第54話 奥さんの自覚
夜、夕方絵梨さんたちがリビングにいたので、凪をお風呂に入れられなくなり、聖君が久々に凪をお風呂に入れた。
「桃子ちゃん、凪、出るよ~~」
「は~~い」
凪を受け取りにバスルームに向かった。
「はい、凪、ぴかぴかになりました」
聖君は満面の笑みを浮かべ、広げたバスタオルに凪を乗せた。
「気持ちよかった?凪?」
「あ~~~」
わあ、めっちゃご機嫌だ。お風呂好きだよね、凪って。
それからリビングで、凪の体を拭いたり服を着せたり。でも、凪は足も手もよく動かすので大変だった。
「凪ちゃん、お風呂気持ちよかった~~?」
お父さんがそんな凪に声をかけた。凪はお父さんのほうを見てにこにこした。
「そのうち、寝返りしたり、ハイハイしだしたら、大変だろうね」
「え?」
「今はまだ動かないから楽だけど、動けるようになると、目を離せなくなるからさ。いろんなところにガードを置かないとならないね」
「ガード?」
「階段の前とか、ああ、店に行くドアのほうにも置かないとね。段差は危ないしね」
「あ、そうですよね」
「そういうのも、聖の時のがあると思うんだけど、今度探しておかなくっちゃな~」
そうか。凪って手がかからないって思っていたけど、本当に大変なのはこれからなんだ。
凪は哺乳瓶で、湯冷ましをコクコクと飲むと、横に来たクロの尻尾に手を伸ばして遊びだした。クロは本当によく、凪の面倒を見てくれている。
「あ、凪ちゃん、お風呂出たの?桃子ちゃんもいいわよ、お風呂入ってきて」
お店からお母さんが来て、そう言ってくれた。
「はい、じゃあ、入ってきます」
着替えを持って、バスルームに行くと、まだ聖君は一人でバスタブにつかっていた。
「あ!桃子ちゃん、お風呂入るの?」
「うん」
すると聖君はジャバッとバスタブから出て、
「体と髪、洗ってあげる~~~」
とにこにこ顔でやってきた。
「凪までお風呂に入れてあげたのに、聖君、のぼせない?」
「全然!」
聖君、鼻歌交じりで私の背中、洗い出しちゃったしなあ。元気だよなあ。
「そうだ。朱実ちゃん、今月いっぱいで辞めるって」
「れいんどろっぷすを?」
「うん。彼氏が忙しいじゃん?会えるの土日だけだから、土日はバイトしないで、彼氏との時間に当てたいんだってさ」
「そうなんだ。寂しくなるね」
「だね。朱実ちゃん、長かったしなあ…」
聖君の声はフェイドアウトしていった。
「…なんかさ」
「?」
思い切り、声、沈んでない?もしや、落ち込んでる?鼻歌も消えたし。
「バイトやパートさんって、家族みたいなものだから、辞めちゃうとまじで、寂しいんだよね」
やっぱり、落ちてた。
「ほとんど毎日顔合わせてるし、一緒に仕事もしてるし…。家族か、兄弟みたいな気持ちでいるから、それなのに店にいきなり来なくなるわけだからさ、最初の頃かなり、こたえちゃうんだよね」
「こたえちゃう?」
「…いない寂しさ…。間違って名前呼んじゃって、ああ、もう、いないんじゃん……。なんて寂しさ」
「そういうことを、毎回感じてたの?聖君。今までにもバイト辞めた人っているでしょう?」
「いるよ。高校の頃、バイトしてくれてた人、2年も続いてた。やっぱり辞めた後はしばらく寂しかったな」
「そ、それ、女の人?」
「え?うん」
そ、そうなんだ。いなくなって、寂しいって思うような女の人がいたのね。
「朱実さんのあとはどうするの?」
「…ん?」
聖君の声はまだ、沈んじゃってる。
「誰か、雇うの?」
「あ~。母さん、絵梨ちゃんがバイト探してるって言ってたから、当たってみようかなって言ってたけど」
え?!!!!!
「絵梨さんって、今日来た」
「そう」
うそ!
