第30話 笑顔の聖君
お昼になっても、ひまわりは帰ってこなかった。
「かんちゃんと、食事してきちゃうのかしらね」
母がそう言った。凪はまだ、和室ですやすや寝ているようだ。
「まったく。いらないならそう連絡してきたらいいのに」
父がぶつくさ言っている。
聖君の作ったパスタはとっても美味しくて、母も父も結局ご機嫌になり、ぺろっと食べてしまった。そういう私も、サラダまでばっちりと食べ、満足していた。
「桃子は良く食べるようになったわよねえ」
母にそう言われた。
「凪におっぱいをあげているから、たくさん食べないとね」
聖君がにっこりと笑いながらそう言ってくれた。
「ほんと、優しい旦那さんね。でも、気をつけなさいよ。産後にしっかりと体型戻さないと、そのまま贅肉がくっついちゃうわよ」
母がそう言って、食器を片づけ始めた。
ギクギク。そ、そんなことにならないように、気をつけなくっちゃ。
「ねえ、聖君」
凪が起きたので、和室でおっぱいをあげながら、聖君に話しかけた。聖君は隣で目じりを下げ、凪を見つめている最中だった。
「ん?」
ちょっとだけ私の顔を見て、すぐに聖君は凪のほうに視線を移した。
「何か、簡単にできるスポーツってないかな」
「スポーツしたいの?」
「うん。体動かしたほうが、脂肪も燃えるよね?」
「ああ、お母さんが言ってたこと、気にしてるの?」
聖君はまた、私の顔を見た。私がうなづくと、
「水泳は?全身運動になるよ」
と言ってくれた。
「でも、今、大丈夫なのかな。おっぱいもまだ出ちゃうのに」
「そうだね、どうなんだろう」
聖君はちょっと腕を組んで考え込み、
「一番手っ取り早いスポーツって言ったら」
と私の耳元に顔を近づけ、
「俺と愛し合っちゃうことかな」
と、とんでもないことを言った。
「な、何を言ってるの?!」
「え?だって、けっこうな運動量じゃない?」
「…」
か~~~~。ああ、ほら、言わんこっちゃない。私の顔がみるみるうちに熱くなった。
「もう、聖君のあほ」
「なんでだよ?本気で相談に乗ってあげてたのに」
「スケベ親父」
「だから、なんでそうなるんだよっ」
聖君は完全にすねてしまった。
「あ、そうだ。榎本家にある筋トレグッズは?」
私は急に思いつきそう聖君に聞いた。
「筋肉つけたいの?」
「う、ううん、筋肉はちょっと嫌かも」
「だけど、そのうちつくよ。凪、どんどん重くなるもん」
うそ。私の腕、筋肉ついちゃうの?
「ただいま~~」
その時、ひまわりの声が聞こえた。
「かんちゃんも、あがって」
あ、かんちゃんも一緒なんだ。
「あら、かんちゃん。どうぞあがって。お昼は食べたの?」
「はい、食べてきました」
「そういうのは、ひまわり、ちゃんと連絡しなさい。聖君はひまわりの分まで、作ってくれたんだよ?」
父はまだ、ダイニングにいるようだ。ひまわりにそうくぎを刺した。
「え、そうなの?お兄ちゃん、ごめんね」
ひまわりは父にそう言われ、和室の襖を勝手に開けて、ずかずかと入ってきた。それも、かんちゃんを引きつれて。
「あ!駄目。かんちゃんは駄目!」
すかさず聖君は立ち上がり、かんちゃんを和室から追い出した。
「えっと?」
「今、桃子ちゃんが凪におっぱいをあげてるんだ。そんなところ、他の男に見せられるわけないだろ」
聖君はそう言って、和室の襖をパタンと閉めた。
「ソファに座って、かんちゃん。冷たいお茶でも飲む?」
「あ、すみません」
和室の外から、母とかんちゃんの会話が聞こえた。
