第33話 バイトの男の子
翌日から、また榎本家に泊りに行った。私、聖君、凪は、椎野家で朝ごはんを済ませると、車に乗り込んだ。そして、れいんどろっぷすには、10時前には着いていた。
「凪ちゃ~~~ん」
お店に入ると、お母さんが入り口まですっ飛んできた。
「凪ちゃん、いないいない、ば~~~!」
おわ。そんなあやし方、今まで誰一人としてしなかった。そんなんで、凪、笑うかなあ?
「きゃはっ」
え?
「きゃ~~~~ん、凪ちゃん、可愛い。笑顔可愛い!爽太!爽太!」
お母さんは大騒ぎをして、リビングにすっ飛んで行った。
「あれ?どうしたの?桃子ちゃん」
聖君が車を駐車場に入れてから、お店に入ってきた。
「うん、お母さんがね…」
「あ、そういえば、母さん店にいないけど、誰もいないの?」
聖君が店の中を見回した。
「凪ちゃ~~~~ん」
リビングから今度は、お父さんが満面の笑顔でやってきた。
「いないいない、ばあ!」
お母さんと一緒だ。それも、「ばあ」の時の顔、かなり面白い。
「なんだよ、父さん、それ…」
聖君は呆れた顔をしたが、
「きゃっ」
と凪が声を立てて笑ったので、聖君はものすごく驚いた。
「な、凪!今、声をあげて笑った?」
「可愛い~~~。凪ちゃんの笑顔。凪ちゃん、もう一回。いないいない、ば~~~」
「きゃはっ!」
「うわ~~~。ちょ、ビデオビデオ。父さん、ビデオ!」
「ああ、持ってるよ。ほら、聖、映して!」
お父さんからビデオを手渡され、聖君は鼻を膨らまし、凪のことをビデオで撮りだした。
「爽太、凪ちゃん、笑った?」
お母さんもリビングからやってきて、後ろから聞いてきた。
「ああ、笑ったよ、くるみ!もう一回やるからくるみも見てて」
聖君のお父さんは、また凪のほうを向いて、
「いない、いない、ば~~~!」
とさっきよりもさらに、面白い顔をして見せた。その顔は私でも、ふきだしそうだ。我慢したけど。
「きゃ、きゃ、きゃ」
凪はかまわず、思い切り笑っている。やっぱり、相当面白かったのかな。
「うわ!めちゃ可愛い声!」
聖君はビデオを構えたまま、感動している。
「可愛いわね~~~」
「ああ、可愛いな、凪ちゃんは!」
聖君のお父さんも、お母さんも目を細めて喜んでいる。
えっと。私はいったい、どうしたら?ずっとこのまま、ここで凪を抱っこしているのかな。
「凪、もう一回!ほら、父さん、またやって」
聖君に言われ、またお父さんは「いない、いない、ばあ」をした。凪はまた、声を立てて笑った。
「か~~わ~~い~~~~」
3人そろって、メロメロになっている。
恐るべし、凪の笑顔パワー…。
何度かそれを繰り返してから、やっと聖君が、
「リビングに行こうよ、桃子ちゃん」
と言ってくれて、私たちはリビングに移動した。
「あんぐ~~、うっくんも言ってみて」
布団に寝かされた凪に向かって、お父さんがそう言った。
「父さん。あんぐ~~って凪が言うのは、誰も周りにいない時なんだ」
「え?」
「いや、近くにいてもいいけど、誰も凪をかまっていない時だけなんだ」
「独り言なのか?」
「さあ?俺にもよくわかんないけど、宙に向かって言ってるからなあ」
「天使にでも話しかけているのかな?」
お父さんはそう言うと、テーブルの前にあぐらをかき、
「じゃ、ここで仕事をしているふりでもしていよう」
と、にこにこしながらそう言った。
「聖~~、悪いけど、お店手伝って~~~」
お母さんがお店から聖君を呼んだので、聖君はお店に行った。
「今日は、11時にならないと来ないからなあ」
「紗枝さんですか?」
「いいや、紗枝ちゃんはゴールデンウイーク、家族と旅行に行っててね。他のバイトの子だよ」
「朱実さん?それとも、桜さん?」
「あれ?桃子ちゃんは会ってないかあ。新しい子なんだけど」
ドキン。か、可愛い子かなあ。
「高校生なんだよね。祭日や土日にだけ、入ってもらってるんだ。いい子だよ。前にファーストフードでバイトも経験していたらしいし」
「…高校生?」
「うん。2年生だから、桃子ちゃんよりも2個下か~~。聖がどう出るかだけどね」
「?どう出るかって?」
「うん、まあ、桃子ちゃんより年下だし、そんなに聖もかまえないとは思うんだけど」
「???」
私がきょとんとしていると、
