第63話 榎本家へ
翌朝、
「うっきゃ~~」
という嬉しそうな凪の声で目が覚めた。すると、すでにTシャツとパンツを着て、凪をあやしている聖君が目の前にいた。
「おはよう、桃子ちゃん。ほら、凪、ママが起きたよ?おっぱいもらう?」
「…聖君、今何時?」
「7時ちょっと前」
「そんなに早くに目が覚めたの?」
「凪がちょっとぐずってたから、起きて遊んでた」
「ごめん。気づかなかった。お腹すいたんだよね?」
私はすぐに凪を抱っこして、おっぱいをあげようとした。
「桃子ちゃん、なんか着ようよ。裸じゃ風邪ひくよ」
うわ。そうだった。
慌てて下着をつけて、パジャマを着た。それから聖君が私の腕に凪を渡してくれた。
「凪、パパに遊んでもらうと、お腹空いてるのも忘れちゃうの?」
そう聞きながら、私は凪におっぱいをあげた。
「凪はパパに夢中だから」
「…へ?」
「ね?パパと遊べたら、超幸せなんだよね?」
何それ。あ、聖君、凪の顔見てにやけまくってるし。
私、やっぱり凪にはかなわないかもしれないなあって、思っちゃう。
「俺、先に下に行ってるね」
「うん」
聖君は、ジーンズを履いて、下におりていった。
「…凪、本当にパパに夢中なの?でもわかるよ、それ。だって、かっこいいもん」
今も、髪が飛び跳ねてても、それでもかっこよかったもんなあ。
そういえば、もうお店にあの人来てるのかな。えっと、なんていったっけ。聖君と結婚すると思い込んでいた危ない人。ああ、そうそう。絵梨とかなんとか…。
「あ、来てるよ。朱実ちゃん、やめちゃったし」
朝ごはんの時に聖君に聞くと、聖君はそう答えてから、しんみりしてしまった。
「朱実さんって?」
母が聞いた。
「ずっとうちの店でバイトしてた子です。先月で辞めちゃったんです」
「あらそう。じゃ、新しい子が入ってきたの?」
「はい」
「ふうん。どんな子?」
あ、また始まった。母の詮索。そんなに聖君の周りの子たちが気になるのかな。
いや、待てよ。私も気になっているか。
「どんなって…。まだ、店に来始めてからちょっとしかたってないからわかんないすけど。でも、変わった子ですね」
「変わった子って?どんなふうに?」
「う~~~ん。なんか、不思議な感覚の持ち主らしくて」
「ふ、不思議って?どんなふうに?」
母はしつこく聞いている。
「独自の世界に生きてるっていうか。思い込みが激しいと言うか」
ああ、そうだよね。だって、聖君と絶対に結婚すると思い込んでいたんだもんね。
「アイドルの追っかけをずっとしていたらしくって。その時の妄想も半端ないらしく…」
「アイドルの追っかけ?誰かいなかったっけ。あ、花ちゃんだったかしらね」
母がそう私に聞いた。
「うん。していたね。そこら辺の人は、好きになれないようなこと言ってたけど、ずうっと、籐也君のことを思っていたみたいで。あ、途中、浮気もしてたけど」
「浮気?」
「片思いの浮気」
「へ~~」
母が興味深そうにうなづいた。
「花ちゃんが好きだったアイドルは、ちょっと籐也君にも似てたの」
「あら、そうなの?じゃ、本当に籐也君のことを思い続けて、忘れられなかったんだ」
「うん」
「でもさ。それで籐也とうまくいったから、別にいいと思うんだけど。どうも絵梨ちゃんの場合は、ちょっとね」
朝ごはんを食べ終わって、コーヒーを飲んでいた聖君は、マグカップをテーブルに置いてそう言った。
「ちょっとって?」
母がまた、聖君のほうに顔を向け、好奇心の目で見ている。
「えっと。俺の実は、幼馴染と言うか、近所に住んでて、戻ってきたんですよ」
「…そうなの?」
「はい。で、子供の頃、俺と結婚するんだとか、そんなことを言ってたらしくって」
「あら、まあ、大変ね、桃子。ライバル登場?」
「いや。別にライバルじゃないっすけど。ただ…」
聖君が言葉を濁した。
「なに?ただ、なあに?」
