第32話 凪のおしゃべり
「行ってきま~~す」
「凪ちゃんを直射日光に当てないようにね」
「は~~い」
母に見送られ、私は聖君とベビーカーに凪を乗せて歩き出した。
「気持ちいい日だね」
「うん」
凪は初めてベビーカーに乗った。
聖君がベビーカーを押して、私はその横を歩いていた。対面式のベビーカーなので、凪の顔が良く見えて、聖君はたまにじっと凪を見てしまうので、私がそのたび、
「聖君、人来てる」
「聖君、前に木があるから気をつけて」
と注意をしていた。
行き交う人が、私たちを見た。若い二人がベビーカーを押しているから、ちょっと目立っているようだ。
でも、そんなの妊婦時代にも経験済み。だから、2人とも気にせず、歩いていた。
公園に着き、ベンチの前にベビーカーを置いて、凪を聖君は抱っこしてベンチに座った。私もその隣に腰かけた。
「気持ちいいね」
「うん。緑が綺麗だ」
聖君は木漏れ日を見ながら、凪に話しかけた。
「凪にもわかる?見える?」
凪はまぶしそうに目を細めている。
「この公園に凪を連れて、散歩に来たいねって言ってたよね」
私がそう言うと聖君は、にこりと微笑み、
「叶ったね」
と嬉しそうに言った。
「ここ、覚えてる?聖君」
「ん?」
「私が、落ち込んでた時、聖君がキャッチボールしようって言って、ボールを投げてきた…」
「ああ、桃子ちゃんが幹男に励まされ、スイミングスクールに行った時ね」
「……」
そっちを覚えていたか。
「私が素直になれないでいて、聖君がどんなことでも言ってくれていいよって、どんな言葉もどんな思いも、受け取るからって、そう私に言ってくれたの」
「…そうだっけ?」
え?そこは忘れてるの?!
聖君は凪を見て、にこにことしている。
「本当に忘れちゃったの?」
「…覚えてるよ」
「よかった。あのお言葉、私感動して泣いちゃったのに、忘れてたら悲しいもん」
「感動したの?」
「うん」
「くす。桃子ちゃん、可愛い」
「……」
聖君は顔を近づけ、私の頬にキスをした。うわ!公園には他にも人がいるって言うのに。
「…まさか、こんな日が来るなんて…ね」
私は聖君と凪を見ながら、不思議な気持ちになっていた。
「…思ってもみなかった?」
聖君がそう聞いてきた。
「最初の頃は…」
私がそう言うと、聖君は私の顔を覗き込み、
「俺は、どっかで思っていたかも」
とつぶやいた。
「え?」
「桃子ちゃんが、すげえ可愛くって。ずっとずっとそばにいたいって思ってて、このまんま桃子ちゃんは俺の横にいて、子供もいて、ずうっと一緒にいるんじゃないかってさ」
「…」
そうなの?私は多分、いつか別れが来るんじゃないか、いつか聖君に嫌われるんじゃないかって、そんなこと思っていたかもしれない。
「桃子ばあちゃん」
「え?」
「くす。本当にいつか、そう呼ぶかもって思ってた」
「…」
そう言えば、そんなこと前から言ってたっけ。
「でも、俺、桃子ちゃんがおばあちゃんになっても、桃子ちゃんって呼ぶよ」
「へ?」
「なんだか、可愛いでしょ?」
「じゃ、私も聖君って呼ぶ」
「あはは!いいかもね!」
聖君はめちゃくちゃ爽やかに笑った。
「な~~ぎ。歩けるようになったら、動物園にも行こうね」
「お弁当たくさん作って?」
「そうそう。そういえば、俺、そんな夢を見たことあったっけなあ」
聖君は遠い目をしてから、私を見た。
「覚えてる?初めて動物園にデートに行った時」
「うん」
「俺も子供ができたら、動物園や水族館、連れて行きたいなってそんなこと思っていたし、そんときには桃子ちゃんがお弁当をたっくさん作るんだろうなって、そんなことも思ってたよ」
「そ、そんな頃から?」
「父さんもじいちゃんも早くに結婚して、早くにお父さんになったから、俺もそうかもしれないなって、家族を持っている自分、なんでだか、簡単に想像することができたんだよね」
「…そうなんだ」
「うん。で、そういうふうになったらいいなって、あの頃から思ってたな」
「叶っちゃったね」
「うん、叶った!」
あ、思い切り嬉しそうだ。
「あとは、凪の下に弟が欲しいかな」
「妹じゃなくって?」
「男の子も育ててみたいんだよね」
「うん。私も。きっと聖君そっくりになって、可愛いんだろうな」
「…そっか。桃子ちゃんと仲良くなって、俺、やきもち妬いちゃうのかもしれないのか」
