第40話 杏樹ちゃんの恋
その日、3時の休憩に聖君はやすくんをリビングに呼んだ。私は凪と一緒にリビングで休んでいて、お父さんは打ち合わせがあるからと、家にはいなかった。
「やす、コーラでよかった?」
「はい」
聖君はコーラの入ったグラスを二つと、私にはソーダ水を持って来てくれた。
「客も今、あんまりいないし、のんびりしちゃおうっと」
そう言って聖君は凪を抱っこして、リビングに座った。
「な~~ぎ」
ああ、目じり下げまくりのデレデレ聖君だ。
「かわいいっすね」
聖君の横でやすくんも、凪を見てそう言った。
「お前、赤ちゃん好き?」
「はい。俺、世話好きだし」
「子供の?」
「俺の父親の妹、つまり俺のおばさんなんですけど、もう孫がいて」
「へえ、そうなんだ」
「2歳の女の子と、まだ半年の男の子がいて、すげえ可愛くって。結構近くに住んでるんで、俺、しょっちゅう遊びに行って世話してるんです」
「知らなかったな。子供好きなのかあ」
聖君は嬉しそうに、やすくんを見てそう言った。
「だから、本当は凪ちゃんの世話もしてみたかったんすけど、悪いかなあって思って」
「なんで?」
聖君が聞いた。
あれ?聖君、自分でやすくんに、凪に目をつけるなよって言ってこと忘れたの?
「よかったんですか?凪ちゃんのこと抱っこしたりしても」
「…う、う~~ん、そうだなあ」
あ、聖君が悩んでる。
「ま、いいかな。やすなら」
「え?」
「俺、結構お前のこと気に入ったし!」
そう言うと聖君は、凪をやすくんの腕の中にひょいと預けた。
「うわ、可愛い」
やすくんの目じりも下がった。それから、凪のことを揺らしたりあやしたりし始めた。凪は嬉しそうに声を立てた。
「ほんとだ。上手だね、赤ちゃんの扱い」
私がそう言うと、やすくんははにかんで笑った。
「聖さんって、モテるじゃないっすか」
唐突にやすくんは、聖君にそんなことを言いだした。
「え?俺?」
「はい。すげえ、モテるけど、桃子さん、一筋ですよね?」
「ま、まあな」
聖君は頭をぼりって掻いた。
「それって、どうしてですか?」
「へ?何?その質問」
「俺の周りの奴で、やっぱ、顔が良くってモテてるやついたんですけど、女とっかえひっかえしていて、本気で好きになったこともないって言ってて」
「ふうん、そいつが言うんだからそうなんじゃないの?本気で好きになった子がいないってだけだろ?」
「…本気で好きになる子が現れたら変わるんすかね」
「…そうなんじゃないの?」
「…そっか。聖さんには、本気で好きになれる子が現れたってことなんだ」
「……」
聖君はまた、頭をぼりって掻いた。
「それに、本気で好きになってくれる子だったってのも、でかいかなあ」
「あ、桃子さんがですか?そうっすよね。桃子さん、聖さんにくびったけですもんね」
くびったけ?うわ。私の顔がどんどん熱くなった。きっと真っ赤だ。
「そう言う言い方やめて。桃子ちゃんが照れるから」
聖君はそう言いながらも、自分も顔を赤くしていた。
「結婚して子供もいるのに、本当に2人は可愛いカップルっすよね?」
「彼女もいないお前に言われたかねえよ」
聖君はそう言った後、凪のことを覗き込み、
「ねえ?凪」
とまた、目じりを下げた。凪は聖君の顔を手で触り、きゃって笑った。
「ただいま~~」
お店から元気のいい杏樹ちゃんの声がした。
「あ、杏樹だ。今日早かったんだな。じゃ、やす、もうちょっと凪の世話していって。俺は店に戻るから。じゃな」
「はい」
聖君は、飲み終わった自分とやすくんのグラスをトレイに乗せ、
「おかえり、杏樹。今日は店すいてるから、手伝いはいいからな」
と、ちょうどリビングに来た杏樹ちゃんに声をかけた。
