第28話 母親に戻る
海沿いにある、すごく素敵なカフェの駐車場に聖君は車を停めた。そして、一緒にカフェに入った。
「いらっしゃいませ」
若い男性の店員が、席に案内してくれた。
白のシャツに黒の長いエプロン。ちょっとロンゲの、なかなかイケメンの店員だ。だけど、やっぱり聖君のほうが断然かっこいい。
海が真ん前に見える席に、私たちは座った。
「何頼む?」
聖君は必ず、メニューを先に見せてくれる。
「うん。そうだなあ」
コーヒーや紅茶は飲めないから、いつも悩んでしまう。
「じゃあ、クリームソーダ」
「何か食べる?」
「ううん。だって、これアイスのってるんだよね?」
「ああ、うん」
「ダイエット中だし、食べるのはやめておく」
「ダイエット~~?凪におっぱいあげてるんだから、ちゃんと食べないとだめだよ」
聖君がちょっと声を大きくして、そう言った。瞬間、隣の席のカップルが私たちを見た。
「でも、ご飯はちゃんと食べてるし」
私は慌ててそう言ってから、
「でも、お腹は早くにひっこめないと…って聖君だって言ってたでしょ?」
と今度はゆっくりとそう言った。
「あ、そうだった。じゃないと一緒にお風呂に入れないんだった」
聖君のその言葉で、また隣の席のカップルがこっちを見た。それから何やら、ひそひそと話をしている。
いいじゃない。夫婦なんだもん。一緒にお風呂に入ったって。と心の中でつぶやいてみた。
聖君はさっきの店員を呼んで、
「クリームソーダとコーラをください」
と注文をした。
「聖君こそ、なにも食べないの?」
「うん。いいよ。どうせ店に出る前に何かつまむから」
そうだった。聖君は今日も夜、お店のバイトがあるんだった。
「綺麗だね、海」
私がそう言って窓の外を眺めると、聖君も目を細めて外を見た。
私はすぐに聖君に目線を移した。あ~~~、聖君、かっこいい。
うっとり。目をハートにして聖君をじいっと見ていると、
「桃子ちゃん、俺じゃなくて海見たら?」
と聖君はくすって笑ってそう言った。
「だって、聖君、かっこいいから」
「見惚れてた?」
「うん」
「あはは」
聖君が爽やかに笑った。ああ、笑顔が爽やかすぎる。
そこに店員が飲み物を持ってきた。そして、私の前にクリームソーダを置くと、にこりと私に微笑んだ。聖君の前にもコーラも置き、
「ごゆっくりどうぞ」
となぜか、また私を見てにっこりと微笑んだ。
店員が去ってから、聖君が、
「感じ悪い店員だな」
と珍しく文句を言った。
「なんで?」
「桃子ちゃんにばかり、愛想振りまいてた」
「…自分に笑顔を向けてくれないから?」
「そうじゃなくって。桃子ちゃんに色目使ってたから」
「ええ?聖君だってお店で、お客さんに微笑みかけるじゃない」
「カップルなら、男の方にもちゃんと笑って答えるよ」
「…だけど、俺の彼女に色目使わないでくれって、一回注意されてなかったっけ?」
「ああ、あれね。別に色目使ってないんだけどね」
「ほら。さっきの人だってそうだよ」
「う~~~~~ん」
聖君はうなって、むすっとしてしまった。
「聖君」
「ん?」
私は聖君が私を見たので、そのまま聖君をじいっと見つめた。
「なに?桃子ちゃん」
「聖君、今日の格好もかっこいいね?」
「へ?」
「そのジャケット着ると、大人っぽくなる」
「そう?」
「……ねえ、ちょっと黙ったまま、海を見つめてて」
「俺?」
「うん」
聖君は言われた通りに、そのまま黙って海を見つめた。
「は~~~~」
私は思わず、ため息をついた。
「なに?」
聖君がこっちを見た。
「かっこいいなあって思って」
そう言うと、聖君はさすがに呆れたっていう顔をして、
「そのためだけに今、俺を黙らせたわけ?あれ?ってことは、黙ってないとかっこよくないわけ?」
と口をとがらせた。
「…あ、今の顔は可愛い」
「ええ?今のって?」
「ちょっとふてくされた顔」
「…」
聖君は眉をひそめた。
「あ、今の顔は…」
「もういいって」
聖君はそう言うと、コーラをゴクゴクと飲んだ。私はまだ、聖君のことをじっと見ていた。
「桃子ちゃん、アイス溶けるよ」
「あ、うん」
クリームソーダの上のアイスをスプーンですくい、私はバクッと口に入れた。今度は聖君が私を見ているので、
