第26話 くびったけ
聖君はお店を閉めると、暗い顔でリビングに来た。そして私の前に座ると、
「ごめん!桃子ちゃん。本当にごめん!」
といきなり頭を下げた。
「は?」
なんで謝られたのかわからず、目を点にしていると、また聖君は、
「ごめん!」
と謝った。
「なんだ?聖。桃子ちゃんに何をしちゃったんだ?」
聖君のお父さんもきょとんとしながら聞いた。凪を抱っこしている杏樹ちゃんも、
「お兄ちゃん、何をしでかしたのよ」
と聖君に聞いた。
「…俺、桃子ちゃんの誕生日、すっかり忘れてた」
なんだ、そのことか。ああ、びっくりした。深刻な顔をして謝ってくるから。
「桃子ちゃんの誕生日?いつだっけ?」
お父さんは目を丸くして私に聞いた。
「3月29日です」
「うわ。先月?やばいじゃない、お兄ちゃん。っていうか、私もお父さんも忘れてた。ごめんね、お姉ちゃん」
杏樹ちゃんにまで謝られた。
「本当だ。忘れてた!大変だ。くるみもすっかり忘れてるぞ」
そう言って、聖君のお父さんは立ち上がり、
「くるみ、大変だ」
とお店に行ってしまった。
「え?」
え~~~?なんだか、おおごとになっているんですけど。
「桃子ちゃん~~。ごめんね~~」
聖君のお母さんも、血相を変えて飛んできた。
「どうしましょう。聖、どうする?パーティ」
パ、パーティ?
「いつにする?いつがいいかしら」
「そうだな。今度の水曜は?夜、お店でやる?」
「あ、あの、私、そんなパーティだなんて…」
申し訳ない気分になり、私がそう言うと、
「桃子ちゃんはもう、家族の一員なのよ。パーティするのは、当たり前じゃないの」
とお母さんに言われてしまった。
「じゃ、来週までうちにいたらいいんじゃない?そうしたら、水曜パーティするのも、全然問題ないし」
杏樹ちゃんの提案で、そういうことになった。
「もっと早くに思い出していたら、今週の水曜にできたのにねえ。パーティ」
聖君のお父さんは、ふうってため息をついた。
「水曜って何をしていたっけ?」
聖君のお父さんは、腕を組んで考え込んだ。
「ずっとみんなで、凪ちゃんのこと世話していたわね。私なんて、まるまる1日凪ちゃんを世話できて、幸せだったわよ」
「ああ、そうだった。そうだった」
お父さんは笑いながらうなづいた。
「あのさ、一週間延ばすなら、明日か明後日にでも俺、桃子ちゃんと出かけてもいいかな」
「いいわよ。デート?」
「うん。プレゼントも買いたいし」
「い、いいよ。聖君」
そんな、悪いもん。
「明日行っておいで、聖。ちょうど仕事の区切りがつくから、俺が凪ちゃんの世話をするよ」
「私もできるよ。明日、テニス部休みなんだ」
杏樹ちゃんはそう言って、嬉しそうに凪を見た。
「じゃ、2人に凪のことをお願いして、俺たちはデートをしてこよう、ね?」
「い、いいんですか?」
「当たり前だよ。誕生日をみんな忘れていたんだ。そのくらい償いをさせてくれよ、ね?桃子ちゃん」
「そうよ。店の方もバイトの子が明日は2人も来ることになっているし、全然大丈夫だから」
聖君のお父さんとお母さんはそう言って、にっこりと笑った。
「ありがとうございます」
なんだか、申し訳ない。だけど、2人きりでデート、すごく嬉しい。