「…で、ひまわりちゃん。その様子だと、仲直りできたの?」
聖君は私の横にあぐらをかき、凪のことを見ているひまわりにそう聞いた。
「うん」
ひまわりはちょっと顔を赤らめた。
「良かったじゃん」
聖君はにっこりと笑った。
「かんちゃん、私が怒ってるって思ってたみたい。でも、私は私で嫌われたかもって思ってたって言ったら、嫌ってなんかいないし、こんなことで別れたりしないって言ってくれたんだ」
「そっか~」
聖君はにこにこしながら、聞いている。
「…お兄ちゃん、ありがと。お礼が言いたかったんだ」
ひまわりは照れくさそうにそう言って、和室を出て行った。
「うん。良かった、良かった」
聖君は満足そうに笑った。
「聖君も、私に拒絶された時、焦ってたもんね」
「え?いつのこと?」
「聖君の部屋で、聖君が押し倒してきて」
「……」
聖君はしばらく黙り込み、
「ああ、あの時か」
とやっと思い出した。
そうか、聖君にとっては、もう忘れかけていた記憶なんだ。
「胸を触って、桃子ちゃんが怒った時ね」
「…うん」
「そうそう。俺、もうこれで桃子ちゃんに愛想つかされて、別れちゃうかもって、真っ青になってたや」
聖君は遠い目をして、それからクスって笑った。
「なあに?」
「だって、桃子ちゃん、怒ってたんじゃなくって、俺ががっかりしてないかって、そんなこと心配してたんだもん」
「だって…」
「あはは。可愛いよね、本当に」
聖君はそう言うと、私の髪にキスをした。
「あ、凪、飲み終わった?」
凪を聖君はひょいと抱っこした。
「でも、忘れかけてたなあ。俺、強烈に覚えてるのは、あの時のことだから」
聖君は凪の背中を撫でながら、そう言った。
「?」
あの時?私は首をかしげた。
「桃子ちゃんと初めて結ばれた、あの日だよ」
聖君はそう言うと、顔を赤くして思い切りにやけた。
「…」
か~~~。私まで顔が赤くなった。
「桃子ちゃん、可愛かったよなあ」
「…い、今は?」
気になって聞いてみた。今はもう可愛くないとか?
「今は…。えっと」
なんで、そこで言葉に詰まってるの?
「可愛い。でも、俺に抱かれている時の桃子ちゃんは、最近妙に色っぽい」
「ええ?!」
嘘。
「自覚ないか、やっぱり」
「ないよ」
「…きゃ!」
何が「きゃ」なの?なんで時々、聖君はこうやって、私をからかうの~~?顔を赤らめて、恥ずかしそうに顔を隠すのやめて。それも、凪で顔を隠してるよ。ああ、こっちが恥ずかしい。
「なんで、きゃって言ったの?」
「言えない」
「なんで?」
「あ~~。熱い。桃子ちゃんの色っぽい顔思い出して、顔熱くなった」
聖君は片手で凪を抱っこして、もう片方の手で顔をあおいでいる。
「もう~~~~。何を言ってるのよ~~~」
顔が熱いのはこっちだよ。
「さて、かんちゃんに凪をお披露目してこようか。あ、でも、かんちゃんが凪に一目ぼれしたらどうしよう」
ないない。そんなこと…。
聖君はもう、爽やか聖君に戻っていた。でも、私はまだ顔が熱くって、しばらく和室から出られなかった。
もう、ほんと、聖君は、時々ああいうことを言って、私をからかって遊んでるんだ。そういうところ、前と変わんないんだから。
リビングに行くと、かんちゃんが聖君と楽しそうに話していた。母も父もその場にいなくって、ひまわりはかんちゃんの横で、おとなしくちょこんと座っている。
かんちゃんは、凪にはなじめないようで、聖君が凪をかんちゃんに近づけると、困った顔をして固まった。
「もう、すっかりお父さんですよね」
聖君にかんちゃんがそう言うと、
