第57話 一人じゃない
土曜、昼前には椎野家に私たち家族は移動した。れいんどろっぷすから出る時には、お母さんもお父さんも、凪にしばらく会えないのが寂しいと、替わりばんこに抱っこして、大変だった。
杏樹ちゃんは、今日も部活だ。朝早くから元気に出て行った。
やすくんとは、まだ思いを告げたり、告げられたりしていないようだが、やすくんがお店に来ると、杏樹ちゃんに話しかけ、杏樹ちゃんはそれを喜んでいるようだった。ただ、やすくんの杏樹ちゃんに対する、照れくさそうな表情や、優しい目を杏樹ちゃん本人は、まったく気が付いていないようだったけど。
「杏樹ちゃんは、いったいいつやすくんの想いに気が付くのかな」
「そして、いつやすは、杏樹の想いに気が付くんだろうねえ」
新百合ヶ丘に向かう車の中、私はそんな話を聖君としていた。
「ま、いいんじゃない?お互い好き合っているのに、なかなか気づけないでいる。で、ドキドキしたり、一喜一憂している間も、けっこう楽しいもんだよ。なんつうの?その辺も恋愛の醍醐味っていうかさ…」
「そうかもね。片思いって辛いこともあるけど、楽しかったりもするもんね」
「桃子ちゃんもそうだった?」
「うん…」
「そっかあ。俺はあれだよなあ。桃子ちゃんを好きだって意識した時にはもう、桃子ちゃんの気持ち、知っていたしなあ」
あ、そうだよ。だから、私に片思いをしている時期なんて、聖君にはないんだ。っていうか、片思いなんてしないでしょ?聖君が…。
「まあ、会えなくって切なかったり、他の男に取られそうになって不安になったり、そんな気持ちは思い切り、味わっちゃったけどね。俺も…」
「え?!」
私が後部座席で、思い切りびっくりすると、ベビーシートに座っている凪が、目を丸くした。
「あ、凪。ごめん」
慌てて凪に、すぐに謝った。でも、凪はぐずることもなく、ちょっとうとうととし始めた。車の揺れが気持ちいいんだろうな。
「なんでそんなに桃子ちゃん、驚いたの?」
聖君は、バックミラーで私を見ながら聞いてきた。
「会えなくって、切なくなった時なんて、聖君にあるのかなって、ちょっとびっくりしちゃって」
「…あるよ。そんなの。いくらでも」
「うそ~~。いつ?」
「ええ?俺さあ、よくメールしてたよね。会いたいとか、会えなくて寂しいとか」
「…う、うん。そういえば」
「あれ、本音だったのにな。冗談だとでも思ってた?」
「う、うん。可愛いなあって思ってた」
「もう~~~!まじで会えなくて、俺は寂しい思いをしてたんだよ?」
「そ、そうだったんだ」
聖君はしばらく口を尖らしていた。でも、目は怒っていない。どっちかっていうと、甘えん坊の目をしている。う…。その表情も可愛いなあ。
「今思うと、信じられないけどさ」
「え?」
「受験の時、2週間とか平気で会わないでいたじゃん?」
「うん」
「もう考えられない。桃子ちゃんと2週間も会えない生活なんて」
「………ほんと?」
「本当だよ。隣りにいるのが、当たり前になってるんだから」
「…うん。そうだよね。私もそうかも…」
たった1日聖君が、どっかに泊りに行っても、すっごく寂しい思いをするかもしれないなあ。たとえば、サークルの合宿とか…。
「小百合ちゃん、今日の午後にでも桃子ちゃんの家に来たいって言ってたね」
聖君は唐突に、話を変えてきた。
「うん。まだまだ、落ち込んでるみたいだったな。昨日の電話でも暗かったもん」
「そっか~~。やっぱり、ご両親がいないってのは、きついことなんだなあ」
「確か、今日も輝樹さんは仕事だって言ってた。本当なら土曜は休みだけど、工場でトラブルがあったとかで、行かなきゃいけないとかなんとか」
「大変だね」
「うん」
「小百合ちゃん、和樹君とのんびりとしていったらいいね」
「凪と和樹君が、遊んじゃったりしてもいいの?」
「う~~~~ん。ま、今のうちだけは許そう」
なんだ?それ…。そのうち、遊んじゃいけないとか言い出しちゃうのかなあ。