母はまた、聖君に食いついた。これは、心配で聞いてるんじゃなく、ただ、好奇心で聞いてるだけのような気がしてきた。
「俺と結婚することとか、あれこれあれこれ、ずうっと妄想を抱き続けてきたらしく」
「わ。すごいわね」
「で、思いは叶うと信じ込んでいたらしく」
「…へえ。怖いわね」
「どっかで、叶え方が間違ったのかなとか、それとも、これから結ばれるのかなとか、ちょっと怖いこと言ってるんですよね」
「かなり怖いわね」
母は、まだ興味津々の顔で聞いている。
「は~~。俺、またしばらく、あれかなあ」
「なに?聖君」
「あ、なんでもないっす」
聖君はにこりと母に微笑み、私の手に抱かれていた凪を受け取り、和室に行ってしまった。
「なに?桃子、聖君、どうかしたの?」
「新しい子が来るとね、慣れるまでちょっと聖君、気疲れしちゃうの」
「へえ。そうは見えないけど、繊細なんだ」
「女の人、苦手だったし。あ、今もまだ、苦手なのかもしれない」
「あ、そういえば、そうだったわねえ」
「それも、そんな風変わりな人だと、聖君、どう対処していいかわからなくって、戸惑うと思うし」
「そうね。一緒に働くんだから、冷たくできないしね」
「なんで、その人のこと、お母さん、雇っちゃったのかな」
「聖君のお母さん?」
「うん」
「桃子も嫌だったの?」
「…ちょっとね」
はあ。聖君じゃないけど、私もちょびっと憂鬱。いや、聖君を疑ったり、信じてないとか、そういうことじゃなくって。ただ、疲れそうだなって思っちゃって…。
それにしても、これから聖君と結ばれるのかもっていう発想が、怖い。もう結婚してて、子供もいるのに、これから結ばれるって思うってことは、私と聖君が離婚でもすると思っているからか、それとも、不倫をするつもりなのか。
きゃ~~~。
なんだか、今の「不倫」って言葉が、やたらと重い岩のように私の頭の上にどっしりと乗ってきた。
結婚したからって、安心はできないんだ。
って、だから!聖君は浮気なんてしないってば。
私もさっさと朝ごはんを済ませ、和室に行って、凪を抱っこしている聖君の背中に抱きついた。
「なに?」
「浮気しないでね」
「へ?何を突然」
「したら、凪を連れて、聖君の元から去っちゃうからね」
「………」
あ、今、一気に聖君の顔が青ざめた。
「しないよ」
聖君は真面目な顔でそう答えてから、凪を布団に寝かせると私に抱きついてきた。
「するわけないじゃん。なんで、そんな去っていくなんて縁起でもないこと言うんだよ」
「…」
あれ?泣きそう?
「桃子ちゃんと凪のそばから、絶対に離れるつもりはないんだから。ぜ~~~ったいに」
「わ、わかったよ」
私がそう言っても、聖君はまだ、私に抱きついたままだった。それを見て、布団の上で凪が嬉しそうに笑っている。
そうか。そうだよね。聖君が凪から離れたがるわけがないか。
…ううん。だから、私からもだって。ちょっとなんだか、また私ったら、自信がなくなってきてるのかなあ。
ああ、聖君のモテぶりは、まだ続くのかなあ。この不安は、まだ続くんだろうか。
「桃子ちゃん、早目にうちに来ない?」
「え?なんで?」
「だって、うちに来てくれたら、いつでも、桃子ちゃんに癒されるし」
そうだな。この家にいても、もんもんとしているばかりになりそうだけど、榎本家にいたら、絵梨さんのことを見張ることもできるし…。
って、なんで、見張らないとならないんだ。私、やっぱり変になってるかも。
そんなこんなで、その週末には、榎本家に行くことにした。
「凪ちゃん」
父と母は、ぎりぎりまで凪を交代で抱っこしていた。
「すぐまた、遊びに来るから」
私がそう言うと、2人ともうんうんとうなづいた。ひまわりだけは、凪との別れを惜しまなかった。でも…。
「お兄ちゃん、ちゃんとこれからも、相談に乗ってね」
と、聖君との別れを惜しんでいた。