「凪と聖君に、私がやきもち妬いたみたいに?」
「…もう、桃子ちゃんってば。やきもち妬きなんだから」
「ええ?」
聖君はまた、私の頬にキスをした。
ああ、さっきから、芝生で遊んでいる親子が、時々私たちを見るよ。それなのに、聖君、平気でキスとかしてきちゃうんだもんなあ。
顔がほてってきた。
聖君を見ると立ち上がり、その辺を歩き出した。凪に何か話しかけ、それからあははって爽やかに笑う。
ああ、しまった。デジカメを持って来るんだった。でも、携帯がある。
私は凪を抱っこしている聖君を、携帯で写した。
「これ、日記に貼る」
私がそう言うと、聖君は私の腕の中に凪を乗せ、
「桃子ちゃんと凪も、撮ってあげるよ」
と言って、自分の携帯をポケットから取り出し、写真を撮ってくれた。
「なんだか、すっごく幸せ」
私は凪を抱っこしながら、幸せをかみしめた。
「うん。最高だね」
聖君は私の隣に座って、目を細めてそう言った。
空は青空。風は爽やかな春の風だ。木々は青さをまし、日の光を浴びてきらきらと輝いている。
「綺麗」
木漏れ日を見て私がそうつぶやくと、聖君も空を見上げて、
「うん」
とうなづいた。
休みの日、晴れていると私たちは公園に散歩に行くようになった。
ゴールデンウイークは、母や父も一緒に、お弁当を持って公園に行った。シートを広げ、凪を父が抱っこして、嬉しそうにしている。
「凪ちゃん、気持ちいいね」
父がそう言うと、凪はにっこりとする。
「笑った!可愛い~~~~」
母も父も、そして聖君も凪の笑顔に夢中になる。
4月の終わり頃からだろうか。凪があやすと笑うようになったのは。最初、聖君が凪の笑った顔を見た時には、大変だった。
「桃子ちゃん、凪が笑った~~~!」
と和室で大騒ぎをした。すると、夕飯を終えてダイニングでビールを飲んでいた父が、慌てて和室に飛び込んで行った。
「凪ちゃんが笑ったって?」
「はい、見ててください」
私や母、そしてひまわりも、急いで和室に行き、凪の顔をみんなで眺めた。
聖君がガラガラを鳴らして凪をあやすと、凪はにっこりと笑って、鳴っているガラガラを見る。
「笑った!」
「凪ちゃん、可愛い~~」
「ビデオとってくる。これ、桃子ちゃん、持ってて」
聖君は私にガラガラを渡すと、和室から2階にすっ飛んで行った。
「カメラ、カメラ」
父はカメラを取りに寝室に行き、母は、
「凪ちゃん~~、また笑って~~」
と布団で寝ている凪に、笑いかけていた。
そして見事に、ビデオカメラにもデジカメにも、凪の笑った顔は収められた。その写真もビデオも榎本家のみんなも見たらしく、すぐに、
「ゴールデンウイークの間に、凪ちゃんと桃子ちゃん、絶対に泊まりに来てね」
とお母さん直々に電話があったくらい、榎本家でも騒ぎになったようだった。
5月、気持ちのいい日が続く。公園にはたくさんの家族が出てきて、みんなシートを広げ、お弁当を食べたり、ボールやバドミントンをして遊んでいる。
「歩けるようになったら、また楽しいでしょうね」
母がそう言うと、
「毎年来ちゃいましょう。どんどん、公園にみんなで来ちゃいましょうね」
と、聖君は目を輝かせてそう言った。
「ああ、孫って言うのは、なんでこうも、可愛いんだろうねえ」
父は、目じりを下げそう言うと、
「桃子が赤ちゃんの頃を思い出すなあ。こんなだったね、お母さん」
と母に話しかけた。
「笑った顔なんて、そっくり」
母もそう言って、凪の顔を見て凪をあやした。凪はまたにっこりと笑った。
「可愛い~~」
「写真、写真」
聖君は母、父、凪、そして私を写してくれた。
その日の夜、聖君は部屋でパソコンを見ながら、
「年賀状の写真、迷っちゃうなあ」
とつぶやいている。
「気が早いってば」
「だよね」
聖君は何枚も凪の写真を見ながら(それも、何回も)、ずうっとにやけている。凪はさっきから、ベビーベッドについているおもちゃを見て、笑っている。
「凪って、本当に育てやすいよね。あんまりぐずらないし」
「桃子ちゃんも、あまり泣かないいい子だったって、お母さん言ってたよ。桃子ちゃんに似たんじゃない?」
「そうかな。じゃ、大きくなったら、内気な女の子になっちゃうかな」
「あはは。桃子ちゃん、内気なの?」
なんで笑ったの?そこで。
「すごく強いのになあ」
…どういうこと?