凪はすっかり眠ってしまっていた。車って、そんなに眠りを誘うものなのかしら。もし、夜泣きするようになったら、聖君に凪を車に乗せてもらおうかなあ。
そんなこんなで、聖君とおしゃべりをしていたら、あっという間に椎野家に到着した。
「凪、まだ寝てるから、そっと降ろさないと」
「うん。俺が抱っこして行こうか?」
「ううん。大丈夫」
私はそうっと凪をベビーシートから、腕の中に抱っこして車を降り、ゆっくり玄関までの階段を上った。聖君はそのまま、車を駐車場に入れに行った。
チャイムを押すと、元気に母が出迎えたが、
「し~~。凪、寝てるの」
と言うと、母も声を潜めた。
「おかえりなさい。お昼は?」
「まだ、食べてない」
「じゃ、今、用意しちゃうから、凪ちゃんは和室に寝かせたら?」
「うん。あ、荷物は聖君が持って来てくれるから」
「そう?」
母はバタンと玄関のドアを閉め、それから和室に凪用のお昼寝布団を慌てて敷きにすっ飛んで行った。
私は凪を起こさないよう、またそろりそろりと歩いて、和室に行った。
「な~~~~」
「しっぽ、ただいま。今、凪寝てるから、静かにしてね」
足元にすり寄ってきたしっぽにそう言うと、しっぽは頭をあげて凪のほうを見て、それから、母の敷いた凪用の布団の周りをのそのそと歩き出した。
もしや、凪の世話でもしたいとか?添い寝がしたいとか?
そんなことを思いながら、凪をそうっと布団に寝かせると、やっぱりしっぽはすぐに、凪の横にごろりんと寝転がり、凪のことをしばらく眺め、それから自分の背中や前足を舐めると、寝る体制になった。
添い寝、したかったんだなあ。もしや、凪がいなくって、寂しかったとか?帰りを持っていたとか?
するとそこへ、どこからともなく、茶太郎もやってきた。そして、やっぱり凪の横にごろりんと寝転がった。
椎野家では、猫たちが凪のお守りをしてくれそうだな。じゃ、私はこの間に、母の手伝いでもしてこようかな。
キッチンに行き、ご飯の支度の手伝いをしていると、聖君が荷物を持って入ってきて、リビングに荷物を置くと、そのまま和室に入って行った。
それから、凪の寝顔を見入っていたんだろうか。ご飯よと母が声をかけるまで、和室から聖君は出てこなかった。
「しっぽと茶太郎が、添い寝してくれてるんだね」
聖君は嬉しそうな顔をしながら、和室から出てきた。
「うん。椎野家でも、子守をしてくれる猫がいて助かっちゃう」
私がそう言うと、
「榎本家では、クロちゃんが子守をしていたの?」
と聖君に母が聞いた。
「あ、そうなんです。クロ、凪のことが本当に可愛いみたいで、リビングに凪がいると、ずうっとその横にくっついているんですよね」
と、にこにこしながら聖君は答えた。
「お父さんやお母さんも、凪ちゃんに夢中になってたんじゃないの?」
「はい。取りあいをしてました」
「まあ、そうなんだ」
母が笑った。
「じゃ、杏樹ちゃんは?」
「杏樹も凪のこと、可愛がってました」
「そう。…ひまわりは、凪ちゃんのこと、そこまで可愛がっていないけどねえ」
「…」
聖君は、一瞬黙り込み、
「首がしっかりと座って、抱っこしやすくなったら、ひまわりちゃんも変わるかもしれないですよ」
と、にこりと微笑みながら母に言った。
「…そうなのかしらねえ」
母はそう言ってから、椅子に座り、
「じゃ、食べましょうか」
とお箸を持った。私と聖君もいただきますと言って、ご飯を食べだした。
「うまい」
聖君はいつものように、美味しそうに食べる。それを母が嬉しそうに見て、
「本当に聖君は、いつも美味しそうに食べてくれるから、作り甲斐があるわよねえ」
とそう言った。
「そうっすか?」
聖君は、口に入れたものを飲み込んでから、そう母に言うと、
「聖君がいない間は、ついつい手抜きになっちゃって。ひまわりに昨日もぶつくさ言われちゃったのよね。お母さん、最近、お惣菜買ってばっかり…って」
と、母は苦笑しがらそう答えた。
あちゃ。そうなんだ。
「エステの仕事、忙しかったんすか?」
「そうでもないんだけど、なんかこう、張合いがないと、お料理もする気がなくなるのよねえ」