「そう見える?」
と聖君は嬉しそうに笑った。
「俺は子供苦手で…。特に小さい子はどうしていいんだか」
かんちゃんがそう言うと、
「ああ、そういうやつって、自分の子供が生まれるとガラッと変わったりするみたいだよ」
と、聖君はまた笑いながらそう言った。
「聖さんって、そういうところがいいですね」
「え?そういうところって?」
「なんか、全部をプラスにとらえるところ」
「…そう?そんなつもりはないんだけどな」
「え?」
「俺は別にプラス思考をしてるわけじゃないよ。ただ、そう感じたことを言ってるだけで」
「じゃ、根っからのプラス人間なんですね」
「あはは。そんなことないよ、思い切り暗い時もあるって」
聖君は、そんなことを超爽やかな笑顔で言った。
「そうなんすか?なんか、そんな聖先輩、ちょっと信じられないな」
「…そう?だけど、俺だっていじける時も、落ち込む時もあるし、後ろ向きに考えてる時もあるよ?」
「…そんな時はどうしてるんですか?」
「う~~~ん」
聖君は悩んだ。そして、なぜか聖君の横に座った私の顔を見て、
「どうしてる?俺」
と聞いてきた。
「え?落ち込んだ時?」
「うん」
どうしてるかな。落ち込んだり、辛そうにしている時あったけど、どうしていたっけ。
「最近はいっつも、桃子ちゃんがそばにいてくれてるし」
「…うん」
「感じるままに感じて、癒してもらってるね?」
聖君はそう言ってから、またかんちゃんのほうを向いた。
「…そうなんだ。桃子さんがいるから、明るくいられるんですね」
「ああ、そうかも」
聖君はまた爽やかに笑った。
「…」
かんちゃんはしばらく黙り込み、それからちらっとひまわりを見た。
「じゃあ、桃子さんが落ち込んだ時には、聖さんが…」
「そばにいて、元気づけてるつもりなんだけど、たまに桃子ちゃん、知らないうちに落ち込んでたり悩んでたりするんだよね。俺に内緒で」
「え?私?」
「うん。言ってくれない時あるじゃん」
う…。そうかも。
「俺もそういうの、気づかない時あるから、ちゃんと桃子ちゃんのこと見ていないとって、思ってるんだけどね。ごめんね?」
なぜか、今度は聖君が私に謝ってきた。
「え?何が?」
「気づけないことが多くって」
「ううん。私こそ。なかなか素直になれなくって、ごめんね?」
私も聖君に謝った。
「ちょ、ちょっと。そういうのは、2人っきりでいる時にやってくれる?」
ひまわりが顔を赤らめて言ってきた。
「すごいな。そうやって、素直に謝ったりするんですね。聖さんって」
「俺?そりゃもう、ちゃんと謝っちゃいますよ?意地はっていたってしょうがないじゃん」
聖君はさらっとそう言った。
「すごいなあ。聖さんは」
かんちゃんは、やたらと聖君を褒めた。そして、うなだれて、
「俺は駄目だなあ」
とつぶやいた。
「かんちゃん、意地っぱりだもんね?あ、ひまわりちゃんもそういうところあるね。似たもの同士なのかもね?」
「…もっと素直にならないと、駄目ですよね」
かんちゃんはまだ、うなだれている。
「いいんじゃないの?」
「え?」
「だって、そんなところも、ひまわりちゃんは好きなんじゃないの?」
聖君がそう言うと、ひまわりは真っ赤になった。
「ね?そうでしょ?」
聖君がひまわりのほうを向いてそう聞くと、ひまわりはかんちゃんを恥ずかしそうに見て、
「わ、わかんない。でも、私も意地はっちゃうから、かんちゃんのことは責められない」
とそう言った。
「……」
かんちゃんは耳を赤くして、しばらく黙っていたが、