「で、でも、あの人、聖君と結婚しようとまでしてた…」
「あはは。桃子ちゃん、あんなの子供の頃に言ってただけで、あっちだって本気じゃないって」
本気だよ。リビングでもずっと泣いてたんだから~~。
「だいたいさ、俺ってまだ5歳だったんだよ?そんな俺をずっと思い続けてるわけないじゃん」
「そ、そんなこと」
「10何年もたっていたら、どんなふうに変わるかわかんないんだし」
「かっこよくなってたら?」
「………だったら、何?」
聖君は私の体を洗う手を止め、私の顔を覗き込んだ。
「俺にはもう、奥さんがいるんだから、向こうだってあきらめるさ。っていうか、今日の時点でもう、あきらめたんじゃない?」
だったら、いいけど…。もし、あの人がれいんどろっぷすで働くんじゃ、複雑な気分だ。
「聖君」
「ん?」
「浮気はしないでね」
「……」
聖君は黙り込んだ。あれ?どうして?
「もう!桃子ちゃんってば。俺が浮気なんてするわけないじゃん~~~~~!!!」
あ、思い切り後ろから抱きしめられちゃった。
「今日も桃子ちゃん、めちゃくちゃ可愛い~~~~」
………。一気に聖君のテンション、あがっちゃったな。
お風呂からあがり、凪を連れて2階に上がった。そして、また聖君は凪と遊びだした。
「今日も聖君、大学でモテた?」
「モテないって」
「じゃあ、サークルはあったの?」
「ないよ」
「じゃあ、あの…、東海林さんだっけ?今日会った?」
「会わないよ。学部が違ったらそうそう会わないもん。今日は俺、ずっとA棟にいたし」
「ふうん」
あ~~あ。大学、一緒に行ってずうっと聖君にべったりくっついていたいなあ。
ベタ。思わず、聖君を後ろから抱きしめた。
「…迫ってるの?もしかして」
「ううん。甘えてるだけ」
「…襲ってきてもいいよ?」
「…襲わないよ~~」
もう。聖君は、何を言ってるんだか。
「桃子ちゃん、今週末に椎野家に帰ろうか?」
「…」
「あれ?帰りたくないの?」
「ううん。ただ…」
「?」
聖君は凪がぐずりだしたので、凪を抱っこしてから、私を見た。
「…ちょっと、気になるなあって思って」
「何が?」
「絵梨さん」
「なんで?」
聖君はキョトンとした。そんな聖君のほっぺを凪が触っている。
「なあに?凪。眠くないの?パパとまだ遊ぶ?」
「う~~~」
あ、ぐずってる。早く寝かせろって催促かなあ。
「眠いの?ご機嫌斜めだね」
「う~~~~~~~」
本当だ。機嫌悪い。
聖君は凪を揺らしながら、背中をぽんぽんとしている。
「子守唄でも歌う?っていっても、俺、子守唄わかんないしなあ」
凪は聖君が背中をぽんぽんとしているからか、だんだんと大人しくなっていった。
「あ…、寝たかな?」
しばらくして、凪がすっかり目をつむったので、聖君は布団に凪を寝かせた。が、寝かせた瞬間に凪が目を覚ましてしまった。
「あれ?」
「う、う~~~~…」
「凪、寝たんじゃないの?またぐずりだしちゃった」
「機嫌悪いね、今日。私が今度は寝かせようか?」
「いいよ。大丈夫」
聖君はまた、凪を抱っこしてゆらゆら揺れ出した。私はそんな聖君を、ボケ~~っと見ていた。どこからどう見ても、イケメンの聖君は、凪を抱っこしているとちゃんとパパに見えるから不思議だ。
「今度は、ちゃんと寝たかな?」
聖君はそうっと凪を抱っこしたまま、あぐらをかいた。凪はすっかり眠りについたようだ。
それから、そおっと凪を布団に寝かせると、聖君は凪に布団をかけ、しばらく凪の寝顔に見入っていた。
「…可愛いなあ」