私は聖君と黙って目を合わせた。もし、凪と3人で榎本家に行くって言ったら、母はもっと張合いがなくなって、がっくりしちゃうんじゃないだろうか。
ご飯を食べ終わり、お茶をすすっていると、和室から、
「な~~ご」
というしっぽの声と、凪の、
「ふ…。ふ…」
という本泣き寸前の、ぐずった声が聞こえてきた。
「あ、起きたんだ」
私はすぐに和室に行った。すると、凪の横でしっぽが凪の体にすり寄り、茶太郎は、凪の顔をくんくんと嗅いだり、頬にほほずりをしていた。どうやら、凪のことをあやしているようだ。
「凪。お腹空いたの?」
そう聞きながら抱っこをすると、凪は私の顔を見ながら、悲しそうな顔をした。
ああ、きっと今、ひもじいって感じてるんだろうなあ。
膝の上に乗せ、私は凪におっぱいをあげた。凪はすぐにおっぱいに吸い付き、元気よく飲みだした。
「相当お腹空かせてたかな?」
それを後ろから聖君は見て、ぽつりと言った。
「ん~~~~~」
しっぽと茶太郎は、思い切りののびをすると、和室を出て寝室のほうに行ってしまった。
「しっぽ、茶太郎。子守をありがとうな」
聖君はそんな2匹の後姿に、そうお礼を言っていた。
「凪ちゃん、おっぱい飲み終わったら、抱っこさせてね」
「うん」
母は嬉しそうに私の横で、凪の顔を見てそう言った。
「あ、そういえば、お父さんは?」
聖君は、今頃父の不在に気が付いたらしい。
「接待ゴルフ。最近はそんなのもなかったんだけど、凪ちゃんが帰ってくる日に限って、接待ゴルフが入っちゃって、ぶつぶつ言いながら、朝早くから家を出て行ったわよ」
「そうなんすか。大変ですね。じゃ、凪のこと、お風呂にも入れられないかなあ」
「そうねえ。今日は聖君、バイトに行く前に入れてくれる?」
「はい。いいっすよ」
聖君はにっこりと笑って、うなづいた。
2時を過ぎ、和樹君を連れ、小百合ちゃんが遊びに来た。運転手さんには、帰る時にまた、電話で知らせると言い、いったん帰らせた。
「ほんと、いいわね。運転手さんがいてくれるなんて」
母は玄関で小百合ちゃんを出迎え、そうつぶやいた。
「普通じゃないですよね。本当は私が早く、免許を取れたらいいなって思うんですけど」
「え?!小百合ちゃん、免許取る気でいるの?」
聖君がなぜか、驚いている。
「え?う、うん」
「…そうか。小百合ちゃんだったら、大丈夫かなあ」
それ、どういうこと?もしかして。
「でも、桃子ちゃんは、やめておいたほうがいいよ、きっと」
やっぱりね。そう言うと思った。
「そうね。桃子が車を運転なんて、自殺行為だわよ、うん。絶対」
母もうなづきながら、聖君に同意した。
なんで?なんでそう思われるのかなあ。運動神経がないからか、とろいからか。両方か…。まあ、自分でも危ないだろうなって思うけどね。
「和樹君、寝てるの?」
母が小百合ちゃんが抱っこをしている和樹君を覗き込み、そう聞いた。
「車乗ると、すぐに寝ちゃうんです」
「あ、凪と一緒だね」
聖君がにこっとした。
「和樹君も、凪の隣で寝る?布団はないけど、座布団じゃ、和樹君大きいし、おっこちちゃうかな?」
「あ、いいのがあるわよ。座布団が二つつながったくらいの、ちょうどいい長座布団ががあるのよ」
母はそう言って、和室に小百合ちゃんを連れて入って行った。
「凪の隣で寝るの?」
聖君が眉をしかめた。
「赤ちゃんなんだもん。隣りで寝たっていいじゃない。ね?」
私がそう言うと、聖君は、しかたないなあってぼそっと言って、ちょっと口を尖らせた。
凪は、おっぱいを飲んで、しばらくご機嫌でいたが、母が抱っこをしてしばらくゆらゆら揺らしているうちに、また気持ちがよくなって寝てしまった。そして、ずっと昼寝用布団に寝かせられていたのだ。
小百合ちゃんは、和樹君を長座布団にそっと寝かせその横に座ると、寝ている凪の顔を覗き込んだ。
「…凪ちゃんも、ちょっと顔が赤いのね」
「うん。最近、ほっぺがね。それにあせもや、オムツかぶれもあって。あ、でも、よくお尻を洗ってあげてたら、綺麗になってきたの。あせもは出たり引っ込んだりを繰り返してるんだけどね」