「うん。わかった~~。あ、お店にドーナツあるから、お兄ちゃん食べて」
「買って来たの?杏樹。サンキュ」
聖君はそう答えると、元気にお店に戻って行った。
「お姉ちゃんにもあるよ。あ、やすくんもドーナツいっぱい買ってきたから、食べていってね」
杏樹ちゃんはそう言って、ドーナツの入った袋をテーブルに置いた。
「あ、やすくんに抱っこされてるの?凪ちゃん」
「杏樹ちゃん、抱っこしたい?」
「うん!」
やすくんは杏樹ちゃんに凪を手渡した。
「凪ちゃん、ただいま~~~」
「うきゃ!」
「凪ちゃん、可愛い~~~!癒される~~~~」
杏樹ちゃんはそう言うと、凪に頬づりをしている。
「あ、やすくん、ドーナツ好きなの選んでいいよ」
杏樹ちゃんと凪をぼけっと眺めていたやすくんに、杏樹ちゃんはそう言った。
「うん、サンキュ」
「あ、飲むものなかった?冷たいお茶でももらってこようか」
杏樹ちゃんはそう言うと、座布団に凪をそっと置いて、お店にすっとんでいってしまった。
「はや…」
やすくんは、その早業に驚いている。
「はい!お姉ちゃんにももってきた」
あっという間に杏樹ちゃんは戻ってきて、3人分のグラスとお皿をテーブルに置いた。
そして、ドーナツの袋を開けて、
「どれがいい?」
とやすくんに聞いた。
「じゃ、このナッツのついてるやつ」
「はい」
お皿にそのドーナツを乗せ、やすくんに渡すと、
「お姉ちゃんはどれ?」
と私にも杏樹ちゃんは聞いてきてくれた。
「私、このイチゴのクリームのがいいな」
「はい、これ、絶対にお姉ちゃんが選ぶと思って買ってきたんだあ」
杏樹ちゃんはにっこりと微笑んで、お皿に乗せると私に渡してくれた。
「ありがとう。じゃあ、聖君にはあれでしょ?」
「そう、チョコレートのドーナツ」
「へえ、聖さんはチョコ好きなんですか?じゃ、バレンタインにいっぱいもらっても、大丈夫っすね」
「お兄ちゃん、チョコレートとか受け取らないよ」
「え?」
「お姉ちゃんが作ったのとか、私が買ってきたのは食べるけど。だいたい、断っちゃうもん」
「最近はそうでもないけどね?でも、もらったのをお店のバイトの子たちと分けてるんだよね」
「うん。前はもっと冷たかったからねえ」
「…聖さんが?冷たいなんてちょっと信じられないな」
やすくんが、視線を下げてそう言った。
「クールだったんだよ。お姉ちゃん以外の女の子に冷たかったから、お姉ちゃんも安心だったんだよね?」
「え?う、うん、まあね」
「そうか~~~~」
やすくんは、何か感慨深そうにため息を吐き、ドーナツを食べだした。
「あ、うまい」
「でしょ?ここのドーナツ美味しいよね?やすくんは、ナッツのが好き?今度買ってくる時もそれにする?それとも何か他のがいい?」
「…え。あ」
やすくんはなぜか、戸惑ってしまっている。
「…あ、ごめん。なんか迷惑だった?」
杏樹ちゃんは何かを察して、そう声を低くして謝った。
「いや、迷惑じゃないけど」
やすくんはそう言うと、黙々とドーナツを食べだした。
「あんまり、甘いのは苦手だった?」
まだ、杏樹ちゃんは気にしている。
「いや、そんなことないから、大丈夫」
やすくんはそう言うと、ちょっとはにかんで笑った。
「よかった」
杏樹ちゃんはさっきまで、不安げにしていたが、ホッとした顔をした。
やっぱり、杏樹ちゃんは可愛いよなあ。
クロが凪と杏樹ちゃんの間に入り寝転がった。
「クロ、お散歩行った?」
「ワン」
「行ったのかあ。なんだ、散歩行きたかったのになあ」
「夕方行って来たら?」
私がそう言うと、杏樹ちゃんはそうだねって言って、クロの背中を撫でた。クロは嬉しそうに杏樹ちゃんの顔を舐めて、尻尾を振った。
「クロ、くすぐったいよ~~」
杏樹ちゃんがそう言ってから、またクロの背中を撫で、
