第58話 聖君化
その日の夜、母とリビングでゆったりと話をしていた。凪は、母の腕の中で、母にあやされ、たまにきゃきゃきゃっと声をあげて笑っている。
「小百合ちゃん、来る時と帰る時と顔つきが違っていたわね」
「うん」
「良かったわね。元気になって」
「お母さんは大阪で、私を一人で育てていたんでしょう?大変じゃなかった?」
「大変だったわよ。そりゃあね。でも、アパートに同じくらいの年の子もいたし、そのお母さんとよく家を行き来して、悩みを相談し合ったりしたっけ」
「ふうん」
「それに、おばあちゃんは大阪まで見に来てくれなかったけど、お父さんのお母さんがね、見に来てくれたのよ」
「え?そうだったんだ」
「退院して2週間くらいはいてくれたの。助かったわよ。それまではちょっと、とっつきにくさもあったけど、桃子のことあれこれ面倒見てくれて、ご飯も全部作ってくれたりして…」
「へ~~~。そっかあ。あ、お父さんは?」
「お父さんも面倒見てくれたわよ?桃子が可愛くて、メロメロだったし」
「ふうん」
「まだ、あの頃はお父さんも平社員だったし、そんなに忙しくもなかったしね」
「じゃ、お母さん一人で、たとえば、育児ノイローゼになっちゃったりとか、そういうのはなかったんだね」
「それは私より、お姉さんの方ね」
「え?幹男君が生まれてから?」
「そう。おばあちゃん、面倒見なかったから」
「どうして?その時も結婚、反対してたの?」
「ううん。お姉さんの旦那さんのお母さんに気を使って、面倒を見に行ったりできなかったみたいよ。それに、実家にも帰れなかったみたいだし」
「それで、一人で育ててたの?」
「たまに私が見に行ってたの。でも、お姉さんは変に神経質で、それに完璧主義なところがあるから、育児も完璧にしようとしたのよね」
「完璧な育児?」
「そんなのないのにね。それで、思い通りにならないことが多くて、精神的におかしくなっちゃったわけ」
「……」
「私のほうが、どっか楽天的だし、適当だから」
「そっか…」
「桃子も、完璧は求めないでもいいと思うわよ?それより、あっという間に赤ちゃんは成長しちゃうんだから、育児も凪ちゃんの成長も、楽しんでいたらいいと思うわ」
「うん。そうだよね」
「ま、あなたの場合、旦那さんがあの聖君だから、大丈夫だと思うけど」
「え?」
「お姉さんの旦那さん、あ、幹男君のお父さんは、あまり育児に参加もしなかったみたいだから」
「じゃ、本当に一人だけで育ててたの?」
「……旦那さんのお母さんが、あれこれ口だけは出してたみたいだけどね?」
「そうか。じゃ、そういうことでも私、恵まれてる。聖君のお母さんやお父さん、本当に優しいし」
「そうよね。榎本家の雰囲気、とってもあったかくって、優しくって、いいものね~~。あなたのこともすごく大事に思ってくれてるのが、伝わってくるもの」
「うん!」
母にそう言ってもらえて、私はすごく嬉しかった。
「あ、凪ちゃん、眠くなっちゃった?でも、もうそろそろしたら、パパが帰ってくるわよ?」
「お父さんはまだ、接待ゴルフから帰ってこないの?」
「ちょっと遠くだったからね。多分、みんなで夕飯も食べてるんじゃない?」
「早く帰ってきて、凪に会いたいだろうになあ」
「そうねえ」
そんな話をしていると、玄関のチャイムが鳴った。
「あ、聖君だ」
私は、すぐに玄関にすっ飛んで行った。
「おかえりなさい」
「ただいま~~~~。桃子ちゃん」