「あ、言い忘れてた。バイトの子は男の子なんだ。稲垣康彦君。通称やすくん」
とお父さんはにっこりと笑って、教えてくれた。
「あ、男の子なんだ」
ホ…。あ、でも、桐太みたいに、男の子だからって安心できない場合もあるんだよなあ。
「えっと、募集してたんですか?バイト」
「うん。紗枝ちゃん、土日にオーラソーマの仕事増えたらしいし、桜さんが昼から来るけど、キッチンの手伝いが忙しくって、ホールの人が足りていなかったんだよ。朱実ちゃんに早めに出てもらったりしてたんだけど、いっつもそれじゃ悪いしね」
あれ?そうだったの?今までも大変だったのかな。ああ、紗枝さんが手伝ってくれたりしてたのか。
「で、バイトの募集の紙をドアの前に貼ったらすぐに、あの子がバイトしたいってやってきたんだよね」
「れいんどろっぷすに、よく来る子なんですか?」
「いや、店の前は帰り道だから、よく通ってたらしいけどね。女の子多いし、入りづらかったんじゃないのかな」
「それなのに、すぐにバイトを?」
「探してたみたいだよ。家の近くでできるバイト。高校生だしね。遠いと大変だろうからね」
「そっか」
なんだか、変な感じだな。聖君以外の男の子が、お店にいるなんて。あ、たまにお父さんも手伝ってたけど、お父さんはたいてい、キッチンのほうを手伝っていたし。
「何時から、何時までやすくんはお店に出てるんですか?」
「10時から3時までだよ。3時には朱実ちゃんが来るから、3時に交代って感じでさ」
「10時から?」
「開ける前の準備も手伝ってもらってるんだ。ただ今日は、なんだか用事があるとかで、1時間遅れるらしい。もしかすると、早朝デートかな?」
「……」
お父さんってば、今、なんとなくにやけたけど、その表情、聖君に似てたかも。
お父さんは黙って、書類を見始めた。仕事をしているふりって言っていたけど、ちゃんと仕事するつもりなんだな。
邪魔しちゃ悪いと思い、私も話すのをやめた。
クロが、凪の横に張り付いて寝ているが、時々クロの鼻息が聞こえるくらいで、リビングは静かになった。
すると、
「うっくん」
「あんぐ~」
と可愛い声で、凪がおしゃべりをし始めた。
「あ、これ?」
お父さんが目を輝かせ、私に聞いた。
「はい」
私は声を潜めて、うなづいた。
「ビデオ、ビデオ。あ、桃子ちゃん、悪いけど、くるみ呼んできて」
「はい」
お父さんもひそひそ声で、私にそう言って、ビデオカメラを構えた。
「お母さん、凪がおしゃべりを始めました」
私がお店に行ってそう言うと、お母さんは、
「え?本当?!」
と喜んで声をあげた。
「母さん、しいっ!凪、騒ぐとおしゃべりやめちゃうよ」
「わ、わかったわ。静かにする。ちょっと、お店のほうをお願いね、聖」
「まさか。俺も見に行くもん」
結局、みんなで凪のおしゃべりを聞きに、リビングに集まった。
みんなでしず~~かにしながら、凪のほうをそうっと見ていると、また、
「うっくん」
「あんぐ~」
と凪は話し出した。
「か、可愛い」
お母さんは声を潜め、嬉しいからか、隣にいた聖君の背中をバンバンたたいた。
「い、痛いって」
聖君は痛がっている。
「し~~~」
そんな二人に、お父さんが静かにしてって注意をした。
お父さんは、ちょっと離れたところから、凪を撮影していた。
凪は、おしゃべりをしばらく続けていたが、そのうちに指しゃぶりをして、目を細め、うとうととし始めた。
「眠いのかな?」
聖君のお父さんはビデオを置くと、凪を抱っこして寝かしつけた。
「可愛かったわね~~~」
聖君のお母さんは、まだ目を輝かせている。
「うん。聖も、杏樹も、あんぐ~、うっくんって言ったよな?思い出しちゃったよ」
聖君のお父さんがそう言った。
「え?俺も言ってたの?」
「そうよ。可愛かったわ~~。天使だったわ、天使!」
か~~。聖君はお母さんにそう言われ、顔を赤らめ照れている。面白いなあ。聖君って、実はマザコンなんじゃないかな。お母さんに言われて、けっこう照れてたりするもの。
「おっはようございます」
お店の方から、元気な声がした。
「あ、やすくん来たわ。聖、もうお店の方はいいから」
お母さんはそう言って、お店に戻って行った。
「ちぇ」
ちぇ?なんで、ちぇ?