「そう…」
小百合ちゃんは、力なくそう言うと、
「和樹は…、このほっぺのブツブツがなかなか消えなくって。それに体にも、赤い湿疹が出てて、もしかして、アトピーかもしれないんだ」
と、もっとうなだれながら、そう言った。
「アトピー?」
私がそう言うと、母がいったんはダイニングに行ったのに、また和室に入ってきて、
「お医者さんがそう言ってたの?」
と小百合ちゃんに聞いた。
「はい。でも、この年齢だと、断定はできないって言ってましたけど…」
「そうよ。乳児性湿疹かもしれないんだし、小百合ちゃん、そんなに暗くならないで。それにね、もしアトピーでも、大丈夫だから」
「え?」
「うちの子たちも、特に桃子は小さなころ、肌が弱かったし、ひまわりはたまに、喘息みたいにヒューヒューなることがあったけど、成長するうちに、よくなっちゃったし」
「…」
母がそう言っても、小百合ちゃんの顔は暗かった。
「それに、桃子の従弟、私の甥っ子の幹男君も、アトピーだったのよ?小さなころは卵も食べれなかったの。でも、小学校入ってから、どんどんよくなって、卵も食べられるようになったし。心配しないでも大丈夫よ」
「そうなんですか。卵アレルギーも、治るんですね?」
「そう。だから、今から心配して、くよくよしないでも大丈夫」
母は力強くそう言った。
「…はい」
小百合ちゃんは、顔をあげ、ちょっとだけ微笑んだ。
そうか。そんなこともあって、小百合ちゃんは暗かったんだなあ。
「輝樹さんも、子供の頃、アレルギーがあったって。だから、和樹に遺伝しちゃったのかなって、すごく気にしてて…。でも、今じゃ輝樹さんだって、なんでも食べれるんだし、大丈夫ってことですよね?」
小百合ちゃんの言葉に、母は大きくうなづいた。
アトピー、喘息、アレルギー。他にも病気になるかもしれないし、子供を育てるっていうのは、やっぱり、大変なことなんだ。
だけど、生まれたその時から、親はその大変なことも背負って、責任もって、育てていかないとならないんだ。
ゴク。私にできるのかな。ちょっとだけ、不安な気持ちが顔をのぞかせた。
でも、隣にいる聖君を見ると、優しい目で和樹君と凪を見ていて、あ、そうだった。私一人じゃないんだったと、支えてくれる力があることを思いだし、安心した。
今は、小百合ちゃんも不安がいっぱいあるかもしれない。でも、輝樹さんだって、ご両親だって、理事長だっている。
一人じゃないんだもんね。子育てって。
それに、私も、小百合ちゃんという、同じ悩みを共有できたり、相談し合ったり、励まし合える友達がいる。小百合ちゃんにとっても、力になれる存在でいられたらいいなって思う。
「小百合ちゃん」
「ん?なあに?」
「私もね、凪の肌、赤くなったり、湿疹が出ると不安になるの。でも、きっと最初の子なんだし、みんなそんな不安の中、育てていくだよね」
「…そうだね」
「私も、これから小百合ちゃんに相談したり、話を聞いてもらうこと、あるかもしれない」
「…うん。いいよ。聞くよ、いつでも」
「ありがとう。…だから、小百合ちゃんも私に話してね?他の友達はまだ、結婚や出産もしたことない人ばかりだもん。私、小百合ちゃんがいてくれて、本当に心強いんだ。だから、小百合ちゃんも、何かあったら私のことを思いだしてね?」
「……」
小百合ちゃんの目が、きらっと光った。あ、涙で光ったのかもしれないな。
「ありがと、桃子ちゃん。私も、桃子ちゃんと聖君がいてくれるの、すごく心強いよ」
そんな小百合ちゃんと私を、聖君は交互に見て、
「…うん。一人じゃないんだ。小百合ちゃんも、みんなに頼りながら、和樹君を育てて行こう」
とにこりと微笑みながら、そう言った。
小百合ちゃんは、今度は鼻を赤くさせ、コクンとうなづいた。
小百合ちゃんの顔は、さっきまでの暗い表情がなくなり、目と鼻を赤くさせながら嬉しそうに微笑んで、優しい目で、和樹君のことを見れるようになっていた。