「好きな男の子ができたら、一途に思っちゃうタイプかも」
私は何気に、そんなことを言ってから、あ、しまったと聖君の顔を見た。ああ、やっぱり。聖君、固まっている。
凪に好きな人ができるとか、凪が付き合うとか、凪の結婚とか、そんな話題をしてしまうと、聖君はフリーズしちゃうんだよね。
「絶対に、凪は俺のそばに置いておくもん」
聖君はそうつぶやき、凪にも、
「ね?」
と言っている。これ、本気で言ってるところが怖いんだよねえ。
「私は?」
そう聖君が言った時には、すかさず私はそう聖君に聞く。
「桃子ちゃん?もちろん、ずっと俺のそばにいてくれるよね?」
「うん」
「…う、そうだよね。桃子ちゃんがいてくれるんだから、それでいいんだよね」
聖君はそう言って目を細めると、私にいきなり甘えてくる。
「桃子ちゅわん」
「ん?」
「愛してるからね」
「うん」
ギュって抱きしめ、キスをして、また私を抱きしめる。
「うっくん…」
と、その時、ものすごく可愛い声が、ベビーベッドから聞こえた。
「え?」
聖君と私は、同時に凪のほうを見た。
「あんぐ~~~。うっくん」
「な、凪がおしゃべりしている」
聖君は目を輝かせ、感動している。私もだ。なんて可愛い声なんだ。
よく、育児本に書いてあった。「あんぐ~、うっくん」と話すようになるって。本当に「あんぐ~、うっくん」て言うんだ!
聖君は静かに、ビデオカメラを手にした。そしてそうっとベビーベッドに近づき、凪のことを撮影し始めた。
私も声を殺して、そっと聖君の後ろから、凪を見ていた。
凪は空中を見つめ、また、
「あんぐ~~」
とおしゃべりをした。
「可愛い~~」
聖君はそうささやいて、興奮したように鼻を膨らませた。
「ビデオ撮れた?」
私もひそひそ声で聖君に聞いた。聖君は凪にビデオを向けたまま、うんうんとうなづいた。
「うっくん」
可愛い~~~。
「あんぐ~~」
可愛い~~~。
その繰り返しを、しばらく私たちはしていた。
凪はそのうち、指しゃぶりをしてしまい、おしゃべりをやめた。でも、指しゃぶりをしている凪の姿も、聖君はしばらく映していた。
「可愛かったね。凪の声」
「うん。すんごく可愛かった!」
聖君はまだ、興奮しているようだ。
「この映像も、すぐに明日母さんと父さんに見せるよ」
「きっと、喜んじゃうね」
「ああ、可愛いって転げまわって喜ぶかも」
それはおおげさな…。と思ったら、聖君はその映像をパソコンで再生させて、
「可愛い~~、凪ってば!」
と言って、足をじたばたさせたり、ベッドに寝転がり、枕を抱きしめごろごろとし始めてしまった。
あら。本当だ。可愛いって転げまわってる。
そうか、そういえば、付き合った当初、部屋で嬉しくてジタバタしていた時、あったみたいだしね。
「凪、早くパパって呼んでくれないかな」
「え?」
「ああ、凪にパパって言われたら、俺、天に昇っちゃうな」
おおげさな…。いや、ありえるけど。
そういえば、初めて私と結ばれちゃった日、天にも昇る気持ちだったって言ってたっけね。
面白いなあ。聖君って。それに、めちゃ可愛いわ。こんな聖君をビデオカメラで映して、凪が大きくなったら見せてみたいものだ。
でも、そんなの聖君が許してくれなさそうだな。
今はこんなだけど、実際に凪が大きくなったら、どんなパパになるんだろう。意外と娘の前でええかっこしいをする父親になったりして。
それとも?
ちょっと想像もつかないや。
だから、これからのお楽しみかな。
なんてそんなことを思いながら、ベッドにごろごろしてにやけている聖君を、私は眺めていた。
翌日、午前中に和室で凪は一人で、寝かされていた。いや、正確には、その周りにしっぽも茶太郎もいたから、一人ではないんだけど…。
凪は知らない間に起きたようで、リビングで新聞を読んでいる父が、凪のおしゃべりを聞き、興奮してキッチンでお昼ご飯の用意をしていた母と私を呼びに来た。
「い、い、今、凪ちゃんが、あんぐ~って」
「え?しゃべった?」
母も目を輝かせ、手を急いで洗うと、和室にそっと近づいた。凪はまた、空中を見つめながら、話をしている。
「うっくん」
「可愛い」
「あんぐ~」
「可愛い」
そこに、2階の掃除をしていた聖君も、一階に下りてきて、私たちのところに来た。
「凪が、おしゃべりしてるの」
「また?」
聖君も声をひそめ、みんなで凪のおしゃべりを聞いた。
不思議と誰かが話しかけたり、抱っこをしている時には、凪はおしゃべりはしない。一人で布団に寝かされると、空中を見ておしゃべりをするのだ。
「誰に話しているのかしらね」
「さあ?」
そう言いながらも、私たちは、和室の入り口から凪を静かに見守り、凪の可愛いおしゃべりを聞いていた。
そして、その日の夜もまた、榎本家から電話があった。今度はお父さんからだ。
「桃子ちゃん、凪ちゃんのおしゃべりの映像見たよ。いつ、こっちに来れる?明日はどう?」
ああ、やっぱり、かなりの興奮状態。
「じゃあ、明日行きますね」
「そうか~~、くるみ!明日来れるってよ~~~~」
お父さんがお母さんに、そう叫んでいるのも聞こえた。そして、きゃ~~という、杏樹ちゃんの声までが。
こりゃ、榎本家でも、凪の笑顔やおしゃべりは、大騒ぎになるんだろうなあ。