「どうしたの?聖君」
ちょっとふてくされた顔をしている聖君に聞いた。
「聖はね、くるみをやすくんに取られて、妬いてるんだよ、桃子ちゃん」
「父さん!変なこと言わないでくれる?俺はただ…」
「ただ、なんだい?聖」
「う…」
聖君は、バツの悪そうな顔をして黙り込んだ。ああ、図星だったんだ。やっぱり、マザコンなのかな。
「じゃ、父さんはどうなんだよ。母さんとやすくんが仲良くなって、嫌じゃないの?」
「あはは。だって、やすくんはお前よりも年下だよ?可愛い息子がもう一人、できたようなもんだよ。俺もくるみもね」
「…そんなもん?」
「ああ、そんなもんだ」
聖君はまだ、ふてくされている。へえ、お母さんのことでこんなになってる聖君、初めて見るかも。
「俺が心配なのは、杏樹かな」
お父さんは静かにそう言った。
「え?なんでですか?」
「杏樹、けっこうやすくんのこと、気に入ってるから。やすくんに杏樹、取られないかなあって」
「え?杏樹、やすくんのことを気に入ってんの?でも、あいつ、好きなやついたじゃん。えっと、名前なんだっけ?」
「あの子はもう、高校も違っちゃったし、いい友達ってだけで、どうにもなっていないみたいだよ?」
そうなんだ…。
「む~~~~~~。ますます、気に入らないかも」
え?
聖君が?珍しい。そういえば、私にやすくんのことは、一回も話してこなかったし。あれ?もしかしてもしかすると、大学が始まって疲れてたんじゃなくって、やすくんの出現で気が滅入ってた…とか?
「やすくん、こっち、こっち」
その時、お母さんがリビングにやってきた。どうやら、やすくんを家のほうに呼んだらしい。
「聖のお嫁さんと、赤ちゃんを紹介するわね。可愛いのよ。やすくんも凪ちゃん、見てってね」
「母さん、やすくん、連れてきちゃったの?」
聖君は顔をしかめた。
「あ、どうもっす」
そう言いながら、ざんばら髪の、ちょっと髪が茶色い男の子がリビングに入ってきた。背は聖君よりも低いかな。それに細身で色白だ。
「やあ、やすくん。凪ちゃんなら今、寝たところなんだ」
聖君のお父さんがそう言うと、やすくんは凪の顔を覗き込み、
「ほんとだ。可愛いっすね」
と微笑んだ。
「…だからって、今から目をつけるなよ。やすくん」
聖君がそう言うと、やすくんは聖君のほうを見て、
「ブフッ!んなことするわけないじゃないっすか」
と、笑うのをこらえながらそう言った。
それから、やすくんは私を見た。
「あ、俺の奥さんの桃子ちゃん」
聖君はそう言って私のことを紹介した。
「あ、ど、ど、どうも」
やすくんは、真っ赤になってぺこっとお辞儀をした。
私も、お辞儀をした。
「やすくん。桃子ちゃんのことも、ぜ~~~ったいに手を出したりしたら駄目だから。俺、許さないから」
聖君は、やすくんにそう念を押すように言った。
「え…。あ…」
やすくんは、なぜか戸惑ったような顔を見せ、それからまた私をちらっと見ると、
「店、開店ですよね?俺、もう行きます」
と後ろを向き、リビングを出て行った。
「じゃ、私も。昼にもし、お店がこんだら、聖、手伝ってね」
そう言って、お母さんもお店に行った。
「なんだ、あのやすくんの表情は」
「え?」
聖君は思い切り、難しい顔をしている。
「なんで、桃子ちゃん見て、赤くなってるんだよ」
「そりゃ、お前の奥さんが可愛いからじゃないの?」
お父さんがそう言うと、聖君はお父さんをぎらっと睨み、
「父さんは黙ってて」
と、そう言って黙らせた。
「なんだよ。あいつ~~。人の奥さん見て、顔を赤くするなって言うの!」
ああ、聖君、すっかりご機嫌斜めモードだ。
「桃子ちゃん」
「え?」
「今日から、昼間はお店に出ちゃいけません」
「へ?」
「わかった?」
「……えっと…。うん」
聖君は、私の顔をしばらく、じいっと見てから、やっとこ凪に視線を移した。
「凪や杏樹のこと心配してる場合じゃなかった。桃子ちゃんのこと、すっかり忘れてた、俺。あ~~~あ」
どういうこと?
「まあ、聖。それだけ、お前の奥さんが、可愛いってことで」
お父さんがまたそう言ったが、
「口出すなよ。父さん」
と聖君はまた、お父さんを睨みつけてしまった。
あ~~あ。私だったら、まったく、興味ないんだけどなあ。
とか言いつつ、聖君がやきもちを妬いてくれるのは、ちょっと嬉しいかも。