第34話 甘えん坊聖君
聖君は、「昼間はお店に出てきたら駄目」と言ったけど、そんなわけにはいかないほど、その日はお店が混んでしまった。天気のいいゴールデンウイーク後半、江の島にはたくさんの人が出てきたようだ。
「桃子ちゃん、悪いけどスコーン焼くの手伝って」
リビングにお父さんと凪とクロとのんびりしていると、お母さんがやってきてそう言った。
「はい」
私はお店に行こうとしたが、凪を残していっていいものかどうか。なにしろ、お父さんはリビングにノートパソコンを広げ、仕事をしているからなあ。
「あ、いいよ、凪ちゃんは俺が見てるから」
「すみません。泣いたらすぐに呼んでください」
「大丈夫だよ。クロもいるし。ね?」
お父さんがクロにそう言うと、クロはしっぽを嬉しそうに振って答えてくれた。
私はお店に行って、すぐにキッチンの奥に入った。キッチンではお母さんと桜さんが、あわただしく動き回っていた。
「オーダーお願いします」
やすくんがキッチンのほうに来た。そしてオーダーを読み上げてから、顔をあげた。
「あ…」
私と目が合ってしまった。あれ?なんで真っ赤になってるのかな。やすくん…。
「はい、やすくん。これ、カウンターに持って行って」
桜さんにそう言われ、やすくんはすぐに、アイスコーヒーをトレイに乗せ、カウンターのほうに歩いて行った。
「ありがとうございました」
聖君の涼しげな声が店内に響いた。ああ、レジに聖君はいるんだなあ。
やすくんがすぐに、テーブルの上を片づけに行った。聖君は外で並んで待っているお客さんを、呼びに行った。
「お待たせしました、どうぞ」
ちょこっとホールをのぞいて見た。ああ、聖君のいつもの最上級の笑顔…。しぐさも、身のこなしも、本当にスマートだよね。
それに比べてやすくんは、動きがぎこちなかった。笑顔もまだまだ固く、お客さんと会話をする余裕もまったくないようだ。
ひたすらオーダーを聞き、それをキッチンに通す。それをその後もずっと、やすくんは続けていた。
聖君はというと、お客さんに話しかけられ、余裕の笑みを浮かべ、答えている。
そして、ちょっとひと段落すると、聖君はトレイに小さなガラスのコップを並べ、そこにアイスティをそそいで、ウッドデッキで待っているお客さんに持って行った。
ちょこっとホールのほうに顔をだし、窓からその様子を見た。聖君は丁寧にグラスを渡して、一人ずつニコニコと何か話しかけていた。きっと、お待たせしてすみませんと、にこやかに謝っているのだろう。
あ、若い女の子もいる。聖君に声を掛けられ、ものすごく嬉しそうに笑っている横顔が見えた。
あ~~あ。最高の笑顔で接しているなあ。
「お、奥さんもお店の手伝いですか?」
奥さん?!
突然後ろからやすくんにそう言われ、私はびっくりして振り返った。
「あ、私のこと?」
「はい」
「お、奥さんはやめて。名前を呼んでくれていいです」
私は真っ赤になって、そうやすくんに言った。
「じゃ、桃子さんでいいっすか?」
「うん」
さんづけも、なんだか変な感じがするけど。
「今日、忙しいから手伝いに来たんすか?」
「ううん、そういうわけじゃなかったけど。でも、こんなに混んでるなら人手もいるし、来てよかった」
「そうっすよね。昨日は爽太さんが手伝ってくれましたけど」
「…お父さんが?」
「はい。あ、そっか。桃子さんにとっても、お父さんなんですね」
「え?うん」
爽太さんって呼んでいるのか。なんだか変な感じ。
「やすくん、はい。これはテーブル席ね」
桜さんに言われて、やすくんはホットコーヒーをトレイに乗せ、テーブル席に行った。
その時、聖君がようやく外から入ってきて、キッチンまでトレイを返しにやってきた。
「桃子ちゃんまで借り出しちゃって、ごめんね?」
「ううん、全然」
「凪は父さんが見てるの?」
「うん」
「もうちょっとしたら、落ち着くかも。そうしたら店の方はいいから」
「大丈夫だよ。まだまだ手伝えるよ」
「駄目。やすくんが狙っているから」
はあ?
