか、部屋にとどまっていることも多くなったけど。
一階に行くと、朝ご飯はほとんど、聖君が作ってくれている。愛妻弁当なんて、作ったこともないどころか、朝ご飯すら私って、作ってないんだな。
行ってらっしゃいのキスとハグはしている。だけど、爽やかな笑顔は、そこにはない。たいてい、聖君は、
「帰ってからいちゃつこうね」
なんて言って、にやけている。
それか、凪を見て、目が垂れ下がっている。
でも、そんなにやけ顔の聖君が、私は可愛くって仕方がない。
う~~~~ん。理想と現実の差かしら。でもでも、やっぱり聖君が大好きで、夢中なのには変わりない。
それにしても、こんなに聖君に甘え放題の、何もしない嫁でいいんだろうか。ちょっと、ダメダメな嫁になってない?私って…。
「あの!」
「え?」
突然、お父さんに話しかけたので、お父さんはびっくりしていた。
「私って、このままでいいんでしょうか?」
「は?」
お父さんは目を点にしている。
「今まではこの家に、遊びに来ている感覚でしたけど、もう住人なんだし、そ、それに、私、聖君のお嫁さんなんですよね?」
「うん。そうだね?」
お父さんはにっこりとうなづいた。
「なのに、なんか、お客さん気分でのんびりしてて、いいのかなって…」
「あはは。そういうことか。何を言いだすのかと思ったよ」
お父さんはしばらく笑っていた。
「そうだなあ。くるみも俺も、特に桃子ちゃんに要求はしないと思うけど…。そうだなあ」
お父さんは考え込んでしまった。
「桃子ちゃんは、何がしたい?」
「え?」
「たとえば、もっとお店の手伝いがしたいとか、それとも…」
「お店の手伝いもしたいです。だけど、凪の世話をずっとお父さんにお願いしていたら、お父さんがお仕事できないですよね?」
「わお」
わお?
「桃子ちゃんに、お父さんって呼ばれるの、すんごい嬉しいかも」
へ?
「もう一回言ってみて?お父さんって」
「お、お父さん」
「わ~~お」
聖君のお父さんは、にやにやしながらうつむいて、しばらく黙り込んでしまった。
えっと。話の続きは?それに、今まで私、お父さんって言ったことなかったかな。
「そうか~~。そうだよね。娘ができたってことなんだ。聖の奥さんってことは、娘なんだなあ」
お父さんは目を輝かせながら顔をあげ、にっこりと微笑み、
「じゃ、くるみのことはお母さんって呼ぶの?」
と聞いてきた。
「え?はい」
「くるみも、喜んじゃうなあ」
「……はあ」
で、話の続きは?
お父さんはにやにやしながら、パソコンを打ち出した。あ、話…忘れてるよね。私、このままでいいんでしょうかっていう、その話…。
「ふ、ふえ…」
凪がぐずりだした。
「あ、お腹が空いたみたい。私、上で凪におっぱいあげてきます」
「ああ、うん」
聖君のお父さんは、ちらりと私を見て微笑んだ。
凪を抱っこして2階に上がった。聖君の部屋のベッドに座り、凪におっぱいをあげると、凪は勢いよく飲みだした。
「ねえ、凪。私と凪はもう、榎本家の住人になるんだよ。わかってる?」
あと何日かしたら、また椎野家に戻るんじゃない。もう、ずうっとこの家に住むんだ。
そう考えたら、ちょびっとだけ寂しくなった。
お父さんや、お母さん、ひまわりとはもう、住むことはないんだなあ。
凪はおっぱいを飲むと、うとうとし始めた。でもそこに、聖君がやってきて、
「あ、凪と桃子ちゃん、みっけ」
とにこにこしながら、そう大きな声で言うので、凪はぱちりと目を覚ました。
「凪。おっぱい飲んでたの?お腹いっぱいになった?」
「聖君はご飯食べないの?」
「もう店で食ったよ」
そうなんだ。
「お店、お客さん帰ったの?」
「うん。あと一組いるけど、デザートも終わったし、杏樹がホールの手伝いするって言うから、俺、あがってきちゃった」
「杏樹ちゃん、いるの?」
「やすと仲睦ましくしているよ」
「ふうん」
「凪~~~」
聖君が凪を抱き寄せ、頬ずりをした。凪は嬉しそうに、きゃきゃきゃっと声をあげた。
「やすくんが、凪のこと抱っこして喜んでた」
「え?俺の許可なく、凪を抱っこしたのか?」
「うん。私が許可した」
「…なんだよ」
あ、聖君、すねちゃった?