ああ、超ご機嫌な聖君だ~~。ムギュ。いきなり抱きついてきたし。
「あれ?凪は?」
「お母さんが抱っこしてる」
聖君はリビングに行き、
「ただいま。な~~ぎ。いい子にしてた?」
と母に抱かれている凪の顔を覗き込んだ。
「ほら、パパよ。凪ちゃん」
母が聖君に凪を渡した。すると、凪は嬉しそうに微笑んだ。もう、パパだってわかるのかなあ。
「凪~~~。会いたかったよ~~」
聖君は凪に頬ずりをしている。
「きゃきゃきゃ」
凪、本当に嬉しそうだなあ。
「あ、そうだった。ほっぺ、赤くなってたんだよね。頬ずりもやめたほうがいいね」
凪を抱っこして、嬉しそうにしている聖君を見ていると、本当にありがたいなって思ってしまう。前は、凪に嫉妬までしてたけど、今は、凪を思い切り可愛がってくれてる聖君に感謝の気持ちまで湧いてくる。
それを私たちの部屋で、凪のことを寝かしつけている聖君に何気に言ってみた。
「え~~?感謝だったら俺の方がしてるって」
「私に?」
「うん。凪を無事、産んでくれて」
聖君はにっこりと可愛い笑顔を私に向けてくれてから、また凪に目を向け、ゆらゆらと揺れ出した。
「俺さ」
「え?」
「実は、凪が生まれてから、いろんなことを感じてるんだよね」
「いろんな?たとえば?」
「…。家族の大切さとか?それから、なんでもない日常の中にある、すんごい幸せとか?」
「なんでもない日常?」
「うん。いつもだったら、見逃してしまいそうな、ありふれてる日常生活の中に、実は宝物があるんだなあってさ」
「…うん。私もそう思う。毎日が宝物だらけ」
「だよね?」
「…」
そんなふうに聖君も感じてたんだ。なんだか、そういう聖君がやっぱり、好きだって思うなあ。
「でもさ。それって、いつの間にかまた、忘れちゃうかもしれないじゃん?」
「宝物のこと?」
「そう。忙しくなったり、日常に埋もれてしまって…。見失ったら、今度は日常がつまらなく見えたり、色あせたり、不幸に感じたりするかもしれない」
「…うん」
「そういうことがないように、しっかりといつでも、宝物を見ていようって思うんだよね」
「…」
「父さんや、じいちゃんがよく言ってるけどさ」
「なんて?」
「いつも意識を、今に向けててって。過去や未来のことばっかり見ちゃうと、今が留守になるよって」
「留守?」
「そう。素晴らしい宝物を、見逃すことのないようにねって。前に言われたよ」
「ふうん」
そういえば、おじいさんって、癌で半年の命って言われたんだっけ。それで、おばあさんと今を生きるようにしたって、言ってたっけなあ。
今…かあ。
私はぼ~~っとしながら、今目の前にいる聖君と凪を見ていた。それから、この部屋の空気や、匂いや、音をただ、感じてみた。
うん。なんだか、すご~~く幸せな気持ちになってくるなあ。
「聖君」
「ん?」
「私、今、すごく幸せ」
「…俺もだよ?」
聖君はまた、最高の可愛い笑顔で答えてくれた。
凪はいつの間にか、聖君の腕の中ですやすや眠ったようだ。だけど、聖君はすぐにベッドに寝かさず、しばらくゆらゆら揺れていて、凪がぐっすりと寝てから、そうっとベビーベッドに凪を寝かせた。
「あ、大丈夫だった」
そのまま凪がすやすや寝ていると、聖君はほっとした顔を見せた。
「……優しい」
「え?」
「優しいパパだなあって思って。絶対に凪はパパのことが大好きだよね」
「ママのことだって、大好きだと思うけど?」
「……パパは?」