「欲しいの?」
と聞いてアイスをスプーンですくって、聖君の口に入れてあげた。
「甘い」
と聖君は目を細めて言ってから、
「そうじゃなくって、俺も今、見惚れてたところだったのに」
と聖君はぶつくさ言った。
「聖君、さっきの」
「え?」
「あ~~んってアイスを食べた聖君、可愛かった」
「だから~~、桃子ちゃん、もういいって。俺、聞いてて恥ずかしくなってきた」
ああ、ふてくされたんじゃなくって、照れていたのね。
「聖君って、シャイだよね」
「…」
「照れ屋さんだよね?」
「はいはい」
聖君はまた、呆れたっていう顔をして私を見た。でも、微かに鼻の穴がひくひくして、耳が赤くなっている。まだ照れてるんだなあ。
「あ…」
「え?」
「聖君、ちょっと、胸がはってきちゃった」
「じゃ、もう帰ろうか?凪も寂しがってるかもね」
「うん」
でも、寂しいのは聖君だったりしない?凪がいなくって。
会計はまた、さっきの店員だ。聖君の横でちょこんと立っていると、
「ありがとうございました」
と会計が済み、その店員は私のほうを見てにこりと笑った。私は、ちょっと引き気味にして、聖君の腕に思い切りしがみついた。
「聖君、早く帰って凪におっぱいをあげなくっちゃ。もし泣いてたら、お父さんが困ってるよね」
私はわざとその店員にも聞こえるようにそう言った。店員は、ちょっと変な顔をして私たちを見た。
「え?ああ、そうだね。あれ?でも、出産祝いのお返し、買ってこなかったけど、あれはいいの?」
「ああ!」
忘れてた~~。
「また今度、買いに行こうか。そうだ。ベビーカーも買ったんだし、凪も連れて買い物に来ようよ」
「うん!今度は親子3人でね?」
私はそう言って、また聖君にぴっとりとくっついた。
それからお店を出たが、店員はもう私に微笑みかけることもなく、ただありがとうございましたと言うだけだった。
「…やっぱり、桃子ちゃんに絶対、目、つけてたでしょ?あいつ」
「わかんない。ただの女好きの人だったかもしれないし」
「え?」
「だって、聖君にはいっさい、微笑まなかったし」
「な?感じ悪いよな?」
「聖君があまりにもかっこいいから、対抗意識でも持っちゃったんじゃないの?」
「俺に?」
「うん」
「何の対抗意識?」
「わかんないけど」
「ま、いっか。それより早く、帰ろうか」
「うん」
車に乗り込み、江の島を目指して車を走らせた。その間もおっぱいがどんどんはってきてしまい、私は気が焦ってしまった。
「そんなに、はってるの?」
「うん」
「もし凪が泣いてたとしても、哺乳瓶でちゃんとミルク飲んでるよ」
「うん、それはいいの」
「じゃ、なに?」
「ちょっとはってて、痛い感じがして」
「大丈夫?どっかに車停めて、俺、マッサージしてあげようか?」
「………」
私は聖君の横顔をじっと見た。ちょうど信号で車を止めた聖君は、私のほうを見た。
「なに?」
「エッチ」
「エッチって!そんなエッチなこと俺、考えていないし、言ってないでしょ?」
「冗談だってば」
「も~~~。桃子ちゃんは~~~~!」
聖君は耳を赤くして、口をとがらせた。
「大丈夫。痛いって言っても、そんな感じがするだけだから」
「……」
聖君はまだ口をとがらせ、信号が青に変わり、車を発進させてもむすっとしている。
「じゃ、じゃあ、もし凪がもうミルクを飲んで、お腹いっぱいだったら、聖君にマッサージしてもらおうかな」
「…どこで?」
「え?うちで…」
「……俺」
「うん」
「そのまま、その気になりそう」
「じゃあ、駄目!」
もう~~。聖君、やっぱりエッチじゃないかあ。
「嘘。ほら、今はまだ恋人気分でいるからさ、でも帰って凪を見たら、ちゃんと父親に戻るし、夫にも戻るよ」
「…夫?」
「そう。妻をちゃんといたわる夫」
「…そっか」
もうすぐ恋人から妻、母親に戻るのかあ。
「まだ、恋人がいいなあ」
私は思わずそうつぶやいていた。すると、
「…桃子ちゃん、もうちょっと二人で、どっかに行く?」
と聖君がそう言ってきた。
「え?ううん。ちゃんと帰るよ?」
「…あ、そう」
聖君はちょこっとがっかりしている。もしかして聖君もまだ、恋人でいたかったの?