「わかってるって。うちの店にもかんちゃんとおいで。おごるからさ」
聖君はにっこりとそう言うと、荷物を持って車に向かった。
「凪ちゃん」
父はまだ、凪のことを愛しそうに抱っこしている。母は、私に、
「これ持って行って。向こうのお母さんに渡してくれる?」
と、なぜか化粧品を手渡してきた。
「これ、なに?」
「前にお母さんがエステの仕事してるって言ったら、一回受けたいって言ってたのよ。でもなかなか時間が取れないから、せめて化粧品だけでも先に渡しておこうと思って」
そうだったんだ。そんなやり取りが知らない間にあったんだ。
「出張エステに、れいんどろっぷすまで来たら?そうしたら、凪にも会えるし」
私がそう提案すると、母は、目を輝かせ、
「絶対にそうするわ。それ、聖君のお母さんにも言っておいて」
と力強く言った。
「その時、お父さんもお邪魔しようかな」
凪を抱っこしている父がそう言った。
「…い、いいんじゃない?でも、土日はお店忙しいから、平日に行くことになると思うけど?」
母にそう言われ、父はしょんぼりしてしまった。
ああ、恐るべし、孫パワー。そんなにも離れがたいのか。
「桃子、いろいろと迷惑かけないようにするんだぞ」
父は私の腕に凪を抱かせると、そう言ってきた。
「うん」
「お母さん、お父さんにくれぐれもよろしくね」
今度は母がそう言った。
「うん」
「桃子。凪ちゃん連れて、いつでも遊びに来いよ」
父がそう言った。
「う、うん」
「…」
父は凪ではなく、なぜか私を見てちょっと目を潤ませている。
あ、あれ?もしかして、別れが惜しいのは、私?
「ほら、お父さん。そんなにしんみりしないで。江の島なんてすぐなんだから、すぐ」
母にそう言われても、なんだか、父は寂しそうだった。
「お父さん、まだ私がいるからさ」
ひまわりがそんな父を見て、また慰めていた。
聖君が玄関まで、凪と私を迎えに来た。
「本当にお世話になりました。ありがとうございました」
聖君がそう言うと、父は微笑もうとしたが、なんだか引きつり笑いになってしまっていた。
「聖君も、ちょくちょく遊びに来てくれよ」
「はい」
聖君はにこりと微笑んだ。
母は何も言わなかった。黙って、ちょっと泣くのを我慢しているように見えた。
「じゃあね、お姉ちゃん、お兄ちゃん。あ!杏樹ちゃんによろしくね」
「ああ、ひまわりちゃんも、うちに遊びにおいでね、杏樹、喜ぶから」
聖君はそう言って、私から凪を受け取り玄関の外に出た。私は靴を履き、玄関を出て何も家わずにバタンとドアを閉めた。
聖君は凪をベビーシートに寝かせ、運転席に座った。私は後部座席の凪の隣に座った。
「…お父さんとお母さん、泣きそうだったね」
聖君はそう言って、後部座席にいる私をバックミラーで見て、
「あ!桃子ちゃんも泣いてたのか」
とびっくりしていた。
「う…。ひっく。だって、お母さん、泣くの我慢してるし。そんなの見ちゃったら、私…。さっき、家を出る時も泣くのをこらえてたんだ。だから、何も言えなかったよ…」
「そっか」
聖君はエンジンをかけ、それから優しい声で、
「…また、すぐに遊びに来ようね」
と言ってくれた。
「うん」
車が発進してすぐに、凪は眠ってしまった。凪は車に乗ると、すぐに寝てしまう。きっと、自分が椎野家から榎本家に行くことも、何もわかっていないで寝ているんだろうな。
昨日の夜は、荷物の整理で慌ただしくて、しんみりする暇もなかった。母や父と話をしたり、家にお別れを言う間もなく、私と聖君は部屋に行ってしまった。
朝、聖君は凪を抱っこして、しっぽと茶太郎に挨拶に行っていた。猫たちも凪がいなくなって、寂しがるんだろうか。
凪が和室で寝ていると、よく横に来て丸まって寝ていたもんなあ。凪が起きてもしばらくは、凪の面倒を見てくれてた。茶太郎は自分の長い尻尾で、遊ばせていたっけね。