「いつも寝かしつけてくれて、ありがとね」
「…いいよ。凪を抱っこしてるの、幸せだし」
聖君はそう言うと、やっと凪から離れ、自分の布団に寝転がった。
「絵梨さんのことだけど、心配いらないよ。それに、うちで働くのも来月からになると思うし」
「そっか」
「それとも、そろそろうちに来ちゃう?」
「え?」
「椎野家から榎本家に来る?」
「…う~~~ん、そうだな。そっちのほうが聖君は楽だよね?」
「…どうかな。うちにいるとやたらと店にかりだされるから、桃子ちゃんちにいるほうが、楽かもしれないし」
「そうなの?」
「でも、ここにいるほうが、桃子ちゃんや凪といる時間が増えるかなあ。店の休憩時間とかも会えるもんね」
「うん」
「だけど、桃子ちゃんのお母さんとお父さん、寂しがるよ」
「…でも、いつかは榎本家に来るんだし」
「…まあね」
「私、榎本家のお嫁さんなんだもんね?」
「…あれ?」
聖君は私の顔に顔を近づけ、目を丸くしている。
「なあに?」
「俺の奥さんだって自覚が、しっかりとあるんだなあって思って」
「…もうあるよ。ちゃんと」
「へえ、そうなんだ。でも、いったいいつから?」
「わかんないけど。あ、凪が生まれてからかもなあ」
「…お嫁さんかあ。いいね、その響き。あ、そうか。じゃ、俺が椎野家にいるのって、サザエさんのマスオさん状態なのか」
「…そうだね」
「ま、それもいいけどね。椎野家、楽しいし、ひまわりちゃんも楽しいしさ」
「…う~~ん。そうなんだけどね」
「むぎゅ」
え?なんで鼻をつまむの?聖君。
「桃子ちゃんは、絵梨さんのことが気になってるんでしょ?」
「……」
う…。そうかも。
「じゃ、いったん椎野家に戻って、来月にこっちに来たら?そんなに気になるならさ」
「……呆れてる?」
「いや、別に」
「…ほんと?」
「浮気はしないけどね?俺」
「…うん。わかってるけど…」
むぎゅ。あ…。また鼻をつまんだ。
「なんなら、絵梨さんの前で思い切りいちゃついてみるってどう?奥さん」
「え?無理だよ。何言ってるの!」
「あはは。もう、桃子ちゃんってば。俺の奥さんの自覚あるくせに、まだ照れ屋さんだよね?」
それとこれとでは、話が違うと思うんだけど。
「それより桃子ちゃん。凪、寝たよ?まだ、11時になってないし…」
「え?」
「襲ってきていいよ?」
「襲わないよ~~」
「せまってくれても、かまわないよ?」
「せまったりもしないから」
「なんで?」
「…なんでって?」
「本当にいいの?」
「……」
聖君が、すごく甘える目で私を見てる。なんだろうなあ。その目…。可愛すぎるけど、何か新しい手かな?
「本当にいいの?俺、寝ちゃうよ?」
もう、何それ。やっぱり、そう言って私の反応を見てるんだ。可愛い上目遣いをして。
「じゃ、おやすみ」
聖君はくるりと背中を向け、布団をかけるとわざとらしく寝息を立てた。
…まさか、もう寝たわけじゃないよね?この人、そういえば、寝つきが異常なほど早かったっけ。
そ~~。私は聖君の顔を覗き込んで見た。
「すう……」
寝てる?寝てるの?
まさかね?でも…。本当に寝ちゃったの?
なんだか、ちょっと寂しいかも。
じ~~~っと聖君の布団を見つめた。別々の布団で寝るのが、やけに寂しくなってきた。
「……」
寝ちゃったんだとしてもいいや。聖君の布団に潜り込んじゃえ。って、聖君の布団にもそもそと私は入り込んだ。
あ、あったかい。それに、聖君の匂いがする。幸せかも…。
「なんだよ」
え?
「やっぱり、襲いに来たんじゃん」
「起きてたの?」
狸寝入り?