れいんどろっぷすに着くと聖君は、私を降ろして車を駐車場に入れに行った。私は先にお店に入って行った。
「いらっしゃ…、あ、桃子ちゃん」
朱実さんが私を見て、
「可愛いね、そのワンピース。今日、デートだったんでしょ?」
と言いながら、ドアの近くに来た。
「はい」
私がうなづくと、
「聖君は?車を入れに行った?」
と朱実さんが聞いた。
「はい、すぐに来ると思います」
私はそう言って、お店の奥に行き、
「今、帰りました」
と聖君のお母さんに挨拶をした。
「あら、もっとゆっくりしてきてもよかったのに」
「でも、胸がはっちゃって」
「凪ちゃんだったら、さっきミルクも飲んだし、ご機嫌よ?」
「そうですか。いろいろとありがとうございました」
「残念ながら、私はミルクを作っただけ。ミルクをあげたのも、世話をしたのも、爽太と杏樹よ」
お母さんはそう言って、苦笑いをした。
私はリビングにあがった。
「ただいま」
「おかえり~~」
聖君のお父さんと杏樹ちゃんは、私を元気に出迎えた。凪は聖君のお父さんが抱っこしていた。
「凪ちゃん、ママ、帰ってきたよ」
そう聖君のお父さんが言うと、凪は私のほうを見た。ような気がした。だがまた、聖君のお父さんのほうを向いてしまった。
あれ?
「な~~ぎ」
間近まで行って、凪に声をかけると、ようやく凪は反応した。そしてこっちに手を伸ばすので、私が抱っこをした。
ママだって、わかっているのかなあ。
「ただいま!」
聖君は元気にそう言い、リビングに急いであがってきて、
「凪~~!いい子にしてた?」
と凪の顔を覗き込んだ。凪は聖君のほうを見て、また手を伸ばした。
「パパに抱っこしてもらいたいの?凪」
聖君はそう言うと私から凪を受け取り、目じりを下げ、思い切り喜んだ。
なんだ。やっぱり凪は、聖君が一番いいのかなあ。
「着替えてきます」
私はそう言って、2階に上がった。和室に入り、ワンピースを脱ぎ、長そでTシャツにパーカーを羽織り、ジーンズを履いた。
「桃子ちゃん」
聖君が2階に来て、和室に入ってきた。
「あれ?凪は?」
「杏樹が抱っこしている」
「いいの?もっと凪のこと、抱っこしなくって」
「うん。それよりさ、おっぱい大丈夫?」
「…はってる。どうしようかな。搾乳してあとで凪にあげようかな」
「…俺、手伝う?」
「エッチ」
「だから~~、もうちゃんとパパと夫に戻りました!」
聖君はまた口をとがらせた。
「じゃ、じゃあ、お願いしようかな」
そう言うと聖君は私の横に来て、Tシャツをまくりあげたが、一気に私がドキドキしてしまって、
「やっぱり、いい」
と私は後ろを向いた。
「え?どうして?」
「だって、私のほうがまだ、ママにも奥さんにも戻れていなくって」
「へ?」
「聖君に今、胸を触られたら、きっとドキドキしちゃう」
「…うそ」
聖君がそう言ってから、後ろから抱きしめてきた。
「駄目。そういうのも、ドキドキするから」
「なんだ~。それならそうと、早くに言って。俺もすぐに、恋人に戻れるよ?」
「聖君」
「うん?」
聖君はうなじにキスをしている。
「搾乳したいから、下に行っててね」
「…」
それでも、聖君はまだ、私から離れない。
「聖君!下!」
「はい」
聖君は私にそう言われると、ハウスと言われた犬のように背を向けて、おとなしく和室を出て行った。
「もう。油断ならないんだから」
そう言いながら、まだ私の顔はほてっていたし、胸はドキドキしていた。
あ~~あ。胸がはっていなかったら、まだまだ恋人でいたかったなあ。なんて、一人で搾乳しながら私はがっかりしていた。
だけど、もう母親に戻らなくっちゃね。