第56話 将来の凪とパパ
「桃子ちゃん、江の島にいるんだよね?」
「うん」
小百合ちゃんは、元気のない声で聞いてきた。
「いつ、新百合に戻る?」
「週末には戻るよ」
「じゃ、それから桃子ちゃんの家に遊びに行ってもいい?」
「うん。いいよ」
「……。なんか、行き詰ってるの」
「え?」
「子育て。私って全然ダメな母親なんだ」
「…駄目って?」
「……桃子ちゃんは、凪ちゃん可愛い?」
「うん」
「私は…。時々、夜中に泣いている和樹が、可愛く思えない時があって」
「…。夜泣きするの?」
「ううん。そんなにひどくない。でも、まだちょくちょく起こされちゃうの」
「そうなんだ」
「今、両親、コンサートのツアーに出てて、家にいないから、和樹の世話は輝樹さんとしているんだけど」
「2人で?」
「うん。でも、輝樹さんも会社があるし、平日は別の部屋で寝ているの」
「じゃあ、夜中は小百合ちゃんだけでみているの?」
「……輝樹さんは一緒に、和樹の世話をするって言ってくれるんだけど…。なんだか、申し訳なくって」
「でも、小百合ちゃん一人じゃ、大変じゃないの?」
「だけど…。輝樹さんも、仕事で疲れているみたいなの。残業も最近あるし」
「そっか。そうだよね。仕事で疲れてるのに、夜中も何度も起こされてたら、大変だもんね」
「…」
小百合ちゃんは黙り込んだ。
「小百合ちゃん、理事長は?」
「昼間、たまに和樹の面倒を見てくれるの。その間は私に、休んでいなさいって言ってくれる」
「そっか。ちゃんと理事長も見てくれるんだ」
「でも、和樹もだんだんと重くなってきたから、抱っこしているのも大変みたいなんだよね」
「…和樹君、けっこう大きな赤ちゃんだもんね」
「はあ」
「大丈夫?」
「うん。電話ありがとう。ちょっと話しただけでも、すっきりした」
「小百合ちゃんからも、いつでも電話してきてくれていいからね?」
「ありがとう…。聖君は、今でもいいパパしてるの?」
「うん」
「桃子ちゃん、江の島でも聖君のご両親が、凪ちゃんを見てくれたりするの?」
「うん。みんなで可愛がってくれてるよ」
「いいね…」
小百合ちゃん、相当疲れちゃってるのかな。声、本当に元気ない。
「あ、和樹、起きたみたい。ぐずりだしちゃった。じゃ、またね、桃子ちゃん」
「うん。週末、遊びに来てね」
「ありがとう」
電話の向こうで、和樹君の泣いている声がした。そして小百合ちゃんは慌てて電話を切った。
「そうか…。ご両親、今、いないのかあ」
やっぱり、旦那さんと2人で面倒を見るのって、大変なんだな。それに、旦那さんが働いていると、仕事に影響が出ても、大変だし…。
その日の夜、私は聖君に小百合ちゃんの話をした。
「そっか。和樹君は、夜中に何度も起きちゃうのか。大変そうだな」
「うん」
聖君はマットの上で、足を持ち上げ一人で遊んでいる凪を見ながら、
「凪はよく寝てくれるもんなあ」
とつぶやいた。
「そういえば、お尻の赤いの、どうした?」
「まだ、赤いよ」
「オムツ替えの時、お尻洗ってるの?」
「うん。ちゃんとシャワーで洗ってあげてる」
「凪、お尻やお腹、痛かったり痒かったりしないのかな」
「そうだよね。痒くても口に出して言えないんだもんね」
「昨日、ぐずってたっけ。あれ、痒かったからかな」
「あ、そうかもしれない」
聖君は、ご機嫌で遊んでいる凪の足を持って、
「な~~ぎ、パパと遊ぶ?」
と聞いた。凪は嬉しそうな顔をした。
やっぱり、私は恵まれているのかもしれないなあ。凪の世話をしてくれる人はたくさんいるし、聖君だって、こうやって夜、一緒に凪の面倒を見てくれるし。
凪ばっかり可愛がって…って、嫉妬していたこともあったけど、あの時だって、すごく恵まれていて、ありがたいことだったんだなあ。今さらながら、聖君に申し訳ない気持ちになってきちゃった。