「え?」
「ママのこと大好き?」
私がそう聞くと、聖君は私に抱きついてきて、
「大好きに決まってるじゃ~~~ん」
と嬉しそうにそう言った。
その時、一階から父の声が聞こえた。あ、帰ってきたんだなあ。
「9時半。今まで接待ゴルフ?」
「みたいだね」
「大変だね。朝も早かったんでしょ?」
「うん」
「凪のことも見れなかったし、お父さんきっと、寂しがってるなあ」
「明日は凪にべったりかも」
「うん。そうだね。明日のお風呂はお父さんに入れてもらおうか。っていうか、絶対に入れたがるね」
「うん」
聖君は私から離れ、凪の顔を覗き込んだ。
「寝顔見たいかなあ。寝顔見るだけでも、癒されるもんなあ」
「でも、お父さん、遠慮して2階には絶対に来ないよ」
「だよね。今までで一回も来たことってなかったもんね」
「そういえばそうだよね」
「…あ。そうだ。ひまわりちゃん、見てないけど。部屋?」
「まだ帰ってないよ」
「バイト?」
「多分、バイトのあと、かんちゃんとデート」
「へえ。こんな時間まで?」
「一緒にご飯食べてくるって、メールがあったらしいよ」
「仲良くやってるんだ」
「もう、あれだね」
私は凪のことを見ている聖君の背中に抱きつきながら、話しかけた。
「ん?」
「兄離れ、姉離れしちゃったね」
「ひまわりちゃん?」
「ちょっと寂しいね」
「クス。そうだね。どんどん妹たちが、兄離れしちゃうのは、寂しいね」
「特に、杏樹ちゃん?」
「まあね。あいつも、今、やすに夢中で俺のことなんて、どうでもいいみたいだし」
「前は聖君にべったりだったのにね?」
「え?」
「聖君に思い切り、杏樹ちゃん甘えてて、羨ましかったもん」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
なんだ。覚えてないの?私が、杏樹ちゃんみたいに甘えたいって言ってたのを。
「あ、でも、杏樹ちゃんは私や凪に、聖君を取られたって思ってないかな」
「思ってないって。どっちかっていったら、お姉ちゃんができたことを喜んでいたし。それになぜか、俺、疎まれてたりもしたし?」
「…」
あ。もしや、相当それ、根に持ってたり?
「でも。杏樹ちゃんはきっと、お兄ちゃんのことが大好きだよ。今も、前も、これからも」
「……」
聖君は黙り込んだ。あれ?なんで?
私は聖君の背中から離れ、聖君の顔を覗き込んで見た。あ、にやけてる。
「でへ。それってさあ。杏樹だけじゃなくって、凪も、桃子ちゃんもだよね?」
「うん。もちろん」
「でへへ」
にやついてるぞ…。
「俺、幸せ者~~」
そう言って聖君は、また私に抱きついてきた。
「今日、客でどうやら、もうすぐ結婚するってカップルが来たんだよ。式場のパンフや、新婚旅行のパンフを一緒に見てたんだ」
「へえ」
「朱実ちゃんが、あ、もしかして結婚されるんですか?って聞いたら、はいってそのカップルがうなづいて。ただ、なんだか、旦那さんになる方が、ちょっと顔が浮かなくって」
「え?なんで?マリッジブルー?男の人のほうが?」
「奥さんになる人、やたらと張り切ってて。温度差っていうのかな。なんだか、見てて感じた」
「ふうん」
「で、俺、つい食事を運びながら、言っちゃったんだよね。結婚って、いいですよ。最高っすよって」
「へ?」
「愛する奥さんが、いっつも家にいるんすよ?それで、赤ちゃんも生まれたりしたら、毎日バラ色っすよ…って」
バラ色~~?