お風呂に入り、2階に上がった。和室に布団を敷き、髪を乾かしていると、聖君が凪を連れて2階に上がってきた。聖君はお風呂から出たばかりで、髪がまだ濡れている。
やけに色っぽい聖君と、凪。ちょっと不釣り合いに見えたりして。
「桃子ちゃん、ごめんね?」
「え?いいよ。私だって忘れてたんだし」
「…だけど、奥さんの誕生日を忘れる夫なんて、夫失格だよね」
ありゃ。聖君、相当落ち込んじゃってるな。聖君に抱っこされている凪が、突然ぐずりだした。
「パパが落ち込んでると、凪まで落ち込んじゃうよ、聖君」
そう言うと、聖君は、
「ああ、ごめん。凪。大丈夫だよ。パパとママは、こんなことがあっても、仲悪くなったりしないから」
とわけのわかんないことを言って、凪をあやしだした。
「あ、当たり前だよ~~。だいいち、喧嘩をしているわけでもないし、私、怒ってないし」
「…桃子ちゃん、寛大すぎるよ。普通怒るでしょ?なんで私の誕生日、忘れてるのよ~~って」
聖君が裏声を使って、怒った口調でそう言うと、ますます凪がぐずってしまった。
「ああ、ごめん。凪。パパ、怒ってるわけじゃないからね。凪のママが寛大だから、びっくりしただけだよ」
また聖君はそんなことを凪に言って、凪の背中をぽんぽんと優しくたたきだした。
凪はすぐにおとなしくなった。聖君の魔力にかかったんだね。
そして凪は聖君の腕の中で、すやすやと寝てしまった。
聖君はそっとマットに凪を寝かせて、私のことを後ろから抱きしめた。
「ごめんね?」
「もう、いいよ~~」
そう言うと聖君は、うなじにキスをする。
「誕生日を忘れてた分、今夜は思い切り愛しちゃうから」
「へ?」
「とろとろにとろけちゃうくらい、愛しちゃうから」
へにゃ。その言葉だけで、十分とろけた。
聖君は、本当に優しく私を愛してくれた。
なんでこんなに、聖君は優しいんだろうっていまだに思う。
キスも触れる手も、全部が優しい。
「聖君」
「ん?」
私は聖君の名前を呼んだけど、何も言わず聖君に抱きついた。
「愛してるよ、桃子ちゃん」
「うん」
あ~~~。幸せだ。
聖君は優しく、私の髪をなでた。
「桃子ちゃん、18歳なんだね」
「うん」
「出会ったのって、16歳だった?」
「15歳だった」
「そうか。まだ15歳だったんだ」
「てんで子供だよね?」
「…あの頃もすごく可愛かったよ。でも、桃子ちゃん、どんどん大人になって、綺麗になったよね」
「ええ?また、そんなこと言って」
私は一気に顔が熱くなった。
「まじだよ、まじ。綺麗になったよ。凪を産んで、さらに綺麗になった気がする」
「それ、聖君の目の錯覚だよ」
「そうかなあ。俺、桃子ちゃんはもう人妻だって言うのに、心配だ」
「は?」
私は聖君の胸にうずめていた顔をあげ、聖君の顔を見た。あ、冗談を言ってる顔じゃない。真剣そのものだ。
「今日の客、桃子ちゃんをやたらと見てた」
「カウンターにいたサラリーマン?」
「そう」
「あれは、私がへまばっかりしていたから」
「そうかな。それにしては目つきがやらしかったよ」
「それも、聖君の目の錯覚だってば」
「いや、男の勘でぴんときた。あいつは桃子ちゃんに気があった」
「まさか~~」
「い~~や、絶対にそうだ」
もう、聖君てば、どうしちゃったの?