「くすくす、なにバカなこと言ってるの。聖君」
ほら、桜さんが笑ってるじゃない。
そこにやすくんが、トレイを持って戻ってきた。
「やす…」
「え?」
「桃子ちゃんに言い寄ったら、ぶっ殺すからな」
「え?」
聖君が低い声でそう言ったので、やすくんは思い切りびっくりした顔をした。
「ひ、聖君、また、そんな冗談を」
私がそう言って、その場を丸く収めようとすると、
「冗談じゃないから」
と聖君はさらに怖い顔をして、やすくんを睨んだ。
「あ、はい」
やすくんは、真面目な顔をしてうなづいた。
ああ、やすくんって、けっこう真面目な子なんだ。なのに、あんなこと言って脅したりして、聖君ってば大人げないなあ。
だいたいさあ、私はもう結婚もして、子供もいるんだよ?そんな私に言い寄ってくるわけがないじゃない。
なんて思いながらやすくんを見ると、やすくんは思い切り暗い顔をして、ちらちらと私を見ていた。
あれれ?なんで?
聖君とやすくんは、おしゃべりをしていたのはそれまでで、またあわただしくホールを動き回り、キッチンの方も3人でしゃべる暇もないくらいに、忙しくなった。
そして2時を過ぎたころ、ようやくランチのお客さんがみんな帰って行き、また二人組が、お茶をしに入ってきた。
「いらっしゃいませ」
聖君はにこやかに、その二人を出迎えた。
「桃子ちゃん、ランチ、やすくんと食べちゃって」
そう言ってお母さんが、ランチを2人分用意した。
「カウンター空いてるし、そこで食べていいわよ。あ、それと爽太の分、持って行かなくっちゃ」
「あ、じゃ、私もリビングで食べます。凪もそろそろ、お腹空かせてぐずってるかもしれないし」
「そう?じゃあ、やすくん、悪いけど、爽太と桃子ちゃんのランチ、リビングに持って行ってあげて」
「はい」
「やすくんも、リビングで食べて来ていいわよ」
「え?俺は、カウンターで食べます。そっちのほうが、お客さんの様子もわかるし」
「あら、そう?」
やすくんは、私と聖君のお父さんのランチを、リビングまで運んでくれた。
「やすくんは、お店で食べるのかい?」
聖君のお父さんが、凪をあやすのをやめてやすくんに聞いた。凪はどうやら、お父さんにあやしてもらって、声を立てて笑っていたようだ。もしかして、ずっとお父さんは凪をあやしていたのかなあ。笑顔見たさに。
「はい」
やすくんは、まじめな顔をしてうなづいた。
「今日は混んで大変だったろう。3時過ぎたら、ここに来て休んでいっていいぞ」
「ありがとうございます。でも、俺…」
やすくんは、ちょっと話しにくそうにしている。
「どうした?」
「聖さんに、あんまり桃子さんに近づくなって言われてて」
「あ、あははは。何それ。真に受けちゃってんの?そんなの冗談だから気にしなくっていいぞ」
「あ、冗談ですか?なんだか、すげえ怖い顔して言ってたから、まじに受け取っちゃいました」
「やすくんは、素直なんだねえ」
お父さんはくすくすと笑いながらそう言った。
「あ、じゃ、3時過ぎたら来ます」
「うん。あと1時間、頑張って」
やすくんはお父さんに励まされ、お店に戻って行った。
「昨日もこんなに混んでいたんですか?」
「昨日はそうでもなかったなあ。今日はどうしたんだろうね。すごい混んでるね」
「…聖君、ずっとうちの方にいて、お店、大丈夫だったんですか?」
「ああ、大丈夫だよ。そのためにやすくんを雇ったんだし」
「…」
なんだか、申し訳ないなあ。
「気にしなくていいよ?桃子ちゃん。聖はちゃんと、夜、働いているんだから」
「はい。でも…」
「それに、大学のない日まで昼間から働かせたら、あいつ、のびちゃうと思うしね」
「のびちゃう?」
「大学始まってから、あいつ、けっこう疲れていそうだったし」
「やっぱり、疲れてるんですね」
「桃子ちゃんも勘付いてた?」
「はい」
「あいつ、そういうのも顔に出さなかったり、言わなかったりするからさ。特に、くるみの前ではね」
「え?」
「だから、家に住んじゃってたら、くるみのために、働いちゃうそうだね、あいつは」
お母さん思いなんだなあ。
あれ?でも、そうなんだ。お母さんの前では、疲れた顔を見せないんだ。
「桃子ちゃんは、ちゃんとそういうのわかってるんだね、えらいなあ」
「え?」
「聖が疲れているって…」
「え?あ、はい」
だって、疲れていると、甘えん坊モード全開になるんだもん。すぐにわかる。
そうなんだよね。私にはそういうとこ、見せてくれるからわかりやすいんだ。だけど、お母さんの前だと、頑張っちゃうんだね。
じゃあ、せめて私の前では素の聖君でいられるように、いっぱい甘えさせてあげようかな。
お昼を食べ終わり、私は凪を連れて2階の聖君の部屋に行き、凪におっぱいをあげた。凪はお腹がいっぱいになると、うとうとと眠くなったようで、ちょっと抱っこをしただけで眠ってしまった。
それから凪をリビングの座布団の上に寝かせた。すぐにクロがやってきて、凪の横に寝そべった。どうやら凪を見守りながら一緒に寝てくれるようだ。
「づがれだ~~~」
聖君が、思い切り疲れたっていう顔をして、ランチのセットを持って、リビングにやってきた。
あれ?お父さん、さっきの話と違って、聖君、思い切り疲れた顔をしていますけど?