「クロ、気持ちいい」
と言って抱きついている。
それから私に杏樹ちゃんは話しかけてきた。テニス部での話、学校のこと、いろいろと話した後に、
「お姉ちゃん、もう家に帰っちゃうの?」
と寂しそうに聞いてきた。
「ううん、明日おばあさんとおじいさん、伊豆からくるんでしょ?会いたいからまだ、こっちにいるよ。聖君も大学、ここから通うって言ってるし」
杏樹ちゃんの恋の行方も気になるし。
「良かった。おばあちゃんの店が珍しく予約が入って、ゴールデンウィーク中に、こっちに来れなくなっちゃったんだよね。でも、そのおかげで、まだまだお姉ちゃんがこっちにいてくれることになって良かった~~」
「え?じゃあ、何日かしたら、桃子さんの家に帰るんですか?」
やすくんがなぜか、びっくりしている。
「うん。聖君、しばらく私の家に暮らしているの。凪がもっと大きくなったら、こっちに住むかもしれないんだけど…」
「そ、そうなんすか。戻るんですか…」
やすくんが、がっかりしている。
「また、ちょくちょく週末に泊りに来てね」
杏樹ちゃんが私にそう言った。
「うん、来るよ」
私がそう言うと、杏樹ちゃんはやすくんのほうを見て、
「ね?また来てくれるって。そうしたら、やすくん、お姉ちゃんにまた会えるよ」
とにっこりと笑い、そんなことを言った。
え?なんでそんなことを言うの?杏樹ちゃん。杏樹ちゃんはやすくんのこと…。
「え、あ、ああ、うん」
やすくんは困ったようにそう言って、しばらく下を向いてしまった。
杏樹ちゃんはそんなやすくんを、しばらくの間眺めて、それから凪のほうを見て、凪の頬をつついたり、あやしたりしだした。
「凪ちゃんにも会えなくなるの、寂しいもん。またすぐに来てね。絶対だよ」
凪は杏樹ちゃんにあやされ、嬉しそうに声を立てて笑った。
「可愛い~~~~。凪ちゃん、本当に可愛い~。ああ、赤ちゃんっていいなあ」
そう言う杏樹ちゃんの笑顔のほうが、無邪気で可愛いよ。
と思って杏樹ちゃんを見ていると、杏樹ちゃんの笑顔にそそがれるもう一つの視線に私は気が付いた。
ふとその視線の先を見てみると、優しい目でやすくんが杏樹ちゃんを見ていた。
あ、あれ?
しばらく杏樹ちゃんを見ていたやすくんが、私の視線に気が付いて、顔を赤くして目をそむけた。
どっかで見たことのある、目だったなあ。
えっと。
ああ、聖君があんな目をして、よく私を見てるっけ。優しくってあったかい目なんだよね。
って、あ、あれ?
「じゃ、俺、もう行きます」
「なんだ。もっとゆっくりしていってもいいのに」
私がそう言うと、やすくんは顔を赤くし、
「まだ、しばらくはこっちにいるんすよね?俺もシフト入っているし、まだまだ会えますね?」
とそう言って、リビングを出て行った。
そして、お店に行って自分のカバンを持って来ると、リビングに顔をだし、
「杏樹ちゃん、ドーナツうまかった。ありがとうね」
とそう言い、にこりと笑い、またお店のほうに行った。
「お先に!」
というやすくんの元気な声が聞こえた。
「お疲れ~~!」
という聖君の声も。
「…帰っちゃった」
杏樹ちゃんは、そんな声を聞いた後、寂しそうにぽつりと言った。
「もっと、やすくんがここにいた時に、話しかけたら良かったのに」
杏樹ちゃん、私にばっかり話していたもんなあ。
「だって、何を話していいかもわかんないし。あんまりべらべらと話しかけても、悪いかなあって思って」
「そうかな。やすくん、きっと聞いてくれたよ」
「……」
あ、暗い。また杏樹ちゃんの顔が曇っちゃった。
「やすくん、お姉ちゃんに話しかけられると、顔を赤くするよね」
「そう?」
「うん」
でも、杏樹ちゃんのことは、すごく優しい目で見ていたけど?