「うん。意地はっちゃってるひまわりのことは、可愛いって思うかな」
とそうつぶやいて、ますます顔を赤くしてしまった。ああ、自分で言って、自分で照れたんだろうなあ。
「でしょ?」
聖君は今度はかんちゃんに向かってそう言うと、いきなり私のほうを向いた。
「俺も、素直じゃない桃子ちゃんも、可愛いんだけどね?」
うわ!だから、そういうことは2人っきりの時に言えって、またひまわりに怒られる。
と、ひまわりのほうを向いてみたが、ひまわりはさっきのかんちゃんの言葉にまだ、照れまくっている最中だった。
かんちゃんをみんなで玄関まで見送った。ひまわりは、また今日の5時からバイトでかんちゃんに会えるって、かんちゃんが帰ってから喜んでいた。
「ああ、そういうの。かんちゃんの前で喜べばいいのに」
聖君がぼそっとそう言ったが、ひまわりは、
「そんなの言えるわけないじゃん」
と口をとがらせ、2階に上がって行ってしまった。
「凪、おとなしかったね」
聖君の腕に抱かれている凪を、聖君は見た。凪は、あまりぐずらないし、本当に育てやすい子なんだろうなあ。
それにしても、かんちゃんとひまわり、仲直りして良かった。
「あの二人も、付き合い長いよね」
聖君は凪を、お昼寝用布団に寝かせてそう言った。
「うん。そうだね」
「桃子ちゃん」
「え?」
聖君がチュッてキスをしてきた。
「どんな桃子ちゃんも大好きだけど」
「うん」
「でも、やっぱり寂しい時には、寂しいって甘えて来てね?」
「…うん」
「俺も、いっぱい甘えちゃうから」
聖君はそう言って、私のことをギュって抱きしめた。
母は寝室の掃除でもしているんだろう。父はかんちゃんが来て、居づらくなったのか、買い物に出て行ったようだ。
ひまわりも2階に行ってるし、椎野家でも私と聖君の邪魔をする人がいないんだな。だから、こうやって2人きりの甘い時間を過ごせるんだね。
「ふ…。ふ…。ふえ~~~~」
と思っていたら、凪が泣きだした。
「あれ?どうした?」
聖君が抱っこをした。ああ、クロがいたら、凪のお守りをしてもらえるのに。
なんて思っていると、そこにしっぽと茶太郎がやってきた。凪の泣き声を聞いたからだろうか。凪のそばに来て、凪の匂いをふんふんと嗅いでいる。
「あれ。凪が泣き止んだ」
聖君はまた、布団に凪を寝かせた。すると、2匹が凪のすぐそばまで来て、ゴロンと横になった。凪はしっぽに手を伸ばし、なんだか安心している。
「ははは。椎野家では、しっぽと茶太郎が凪のお守りをしてくれそうだね」
聖君はそんな一人と2匹を見て、爽やかに笑うと、
「デジカメ、デジカメ。これ、なかなかのショットだよ」
と慌ててデジカメを持って来て、スリーショットを写していた。
「父さんや母さんに見せよう」
そう言って、私にもその写真を見せてくれた。
「ほんと、仲良しトリオって感じだ」
「これ、いいね。年賀状はこの写真にするか」
「え~。気が早すぎるよ。きっと他にもいい写真がいっぱい撮れちゃうよ?」
「ああ、そうか。うわ!俺、思い切り悩みそうだ!」
聖君はそう言うと、また可愛い笑顔を見せた。
ああ、今日の聖君の笑顔も最高だ。
「って、忘れてた!凪の写真でもいいけど、俺らの挙式の写真でもいいんじゃない?」
「あ、結婚式!」
なぜかすぐに、忘れてしまう結婚式。これをちゃんと挙げようと、忘れないうちに母に提案した。
そして、思い立ったら吉日。即行動の母はこのあと、どんどん式の準備に取り掛かって行ったのだった。