「聖君」
「ん?」
凪の足を動かして、遊んであげている聖君は、ちらっと私の顔を見た。
「いつも、ありがとう」
「……ん?」
「私って、恵まれてるんだなあってつくづく思って」
「恵まれてる?」
「こんなに優しくって、子煩悩な旦那さんで…」
「あはは。そういうことか」
聖君は目を細めて笑うと、また凪と遊びだした。凪は嬉しそうに、きゃきゃっと高い声を出して笑っている。
「俺も、こんなに可愛い奥さんと娘がいて、恵まれてるなあって思うよ?」
「え?」
「すげえ、幸せ者だよなって、いっつも思ってる」
聖君はそう言って、私を優しく見た。
思わず、私は聖君の背中に抱きついた。
「桃子ちゃん。今、襲ってきても、凪、まだ起きてるし…」
「襲ってるんじゃないもん。愛しくなっただけ」
「……愛しくなると、襲いたくなるの?」
「だから、襲ってるんじゃないの。抱きつきたくなっただけだから」
「う~~~ん。その違いが俺にはわからない」
「え?」
「俺の場合、桃子ちゃんに抱きつきたいって衝動にかられた時には、そのあと、押し倒したいっていうのもセットになってるからなあ」
「スケベ親父」
「…はいはい。スケベ親父ですよ」
あ、開き直ってる。
「でも、こんなスケベなパパでも、凪は大好きだよね?」
「うきゃ!」
凪は聖君がお腹をくすぐったら、また声を出して笑った。
スケベ親父でも、喜んでいるのは赤ちゃんの時までかもよ…。と心の中で思ったけど、聖君には言わなかった。
将来、凪が聖君をうっとおしいと感じたり、反抗期が来たりするときはあるんだろうか。
わかんないけど、もし、聖君がそれで落ち込んだ時には、慰めてあげよう。抱きしめたり、キスしたりして。
あ、それだって、襲ってることにならないし、どっちかっていうと、あれかな。母性みたいなものかな。
そうか。母性か…。その辺が、男と女の差かしら。なんちゃって。よくわかんないけど。
凪は、眠くなってきてぐずりだした。聖君が抱っこして揺らしてあげると、すぐに目を閉じたが、マットに横にすると、また目を開けてぐずりだした。
「あ、今日もダメか」
「痒いのかな?」
「あ、そうか。それでかもなあ」
聖君はまた、凪を抱っこした。そして背中をぽんぽんとしながら、ゆらゆらと部屋の中を歩き回った。
凪はまた、ちょっとすると目を閉じた。だけど聖君はすぐには、マットに寝かせなかった。
10分、そのまま聖君は凪を抱っこしながら、ゆらゆらしていた。
「…もう大丈夫かな?」
聖君はぐっすりと寝てしまった凪の顔を見て、そうっとマットに寝かせた。凪はもう、目を開けずにすやすやとそのまま眠っていた。
「可愛い寝顔だな」
聖君は、しばらく凪のお腹を優しくぽんぽんとして、凪のことを見ていた。
やっぱり、これだけ優しくって、大事にしてるんだもん。凪が聖君をうっとおしいと思ったり、反抗するときなんて来ないかもしれないなあ。
もし、私にこんなパパがいたら、そりゃもう、友達に自慢しまくっているかも。それに、どこでも連れて歩いちゃうかもなあ。
「凪が中学3年くらい、15歳の時って、聖君はいくつ?」
凪のことを見ている聖君に、私は突然質問をした。
「え?15?」
「うん。34歳くらい?」
「そうだね」
「今の聖君のお父さんよりも若いね」
「うん」
「…じゃあ、凪、パパと喜んでデートとかしちゃうかもね」
「へ?」
聖君は目を丸くして、
「桃子ちゃん、今から、ジェラシー感じてるとか?」
と聞いてきた。
「ううん。そうじゃなくって。どんな親子になるのかなあって、ちょっと今想像していたの」
「ふうん」
聖君はそう相槌を打った後に、しばらく宙を見つめた。あ、今、聖君も妄想している?
「桃子ちゃんは、33歳くらい?若いママだね。きっと親子って言うより、姉妹みたいだろうね」
あ、私のことを想像していたの?