榎本家に行くと、今度はクロがお守りをしてくれるんだな。きっと、凪のこと、待ってるよね。クロ、凪のことが大好きみたいだもん。
榎本家に週末行くからね、と聖君が電話で話すと、聖君のお母さんは大喜びをしていた。お父さんはその場にいなかったけど、きっとお母さんから聞いて、めちゃくちゃ喜んだに違いない。ああ、杏樹ちゃんも。
ベビーベッドや、私たちのベッドは置いて行くことにした。それだけ、頻繁に、椎野家に遊びに行こうねと、聖君がそう言ってくれたのだ。
なんだか、今までは、椎野家にいたからか、榎本家に嫁いだっていう意識がなかったけど、これからはもう、榎本家の家族の一人、住人の一人になるわけだから、ちょっと緊張しちゃう。
それに、絵梨さんのことも…。
ドキドキしながら、私は車に乗っていた。
「桃子ちゃん?」
「え?」
「静かだけど、まだ、寂しい?」
「ううん。大丈夫だよ」
「…そっか。うん。榎本家は寂しくなりようがないくらい、いつも誰かいるしね」
「え?うん」
あ、私が父や母、ひまわりと離れちゃって、寂しがってるって思ったのかな。
「れいんどろっぷすで、お手伝いいっぱいするね」
「そんなに頑張らなくても大丈夫だよ」
「だけど、そろそろ混むころでしょ?」
「…まあね」
「それに…」
「絵梨ちゃんのことも、気になるし?」
あ、ばれてる。
「そうだな。さすがに奥さんがそばにいれば、絵梨ちゃん、言い寄ってこなくなるだろうな」
え?今、なんて?
「言い寄ってきてるの?」
「え?」
「絵梨さん。聖君に言い寄ってきてるの?」
「………」
聖君は黙り込んだ。あ~~~!言い寄ってきてるんだ。もうすでに。
「だから、俺、桃子ちゃんに早く来てって言ってたんだけど…」
「そんなに、言い寄ってきてるの?聖君が困っちゃうほど?」
聖君は何も言わず、前を向いたままだ。
「あのさ。もう一つ言っておかないとならないことがあるんだけど」
しばらくすると、突然聖君は話し出した。
「え?」
何?
「最近、客として、よく来るんだ。友達連れて」
「誰が?」
「…東海林さん」
「え?あの、ラブレターの?」
「うん」
え~~~~!初耳。
「たまに、麦ちゃんも一緒に来る。多分、俺に近寄らないように、監視するためだと思うけど、麦ちゃんから聞いてない?」
「何も聞いてない」
「そっか。じゃ、心配させないよう黙ってるのかな」
「でも、私がれいんどろっぷすに行ったら、わかることだよね?」
「…あ、麦ちゃんや、桐太に榎本家に移るってこと、言ってなかったや。っていうか、まだ誰にも俺、言ってないけど」
「私、蘭と菜摘、花ちゃんには連絡いれた。でも、桐太には忘れてた」
「…あいつに言ったら、毎日桃子ちゃんに会いに来そうだな」
「麦さんも?」
「うん。2人して、桃子ちゃんに会いに…」
「でも、桐太は聖君にも会いに行ってるんじゃないの?」
「う、うん。まあね。なんだか、男の勘だとか言って、絵梨ちゃんのこと、桐太は警戒しているよ。桃子のために、見張っておかないと…とか言いながら」
そうなんだ。私のためにって、そんなこと言ってくれてるんだ。
「桃子ちゅわん」
あれ?いきなり、甘えモード?
「あのさ。全然、絵梨ちゃんの前で俺にべったりしてていいからね」
「へ?」
「俺にべったりしててね」
「…え?なんで?」
「いいから。ひっついててね」
お店で?!
「奥さんなんだから、遠慮だけはしないでね」
なんで、そんなことを聖君は言うんだろう。いったい、絵梨さんって、どんな人なんだろう。それに、聖君にどんなふうに言い寄っているのかしら。
ああ、絵梨さんといい、東海林さんといい、私と聖君を悩ませる人たちは、あとを絶たないんだなあと、つくづく思ってしまった。
これも、全部、聖君がモテるからか。かっこいいからか…。
そんな人を旦那に持ったから仕方ないのか…。そういう運命なのか。…なんて、アホなことも思いながら、私は車に揺られていた。