「も~~、桃子ちゃんってば!」
聖君はくるりと体をこっちに向けて、私を抱きしめてきた。
「襲いに来たんじゃなくって」
「いいの、いいの。言い訳しないでも」
「ほんとに、一緒の布団に寝たかっただけで」
「いいから、いいから」
もう~~。本当だってば。
「桃子ちゃん、優しくしてね?」
「な、何を言ってるの?!」
「ほら、大きな声出すと凪が起きちゃうよ。し~~~」
「あ…」
私は上半身起き上がり、凪の顔を見た。凪は気持ちよさそうにすやすやと寝ている。
「よかった。寝てる」
「じゃ、早速」
「え?」
聖君はもそもそとTシャツを脱ごうとして、
「あ、それとも、桃子ちゃんが脱がせてくれる?」
と途中で聞いてきた。
ブルブル。私が首を横に振ると、
「ちぇ」
と言って、またTシャツを脱ぎだした。何が「ちぇ」だよ~~。
「桃子ちゃんは自分で脱がないの?」
ブルブル。私はまた首を横に振った。っていうか、聖君。私、今日いいよなんて、一言も言ってないなけどな。
「しょうがないなあ。桃子ちゃんは」
そう言うと、聖君は私のパジャマのボタンを外しだした。
しょうがないのは、聖君のほうだよ。
でも、結局、私も抵抗できず、聖君の甘いキスでとろけちゃうんだよね。いっつも…。
「桃子ちゃん…」
聖君が熱い目で私を見て、ささやいた。
「やばいって。またキスうまくなったよね?」
……。
「ええ?」
ブルブル!私は思い切り首を横に振ったけど、
「もう、桃子ちゃんってば」
と聖君はなぜか恥ずかしがって、わざとらしく顔を赤くして見せた。
キスがうまくなったのは、絶対に聖君の方だから。って言おうとしたけど、聖君にまた唇をふさがれ、言えなくなった。
ほら…。クラッときた。
「聖君」
「ん?」
「他の人には絶対にこんなキス、したりしないでね」
「…するわけないでしょ。いったいどんなシチュエーションで、他の人とキスするんだよ?」
「…相手から、唇を奪われたりとか」
「そんなドジふまないから、大丈夫。そう言う桃子ちゃんのほうが、俺は心配」
「え?」
「大学でも、変な奴につかまってたし。なにしろ、桐太のこともあったしなあ」
「…あれは、だって…。桐太が勝手に」
「……なんだか、無性に心配になってきちゃった」
「もう!私だって、もっとしっかりするもん。聖君の奥さんなんだから」
「ほんと?」
「本当。もうナンパされたり、変な人に捕まったりしないから、大丈夫」
「本当かな」
「本当に」
聖君はまた、私にキスをしてきた。
「桃子ちゃんの唇に触れていいのは、俺だけだから」
「…うん」
それを言うなら、聖君の唇に触れていいのも私だけだもん。
ギュウ。そんなことを思いながら聖君に思い切り抱きついた。
「聖君」
「ん?」
「大好き」
「…うん」
そして、なんとなくだけど、今夜は私からキスしちゃったり、抱きついたり、ちょっとだけ大胆になっちゃった気がする。
桐太が言ってたっけ。せまってみたらって。
そうだよね。奥さんなんだし、私からせまっちゃってもいいんだよね?
ちょっと、うずうずっとそんな気がしてきちゃって、聖君の胸に思い切り抱きついてしまった。
「桃子ちゃん」
「え?」
「俺、2回は無理かも。もう眠い」
「え?」
2回?ち、違う。私はただ、抱きつきたくなっただけで…。
「おやすみ。眠いからこのまま俺、寝ちゃうよ。服着なくてもいいよね?」
「…うん」
「スウ~」
あ、本当に寝ちゃった。早すぎるぞ~~~。今度は狸寝入りじゃないよね?
私はしばらく聖君の寝顔を見て、それから聖君の胸に顔をうずめて目を閉じた。
明日まで、裸のままで抱き合って寝ちゃうのか。一緒の布団で…。
聖君の素肌に触れながら寝るのは好きだ。聖君の胸はあったかいし、寝息や鼓動が聞こえてくるのは、すごく安心できて幸せな気持ちになれるんだよね。
そうして私も、すっかり安心しきって、いつの間にか眠りについていたようだった。