「桃子ちゅわん。浮気は駄目だからね?」
「そんなのしないってば。聖君しか目に入らないのに、するわけないじゃん」
「ほんと?」
聖君が私の上に覆いかぶさり聞いてきた。
「うん。聖君以上にかっこいい人、この世にいないし」
「…」
「こんなかっこいい旦那さんがいるのに、浮気するわけないもん」
「ほんとう?」
「本当に!」
私がそう言うと、聖君はまた熱いキスをしてきた。
「明日寝坊できるから、もう一回大丈夫だね」
そして、優しく首筋にキスをする。
駄目だ。すでにとろけた。
浮気なんてとんでもない。聖君だけしか目に入らないし、聖君だけしか愛せないし、聖君にだけ、夢中なんだから。
聖君の腕の中で、私はずうっと幸せをかみしめていた。
翌日は、あいにくの雨だった。
「残念。ドライブに行こうと思ってたのにな」
聖君は起きてからカーテンを開け、そうつぶやいた。
「聖君、お願い。せめてパンツを履いて」
全裸でカーテンを開けちゃったけど、外から誰かに見られたりしないんだろうか。
もし、若い女性だったら、きゃ~~ってことになるし、いや、聖君の全裸見て、喜んじゃうかもしれないし。って、そんな変態はいないか。
聖君はパンツを履き、Tシャツを着ると、
「俺、シャワー浴びてくる。桃子ちゃんはまだ、ゆっくり寝てて」
と凪におっぱいをあげている私を残し、一階に下りて行った。
私は凪のオムツを替え、凪を抱っこして一階に下りた。まだ7時前。でも、お店からはコーヒーの香りがしてくる。
「おはようございます」
「あら。早いのね、桃子ちゃん」
「凪が起きたから」
「凪ちゃん、いつもこの時間よね。なんだか、生活のリズムがきちんとしてきたみたいよね」
「はい」
「夜も寝てくれるんでしょ?いい子よね、本当に」
「はい」
凪は本当にあまりぐずらないし、夜おっぱいを飲むと、朝まで寝てくれることがほとんどで、助かっている。
「凪ちゃん、おはよう」
聖君のお母さんは凪にそう言いながら、凪のことを抱っこした。
「桃子ちゃん、顔洗ってきていいわよ」
「はい」
凪のことをお願いして、私は洗面所に行った。すると、シャワーを浴びたあとの聖君が、まだ洗面所にいた。
「あれ?起きちゃったの?」
「うん。だって、目覚めたし」
「凪は?」
「お母さんが見てくれてる」
私はさっきから、目のやり場に困っていた。だって、聖君、まだ全裸だし。
「天気悪いし、どうする?今日」
聖君は後ろから私に抱きついてきて、そう聞いた。いや、だから、パンツくらい早く履いてってば。全裸で抱きつかれたら、どうしたらいいんだか。
「か、買い物に行きたい」
「買い物?」
「昨日、麦さんと桐太からお祝いもらったの」
「ああ、まだ見てないや。凪にもくれたんだっけ?お礼しないとね」
「うん。そのお礼の品も買いたいし、それに桐太と麦さん、きっと楽しく一緒に買いものしたんだろうなって思って、羨ましくなって」
「凪のものでも買いに行く?そういえば、凪が生まれてから2人で買い物って、行ってないよね?」
「うん」
「じゃ、車でどっか買い物に行こう」
「うん」
ギュウ。聖君はまだ、私のことを抱きしめている。
「聖君」
「ん?」
「いい加減、その、服を着たほうがいいかも。寒くない?」
「うん。桃子ちゃん抱きしめてるから寒くない」
「で、でも、パンツくらいは履こうよ」
「桃子ちゃん!」
「何?」
「ぎゅ~~~」
聖君はさらに私を抱きしめる腕に力を入れた。
「な、なあに?」
「どうせ早く出たって、デパート開いてないし、2階に行っていちゃつかない?」
「しないよ。それにもう布団もあげちゃったもん」
「…じゃあ、ここで」
「しないってば!」
「桃子ちゃんのいけず~~~」
「そんなこと言って、杏樹ちゃんや、お父さんが来たらどうするの?」
「来ないよ。みんな2階の洗面所使うもん」
そうだった。ここは、お風呂に入るときくらいしか、みんな使わないんだった。
「それに鍵かかるんだ。だから、入って来れない」
「駄目。駄目だってば」
聖君はドアに手を伸ばし、本当に鍵をかけてしまった。
うそ。何を考えてるんだ。この人は。
「ね?」
ね?って何、ね?って。
「桃子ちゃん」
聖君は今度は私の真ん前に来て、キスをしてきた。それも、熱いとろけるキス。私は思わず力が抜けそうになり、しっかりと聖君の両腕にしがみついた。
「ひ、聖君、ずるい」
「なんで?」
「聖君のキスは力が抜けるの」
「じゃ、もう一回」
だから、それがずるいんだってば。
聖君はまたキスをしてきた。キスをしながら、私のカーディガンを脱がしだす。
「駄目!」
私は聖君の手を払いのけ、どうにか聖君の腕から抜け出した。そして鍵を開け、さっさと洗面所も抜け出した。
「桃子ちゅわん」
という聖君の声が聞こえてきたが、バタンとドアを閉め、聖君を一人置き去りにして、また私は店に戻った。
もう~~。信じられないよ。お母さんだって凪の世話をしていたら、お店のことなんにもできなくなるんだよ?