「朱実ちゃん、それ聞いててクスクス笑って。お客さんはびっくりしてたけど」
そりゃそうだよね。いきなり、ウエイターにそう言われたりしたら。
「彼氏のほうが俺に、まさか、結婚してるの?って聞いてきたから、奥さんも娘もいますって答えたんだ。そうしたら、2人ともびっくりしてたけど、でも、俺があんまり結婚っていいですよって言ってるものだから、彼氏の方も、なんだか、顔つきが変わってきて」
「どんなふうに?」
「ふうん、そうなんだ。幸せそうだよね、本当にって。で、そのあとは、なんだか嬉しそうに彼女と話をしてた」
「男の人でもあるのかな。マリッジブルーって」
「さあ?女の人はあるの?あ、まさか、桃子ちゃん、あった?」
「ない。全然ない」
「…だよね。今、ちょっと焦っちゃった、俺」
聖君はそう言って、ホッとした顔をした。
「男の場合、なんだろうね。責任感とかもあるかもしれないし。家族ができるのって嬉しいけど、責任感じたりもするしね」
「…うん。なるほど。そういうのがあるのかあ」
「女の人のマリッジブルーっていうのは、どんななの?」
「私もよくわかんないけど、でも、前に結婚前にうちにエステに来てたお客さんがね、終わってからリビングでお茶しながら、お母さんに相談してるのを、ちょっと聞いちゃったんだ」
「うん」
私と聖君はベッドに横になって、話をしていた。聖君はさっきから、私の髪を撫でたり、頬を撫でたりしていて、ちょっとくすぐったい。
「本当にこの人でいいのかなあとか、この人とずっと一緒にやっていけるのかなあとか、そういう不安が出てきちゃったって言って、暗くなってたよ」
「…まじ?」
「うん。それで、お母さん、それは誰でも結婚前に感じるものよって。お母さんもあったって言ってた。同棲してた時には感じなかったけど、妊娠してからそう思っちゃったんだって」
「…まじ?」
聖君の手が止まり、顔が凍りついた。
「あ、言っておくけど。私にはないよ?だって、私は聖君と結婚するのも、一緒に住むのも、ずっと浮かれていたし。っていうより、最初の頃は実感がなくって、ふわふわしてたんだけどね」
「…うん。そうだったよね?」
聖君はまだ、顔が引きつっている。
「本当に私はないからね?聖君以外の人なんて考えられないし。聖君のそばにずっといられるってだけで、すんごく幸せだし」
「……桃子ちゅわん」
聖君は思い切り抱きしめてきた。
「俺も、桃子ちゃんと結婚、嬉しかったから」
「うん」
それ、十分すぎるほど、わかってる。だって、妊娠してるってわかった時の、聖君の喜びよう、半端なかったし。私のほうが驚いたくらい。
「ありがとう。聖君」
「え?何が?」
「あの時、すんごく嬉しかったよ」
「いつ?」
「妊娠してるって、聖君が知った時」
「…ああ、去年の夏?」
「すごく喜んでくれて、すぐに結婚だって言ってくれて」
「だって、すんごく嬉しかったんだもん。俺」
う。今の聖君も、めちゃ可愛い。
「聖君」
「ん?」
「可愛い~~~~」
私は聖君のことを、思い切り抱きしめた。
「それ、俺の専売特許」
「え?何それ?」
「だから、可愛いって言って、抱きしめるの。ま、いいけどさ」
聖君はそう言うと、しばらく黙り込んで、
「え?なんで俺のことが、可愛い~~だったの?」
と聞いてきた。
「可愛いものは、可愛いの」
「……あ、そう」
聖君は、照れくさそうにそう言った。
あ、照れてる。照れてる。そんなところも、めちゃくちゃ、
「可愛い~~~~~」
「だ~~。桃子ちゃん、俺で遊んでる?」
聖君は、どうやら、限界を超える寸前みたいだ。恥ずかしいのが限界を超えると、聖君はどうにかなっちゃうらしい。
「遊んでないよ。ただ、聖君が可愛くって」
「ああ、もう。いいってば。俺、どうにかなっちゃうから」
やっぱりね~~。ああ。そういうところも、可愛い~~~~。
心の中でそう言ってから、私はまた、聖君に抱きついた。
「むぎゅ~~」
と言いながら。
「なんだか、桃子ちゃんが、俺化している気がする」
聖君はそんなことを、ぼそっとつぶやいていた。