「すんげえ、混んでた。なにこの混みよう…」
「あ、まさか。やすくんが入ったからかな」
「え?どういうこと?」
聖君は、お父さんに聞き返した。
「だから、やすくん目当てとか。やすくん、可愛いしモテるんじゃない?」
「…え~~?それにしては、やすくんに声かけてる人いなかったけど」
うん。どっからどう見ても、みんな聖君に話しかけて嬉しそうにしていたよ。
「は~~あ、明日もこんなに混むのかな」
「そうかもな。聖、覚悟しておけよ」
「ふえ~~~い」
聖君は、そんなだるそうな返事をしてから、いただきますとご飯を食べだした。ご飯を食べている時は、やっぱり美味しそうに嬉しそうに食べる。
「聖、爽太、食後のコーヒー持ってきたわよ。桃子ちゃんは、何飲む?」
「あ、私はいいです。そんなに喉乾いていないし」
「そう?じゃ、またあとで、お店に来て。カウンターでおやつと一緒に飲み物も出すわ」
「すみません」
「聖、やすくんが3時半までお店に出てくれるそうだから、あなた、その間、休んでいていいわよ。これからも、混みそうだし」
「やすくんが?」
「そうよ。ここで休んでる?」
「う~~~ん、じゃ、昼食べ終わったら、少し2階で休むよ」
「そうね。桃子ちゃんも、休んでね。朱実ちゃんももうすぐ来るし、キッチンの方も大丈夫だから」
「母さん、飯は?」
「桜ちゃんと交代で、カウンターで食べちゃうわ」
「わかった」
聖君はさっきの疲れていた顔を一切、お母さんには見せず、しっかりとした口調でそう答えた。
「お母さんって、いつ休憩取ってるの?」
お母さんがお店に戻ってから、私は聖君に聞いた。
「くるみは、キッチンにいても、奥にある椅子で座って休んでるから、大丈夫だよ」
お父さんがそう答えた。聖君はちょっと、顔を曇らせている。
「でも…」
いくら椅子があるからっていっても、休憩なしはきついんじゃないのかなあ。
「ああ見えて、しっかりとお店でも休めるから大丈夫。ホールと違って、キッチンはお客さんに見えないし、座ったり、なんか食べたり飲んだりもできるからさ。だから、どっちかっていうと、ずっと立ちっぱなしでホールにいる聖のほうが、大変だよな?精神的にも、いっつも客に笑顔でいないとならないし」
「…うん。でも、母さんも疲れてるんじゃないのかな。あとで、俺の休憩が済んだら、休んでもらうよ」
「…そうか?」
「うん」
聖君の言葉に、お父さんはなんだか嬉しそうに笑った。
「お前ってさあ、ほんと、くるみの前ではあまり弱音もはかないし、疲れた顔も見せないね」
「それは、母さんでしょ?疲れたって言ってるの、聞いたことないよ」
「そうだな。くるみは、頑張り屋なところ、昔っから変わってないもんな」
「本当に大丈夫なわけ?母さん。息抜くことできるの?」
あ、聖君も気になっていたんだな。
「へ?それ、まじめに聞いてる?」
「うん」
聖君の質問に、なぜかお父さんはきょとんとした顔をした。そして、少し口元をゆるませ、
「くるみは、俺と2人でいると、へにゃへにゃだよ?」
とお父さんは答えた。
「へ、へにゃへにゃ?って?」
聖君は目を丸くしてお父さんに聞いた。
「だから、俺に甘えてくるし、抱き着いてくるし、そりゃもう、へにゃへにゃ」
「…え?」
それを聞いて、私が驚いてしまった。
「俺なんて、お姫様だっこさせられるんだよ?だから、今でも腕、鍛えてるんじゃん」
「うっそ~!それ、初耳!」
「え?聖君でも知らなかったの?」
「うん」
「あ、ああ、やばい。秘密だったんだ」
「え?」
「くるみには、黙ってて。絶対に聖や杏樹には教えるなってくるみから、言われてたの忘れてた」
「…お姫様だっこのこと?」
「うん」
「わかったよ。黙っておくよ。っていうか、どうやって母さんにそんな話をするんだよ。そんな話を母さんにできるわけないじゃん」
「それならいいんだけど。あ、お前も桃子ちゃんのこと、お姫様だっこ…」
「するわけないだろ。っていうか、したこともないよ」
「嘘。え~~~?なんで?なんでしないの?」
お父さんが目を丸くした。
「…こっちが、なんでするのって、聞きたいくらいだ」
2人の会話を聞きながら、私は目をきょろきょろさせていた。
お父さんとお母さん、そんなに仲いいの?っていうか、お父さんと2人っきりでいる時のお母さん、そんなに甘えん坊なの?