「聖君」
「ん?」
凪を抱っこしている聖君の背中に抱きついて、
「絵梨さん、あのあとどうだった?」
と聞いてみた。
「どうって?」
「もう、ひっついて来なかった?」
「ひっついて来てたよ」
「え?!」
「あ、大丈夫。ひっついても、俺が離れてたから」
う、う~~~ん。
「母さんも、注意していたし」
「なんて?」
「絵梨ちゃん、お仕事してねって、優しく。でも、目、笑ってなかったけど…」
「お母さんも怖い時あるの?」
「バイトの子に?」
「うん」
「ないよ。いつも優しく注意するだけ」
「ふうん」
「たまに、ビシッて言ってほしいけどね」
「そ、そうだね。でも、私はビシッて言われたくないかも」
「母さんに?」
「うん」
「あはは。桃子ちゃんのことは怒らないよ。桃子ちゃん、いっつも店でよく働いてくれてるもん」
「そうかな。足、引っ張ってないかな。杏樹ちゃんや、聖君みたいに、てきぱきと動けないんだけどなあ」
「え?それ、本気で言ってる?」
「うん」
聖君は、ぐるりと私のほうを見て、目を丸くしながらまた聞いてきた。
「本気で言ってる?」
何で2回も聞いてきたのかな。
「うん。言ってる」
私がそう言うと、聖君は凪の顔を見ながら、
「ママ、あんなこと言ってるよ。どう思う?凪」
と凪に聞いた。
「うきゃ」
凪は嬉しそうに聖君の顔をべたべたと触った。
「凪~~~~。可愛い~~~~」
「…」
聖君、さっきの話の続きは?
「ねえ、聖君。私になんで本気で言ってる?って聞いたの?」
「ああ、だって、桃子ちゃん、いつもてきぱきと動いてて、本当に助かるって、母さんが褒めてたから」
「え?」
「俺も、いつも思ってるよ。桃子ちゃんはすごいなあって」
「うっそ~~」
「本当だよ?サラダ切って。盛り付けて。スコーン焼いて。クリーム作って。そう言っただけで桃子ちゃん、的確にやってのけちゃうじゃん」
「あれは、聖君やお母さんに教わったから」
「一回だけだよね?やっぱり、桃子ちゃんは料理のセンスがあるんだよ」
「そうかな~~~」
聖君のほうがよっぽどすごいって思うけど。
「あ。そうだ。聖君。私、このままでいいのかな」
「……は?」
聖君がまた、目を丸くして私を見た。
「だから、もう榎本家の住人なんだし、聖君のお嫁さんなんだし、もっといろいろと家の手伝いやお店の手伝いをしたほうがいいかなって」
「あ、ああ。そういうこと」
?お父さんと言い、聖君と言い、反応がおんなじ。何だと思ったのかな。
「う~~~~ん。いいんじゃないの?今までだって桃子ちゃん、洗濯してくれたり、店の手伝いしてくれたり、いろいろとしてくれてるじゃん」
「でも、ご飯作ってないし」
「ああ、うちは基本的にいっつも店のもん食べてるからなあ」
「お母さんが作ったのだよね」
「あ、じゃあ、これからは桃子ちゃんが作ってくれる?」
「夕飯?みんなの分?」
「うん」
「……。ごめん、自信ない」
「…そ?」
「あ、じゃあ、朝ご飯くらいなら、作れる」
「いいよ。早起きしなくちゃならないんだし、桃子ちゃん、凪のおっぱいあげたりするので朝大変じゃん」
そんなこともないんだけど。
「俺なら、暇してるんだから、俺が作るよ」
う~~~~。聖君って、優しすぎるよ~~~~。
「じゃ、じゃあ、洗濯して、それ干して、掃除して」
「それ、今までもしてたじゃん。桃子ちゃん」
「うん」
「あはは。だから、今までどおりでいいってば」
「……」
聖君は笑いながら、また凪に頬ずりした。
「聖君のお嫁さんってさっき言ってたね」
「え?」
凪に頬を寄せたまま、聖君は私を見てそう言った。
「言ったよね?」
「うん」
「でへへ~~~」
あ、思い切りにやけた。
「桃子ちゃんにそう言ってもらうと、俺、嬉しい」
「………」
そんなところまで、お父さんに似てる。
ほんと、この家の家族は、のほほんとしてるよなあ。
じゃ、本当に私は今までのままでいいのかなあ。
「聖君」
「ん?」
「聖君のことは、聖君でいいの?」
「は?」
「呼び方…」
「え?他の呼び方ってどんなの?あ、まさか、ダーリンとか、あなた~~とか?」
「そんな呼び方しないよ」
「じゃ、なに?」
「パパとか」
「え?俺のこと?」
「変かな」
「パパ?う、う~~~ん」
あ、にやけた。
「でもなあ。それもいいけど、やっぱり、聖君でいいよ。俺も、桃子ちゃんって呼ぶし」
「…うん、わかった」
「たまに、俺、ハニーって呼ぶから、そんときは、ダーリンって呼んでね?」
「…はあ?」
「あ、たまに俺、お前って呼ぶから、そんときには、あなたって呼んでね?」
「…??」
「それから、たまに俺、奥さんって呼ぶから、そんときには、旦那様って」
「呼ばない。もう~~~~。聖君は~~~」
「あははは」
聖君は嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、凪も「うきゃきゃきゃ」って笑っていた。
ほんと、この親子も平和だなあ。やっぱり、榎本家はいつでも、ほんわかあったかいよね。