「は~~~あ」
杏樹ちゃんはため息をつくと、残っていたドーナツをバクッと食べた。
「クロ~~」
口をもぐもぐとさせながら、杏樹ちゃんはクロに抱きつき、
「やすくんって、なんであんなに可愛いのかなあ」
といきなり、そう言ってまた、ため息をついた。
ありゃ。重症だ。
「やすくんが可愛く見えるの?」
「うん。それにかっこいいし」
「聖君と一緒だ」
「あんなのと一緒にしないで」
「へ?」
あんなのって、酷い。傷ついちゃうよ、聖君。
「あんなにやけてる、お兄ちゃんとは違うんだから」
「でも、そんな聖君も私から見たら、可愛いんだけど」
「…そっか。私がやすくんを見て、可愛いって思うの一緒か」
「そうそう」
杏樹ちゃんは、私のほうを見て、
「お姉ちゃんも、お兄ちゃんが可愛くってかっこいいんだよね?」
と聞いてきた。
「うん」
私は思い切りうなづいた。
「いまだにそうなんだ。今日も聖君に、桃子ちゃん、変って言われちゃった」
「ええ?何それ~~。それだけ好きでいてくれるんだから、もっとお兄ちゃん、素直に喜べばいいのに」
「うん。でも、聖君に恋煩いかもって言ったら、呆れてた」
「…………」
杏樹ちゃんまで、目を点にして、
「恋煩いは、ないよねえ。今さら。それは呆れるのも無理ないかなあ」
と独り言のようにつぶやいた。
「杏樹ちゃんは、やすくんの笑顔を見て、胸がきゅんってなったりする?」
「する!笑顔どころか、いろんなやすくんの表情にドキッてしたり、キュンってしたり」
「じゃ、胸が痛くなったり、幸せになったり、切なくなったり、かっこいい~~って目が離せなくなったり」
「する!なんで、あんなにかっこいいんだろう、とか、可愛いんだろう、とか思うもん」
「おんなじ~~!ね?恋煩いだよね?完全な」
「…お姉ちゃん、それ、まさか、いまだにお兄ちゃんに」
「家ではあんまりなかったよ。でも、お店にいると、ホールで働いている聖君を見ていて、そうなっちゃうんだ」
「……はいはい」
「え?」
「思い切りのろけてるのね」
「違うよ、杏樹ちゃんが、やすくんを好きなのと一緒の感覚で」
「まだ、お兄ちゃんに恋してるってわけね」
「そう」
私はまた、思い切りうなづいた。
「は~~~、ほんと、うらやましいっていうか、なんていうか」
「あ、やすくんも、私と聖君みたいなカップル、いいなって言ってた。俺も彼女欲しくなったって」
「え?!」
杏樹ちゃんは目をまん丸くさせた。
「彼女、作るって断言もしていた。良かったね?今がチャンス」
「え~~~~~?!」
あれ?杏樹ちゃんの顔、真っ青。
「それって、それって、私なんて絶対に彼女になれないし、他の人と付き合っちゃうって言ってるようなもんだよね?」
「え?それは…」
「え~~~~!!!!そんなのないよ~~~」
あ、杏樹ちゃん、泣きそう。
「で、でも、杏樹ちゃんも、頑張って」
「何をどう頑張ればいいの~~?」
「わかんないけど、う、う~~~ん」
私は思い切り悩んでしまった。確かに何をどう頑張ればいいんだろう。いきなり、告白しても、付き合えそうもないだろうし。
なにしろ、やすくんはきっと、自分がすごく好きで大事にしたいって思うような子と、付き合いたいって思っているだろうし。
「お姉ちゃん、どうしたら、両思いになれるの?わかんないよ、私」
「……」
きっと、そのままの杏樹ちゃんでいいんだよね。でも、いったいどう言ってあげたらいいんだろう。
何にも言えず、私はただ、杏樹ちゃんの頭を撫でてみたり、微笑みかけてみたりするばかりだった。こんな時、きっと聖君なら、杏樹ちゃんはそのままでいいんだよって言うに違いない。
ああ、やすくん。杏樹ちゃんはいい子なの。どうかやすくんにも、それが伝わりますように。
ん?でも待てよ。やすくんのあの優しい目。あれ、気になるなあ。
もしかして、もしかするとやすくんは、すでに杏樹ちゃんが好きになっているかも?