「凪、こっちにおいで」
そう言って私は凪を、お母さんから受け取った。
「凪、クロに見てもらって、私、お店の手伝いをしますね」
「あら、いいわよ。聖に手伝わさせるから」
お母さんはそう言うと、家の中に向かって、
「聖~~。ちょっと店の手伝いしてくれる~~?」
と叫んだ。
「え~~~~?」
聖君がTシャツとパンツ姿で、ちょっと嫌そうな顔をしながら、お店に来た。
「あんた、まだそんな恰好でいるの?さっさと服着て、お店に出てよ」
「へ~~い」
聖君はそう言うと、頭をぼりって掻いて、家に戻って行った。
「まったく。あんな恰好でうろちょろしてるなんて。桃子ちゃんもがっかりでしょ?まさか、桃子ちゃんのおうちでも、あんな恰好でうろうろしてないでしょうね」
「はい。一応あれに、スエットのパンツを履いています」
「え~~?よれよれのTシャツにスエットパンツ?」
「あ、父も似たようなものですから、うちの家族は気にしてないですけど」
「は~~。嫌になっちゃうわよね。ああいうルーズなところは誰に似たのかしら。爽太は意外ときっちりしているのにねえ」
聖君のお母さんはそう言ってから小声で、
「あ、実だわ」
とつぶやいた。なるほど。血は争えないってわけか。今度、菜摘に家でお父さんがどんな格好でいるか、聞いてみるとするかな。
それにしても、お母さん。Tシャツとパンツどころか、聖君は平気でさっきまで私の前で、全裸だったんです。
とは、言えないよね。
全裸の聖君には、がっかりなんてしません。それどころか、ドキドキしちゃいます。なんてのも、もちろん言えないよね。
なんてわけのわからないことを考えて、一人で顔を赤くし、
「い、いけない。凪がじっとママを見ている」
と気を取り直して、私は凪を抱っこしたまま、リビングに戻った。
聖君は髪も整え、グレーのTシャツに洗いざらしのシャツを羽織って、颯爽とおりてきた。うわ。かっこいい~~。
なんでこうも、なんでもない洗いざらしのシャツが似合ってしまうんだろうか。
「ちょっと店、手伝って来るね」
と聖君は爽やかに言うと、凪の頬にチュッてキスをしてお店に行ってしまった。
ああ、爽やかだ。さっき、全裸でせまった聖君や、私に甘えた聖君や、よれたTシャツとパンツの聖君と同一人物とは思えないほどだ。
でも、甘える聖君も、せまってくる聖君も、よれたTシャツの聖君も、素敵に見えちゃうから、私はやっぱり相当な変人なんだろうな。
「ね?凪。ママは本当にパパに、くびったけなんだよね」
凪は目を丸くして、私の顔に手を伸ばした。その掌にキスをした。
「凪もパパに夢中になる?それとも、もっと好きな人が現れるのかな」
あんなにかっこいいパパだったら、ファザコンになりそうだよなあ。そんなことを思いながら私は、凪を抱っこしたまま、ゆらゆら揺れていた。