その辺がもしかして、聖君に似てる?
「桃子ちゃんは、聖に甘えたりしないの?」
「え?」
お父さんがいきなり私に、そんな質問をしてきた。
「えっと、私よりも聖君のほうが甘えん坊だから」
「わあ、桃子ちゃん、何言っちゃってんの。んなわけないじゃん」
え?
聖君が顔を赤くして、すごく慌ててる。
「へ~~~。聖のほうが甘えてるんだ」
「ち、ちげえよ」
「あはは。なんだよ、顔赤いぞ、聖。照れてるのか?」
「うっせ~~~。俺、もう部屋に行く」
「凪ちゃんと桃子ちゃんは?」
「連れてく」
「凪ちゃんはせっかく、気持ちよく寝てるんだし、クロもいてくれるし、リビングに置いていっていいぞ?」
「じゃ、そうする。クロ、頼んだぞ」
聖君がそう言うと、クロは尻尾をふりふりとした。
「桃子ちゃん、2階に行こう」
「うん」
聖君に手を引かれ、私は聖君の部屋に行った。
「あ~~~~~~~。もう、桃子ちゅわんは」
「え?」
部屋に入るなり、聖君は私に抱きついてきてそう言った。
「父さんにばらしてるしさ」
「聖君が甘えん坊だって?」
「そうだよ」
「だって、本当のことだし」
「う…」
聖君は黙り込んだ。でも、まだ私に抱きついたままだ。
「ぎゅむ~~~」
聖君はそう言いながら、私をベッドに押し倒した。
「聖君?」
「もうちょっと、このままでいさせて」
「うん」
聖君は私の胸に顔をうずめ、じいっとしている。
「は~~~~。疲れた。疲れちゃったよ、桃子ちゃん」
「うん」
私は聖君の髪をなでた。
「…く~~ん」
あ、ないた。可愛いなあ。さっきの、お店にいる時の聖君とは大違いだ。っていうか、もう別人だよね、別人。
「桃子ちゅわん」
「ん?」
「ほんとに、やすには、近づかないでね」
「…うん」
「浮気、駄目だからね」
「え?するわけないよ」
何言ってるの?もう~~~。
「だって、やす、すっかり桃子ちゃんに、メロメロになったみたいだし」
「なってないってば!」
「桃子ちゃん、本当に浮気は…」
「しませんから、安心してください」
「…はい」
聖君をぎゅうって私を抱きしめた。
「聖君のことがこんなに好きなのに、浮気なんてするわけないじゃない」
そうつぶやくと、聖君は顔をあげ、私にチュッてキスをした。
「聖君こそ、浮気しないでね」
「しないよ。俺も、桃子ちゃんでいっぱいだし」
「いっぱい?」
「そう、お腹いっぱい」
なんだ?それ。
「愛してるよ、桃子ちゃん」
「うん」
聖君はまたキスをした。今度はさっきよりも、長いキス。
「あ~~~。癒されちゃう、俺」
そう言うと聖君は、また私の胸に顔をうずめた。甘えん坊モード全開だ。
本当に、可愛いなあ。もう、かわいすぎるよ。聖君…。