「授業参観ではさ、わっかいママが来たって騒がれるかもよ?」
「小学校の?凪が10歳くらいだったら、聖君は29歳くらい?」
「桃子ちゃんは、28歳かな?」
「……。そっか。きっと若くってかっこいいお父さんだって、クラスの子も羨ましがって、先生が若い女の人なら、頬を染めちゃったりして、周りのお母さんたちも、目をハートにしたりするんだろうね」
「はあ?」
聖君は、呆れたって言う顔を思い切りしてみせた。
「そうだよ、絶対に自慢のパパになるよ。みんなに凪ちゃんのパパ、かっこよくっていいな~~なんて言われて」
「……はいはい。なんだか、すごい妄想してるね」
妄想?ううん。きっと起こるだろう未来だよ。
「聖君」
「ん?」
「先生が美人の先生でも、誘惑されないでね?」
「は?」
「お母さんたちが、いくら言い寄ってきても、仲良くしたりしないでね」
「………」
あ、聖君。呆れてとうとう何も言えない状態になってるかも。
「桃子ちゃんも」
「え?」
「もし担任が男の先生で、先生が桃子ちゃんに言い寄ってきても、無視してね。無視!」
「え~~。そんなこと絶対にないから安心して」
「わかんないだろ、こんな可愛い若いお母さんなんて、そうそういないだろうし。俺、心配だなあ」
呆れてものが言えなくなった。私のほうが…。
「桃子ちゅわん!」
聖君はいきなり、抱きついてきた。
「浮気は駄目だからね?」
「しないってば」
もう。こんなにかっこいい旦那さんがいるのに、浮気なんてするわけないじゃない。
「あ、でも」
「え?」
「あんまり私のことほったらかしにしていたら、わかんないな」
なんて、ちょっと意地の悪いことを言ってみたりして。
「ほっとかない。絶対にほっとかない。こうやって、毎日でも桃子ちゃんのこと、愛しちゃうから」
いや。毎日はちょっと…。っていうか、今日も、ちょっと…。
「桃子ちゅわん」
「もう、12時だよ?明日も聖君、大学なんだし、寝ようね?」
「え?」
聖君の顔が青ざめた。
「おやすみなさい」
私は聖君の腕からするりと抜けて、電気を消し、布団に潜り込んだ。
「も、桃子ちゅわん。俺、朝、ちゃんと起きれるから…」
「私が起きれないもん」
「桃子ちゃんは、ゆっくり寝てていいから」
「でも、7時前にきっと、凪に起こされちゃうもん」
「凪も俺が、面倒みるから~~~」
「でも、おっぱいあげないとならないもん」
「寝てる桃子ちゃんのおっぱいに、ちゃんと凪を吸い付かせるから~~~」
なんだ~~。それ!
「駄目。今日は眠いし、もう寝る。おやすみ、聖君」
「………」
ぼそ。聖君が何かを言った。あ、なんとなく、浮気してやるって言ったような気が…。
「ほんと?本当に聖君、浮気しちゃう?」
私はちょこっと起き上がり、聖君の顔を覗いた。
「…でへ。今日も愛し合っちゃう?その気になった?」
ム…。
「ならない。浮気したいなら、いいよ」
なんとなく頭に来て、そう言って背中を向けると、
「うそ。うそうそ。浮気なんてする気全くないから。桃子ちゅわん。へそ曲げないで」
と言って、私の布団に潜り込み、聖君は私を後ろから抱きしめた。
「……ほんと?」
「ほんと。浮気なんか俺がするわけないじゃん」
「…でも、しちゃおうかなって、さっき」
「冗談だって」
「でも、そう言った」
「うそ。あんなの、嘘だから」
「……」
「ごめん。冗談でももう言わない」
聖君はビトッと私にくっつき、しばらくごめんと言い続けた。
「聖君」
「ん?」
「もう眠い…」
「う、うん。おやすみ。あ、俺、このまま桃子ちゃんの布団で寝てもいい?」
「うん」
「おやすみ。桃子ちゃん。いい夢見てね」
「…うん」
「俺が浮気してる夢とか、見ちゃだめだよ?」
「…それは、どうか…な」
スウ。それだけ言って私はどうやら、寝ちゃったようだ。
そして、案の定、聖君が綺麗な女の人と、2人っきりでいるところを見てしまうという夢をみてしまった。
場所は教室。多分、小学校だ。小さな机と椅子が並んでいる。
相手は多分、凪の担任の先生だろう。2人きりで教室で、凪のことを話している。
なんでだか、私は廊下にいた。先生は聖君に大接近をして、嬉しそうに頬を染め、話をしている。聖君は廊下に私がいるのにもかかわらず、先生と楽しそうに話している。
聖君。浮気は駄目って言ったのに。
聖君。浮気はしないって言ってたのに。
う…。泣きそうになった時、ぎゅうっといきなり聖君に抱きしめられた。
あ、あれ?なんで?先生といたのに、どうしてここで聖君は私を抱きしめているの?
「桃子ちゅわん」
そう言って、聖君は私を抱きしめる。
重い。腕が…。
パチ。目が覚めた。すると本当に聖君が私を抱きしめたまま、眠っていた。にへらってにやつきながら。
ああ。そうだった。聖君、私の布団で寝てたんだった。
聖君の頬にキスをした。すると、
「でへ」
と聖君はもっとにやけた。あれ?起きてる?…。ううん。寝てる。
こんなにやけ顔を見たら、きっと若い先生もお母さん方も、引くだろうなあ。なんてわけのわかんないことを思いながら、私は聖君の寝顔を見ていた。
スウスウ。聖君の寝息がかかる。にやけた顔がいつの間にか、かっこいい寝顔に変わった。
あ~~あ。かっこいいなあ、寝ていても…。って思っている私って、やっぱりそうとう聖君に惚れてるよね。
「浮気、ダメだからね?」
寝ている聖君の鼻をつまんでそう言うと、なぜか聖君は、
「はい…」
と答えた。起きてる?ううん。寝てるよね。