第18話 久々の榎本家
クーン。カリカリ…。
何の音だろう。意識の遠くから、聞えてくる音。
「ワン!」
犬の泣き声?
「ワン!」
あ、もしかしてクロ?
私は目を覚ました。外はすでに薄暗い。聖君の机の上の時計を見たら、5時を過ぎていた。
「あちゃ。こんなに寝ちゃった」
ガチャ。ドアを開けた。クロがしっぽを振って部屋に入ってきた。それから足元を回ってクーンと鳴き、私の足を鼻先で押す。
「あ、もしかして迎えに来てくれたの?」
「ワン!」
クロは嬉しそうにしっぽを振った。私はそれからクロと一緒に、階段を下りた。
「桃子ちゃん、起きてた?これから凪のことを父さんがお風呂に入れるっていうから、いろいろと用意をしようと思ってたんだ。クロ、桃子ちゃんを呼んで来てくれてありがとう」
聖君は凪を抱っこしながらかがみこみ、クロの頭をなでた。クロは顔のすぐ横に凪がいるので、クンクンと匂いを嗅いだ。
リビングにはすでにバスタオル、凪の着替え、オムツ、そして白湯の哺乳瓶も用意されていた。
「お父さんが今日は入れるの?」
「うん。今、お風呂のお湯の温度が熱くないようにって、母さんと調節してるよ」
「ごめんね。私、なんにもしなかった」
「いいよ。疲れてたんでしょ?よく寝てたし…。ただ、お風呂からあがって、凪、お腹空いて泣いちゃうかもしれないから」
「そうだよね…」
聖君に抱っこされている凪は、機嫌がよさそうだ。
「聖~~。もう入れそうだから、凪ちゃん連れてきて」
お母さんの声がバスルームから聞こえた。
「へ~~い」
聖君は大きく返事をして、凪を連れて行った。
「父さん、頼んだよ。くれぐれも凪を風呂の中に落っことすようなことはしないでくれよ」
「大丈夫だよ。聖も杏樹も俺が入れてたんだ。まだ、その頃のことも覚えているし、心配するな」
そんなお父さんの声がして、それからお風呂場のドアが閉まる音がした。
「さて、凪ちゃんが出てきたら、私が受け取りに行くから、2人はゆっくりとしててね」
聖君のお母さんがバスルームからやってきて、そう言った。
「体拭いたり、着替えさせるのを母さんがするの?」
「そうよ。バスタオルを持って凪ちゃんのこと受け取りに行ったらいいんでしょ?そうしたら、ここに連れてくるから」
お母さんは目を輝かせている。相当嬉しいらしい。
「父さんも母さんも、嬉しそうだね」
聖君がちょっと呆れながらそう言うと、
「当たり前じゃないの~~~!!!」
とお母さんは声を裏返した。
ああ、本当に嬉しそうだ。思わず聖君と黙って目を見合わせてしまった。
そして数分後。
「くるみ~~。凪ちゃん出るよ~~」
「は~~~い」
お母さんがバスタオルを持って、いそいそとバスルームへと駆けて行った。
「あ~あ。あれじゃ、2人が凪の両親みたいじゃん」
聖君が口をとがらせ、ボソッと言った。
「凪ちゃん、気持ちよかった?すぐに体を拭きましょうね」
お母さんは1オクターブ高い声でそう言いながら、やってきた。
そしてリビングで体を拭き、オムツをして服を着せた。凪はすごくご機嫌だ。服もお母さんが買った、ピンクの産着。今までは、生まれる前に揃えていた、クリーム色の服ばかりを着ていたが、ピンク色の産着を着た凪は、やたらと女の子って感じになった。
それから聖君が凪に白湯をあげようとすると、凪は嫌がってぐずりだした。
「聖じゃ、嫌なんじゃない?」
お母さんがバスタオルを片づけながらそう言うと、聖君は思い切りぶすっとして、
「違うよ。お腹が空いてるだけだよ」
とお母さんに言い返し、凪を私の腕に抱かせた。凪はおっぱいを欲しがっている。
「えっと、2階であげてきます」
私はこれからお父さんも出てくるんだよなあ、と思い、凪を抱っこして2階に上がった。階段を上っている間に凪は、本格的にぐずりだした。
その後ろをトントンと、聖君がついてくるかと思いきや、来たのはクロだった。
私はそのまま聖君の部屋に入り、ベッドに座っておっぱいをあげた。それをクロが足元でちょこんと座って眺めている。時折、クンクンとにおいを嗅いだり、ク~~ンと鳴いてみたりしながら。
「なんだ。クロも来ちゃったの?」
聖君も、一気に2階に駆け上がってきたようだ。
「聖君、お父さんが凪をお風呂に入れるの、よく快くOKしたね」
「え?なんで?」
「絶対ダメって、反対するかと思ってた」
「…初めは、俺が入れるからって断ったよ。でもさ、たまには桃子ちゃんとゆっくり、お風呂に入ったらいいじゃないって、母さんに言われて」
「え?!」
私と?
「で、それもそうだなって思って」
「………」
「だから、あとで一緒に入ろうね?」
「ううん。駄目」
「え?」
聖君の顔がさっと青くなった。
「なんで駄目?」
「…聖君、たまには、一人でゆっくりと入ったら?」
「……」
聖君の表情がどんどん固まっていく。
「桃子ちゃんの…」
「え?」
「いけず」
「い、意地悪で言ってるんじゃないよ」
「じゃ、一緒に入ろうよ」
やだよ。だって、まだ私のお腹の皮、だぶついてるもん。そんなかっこ悪いお腹見せられないよ。
「やっぱり、駄目」
「…あ、そう」
聖君はいきなりすねた顔になり、私ではなくクロのほうを向き、クロの頭をなで始めた。
「いいよ。うん。一人でたまには入るよ」
そう小声で言うと、聖君はずっとクロを見つめて黙り込んでしまった。
「凪、お腹いっぱい?なんだか眠そう…」
「じゃ、寝かす」
聖君はさっさと私から凪を受け取り、肩に乗せゲップをさせると、そのまま抱っこをして簡単に寝かしつけた。
「ここに寝かすわけにもいかないから、凪、下に連れて行くよ」
「うん…」
聖君は凪を抱っこしたまま、階段を下りて行った。その後ろを、しっぽを振りながらクロがついて行った。
いじけたかな。それともすねた?怒った?
やっぱりちゃんと、一緒に入れない理由を言うべきだったかな。でも、そんなの気にしないって言いそうだし。だけど、私は思い切り気にしているし…。
凪は聖君とお父さんが見てくれているので、私はお母さんと一緒に夕飯の準備に取り掛かった。その時、杏樹ちゃんがお店のほうから帰ってきて、
「お姉ちゃん!いらっしゃ~~い!」
と私のもとに走って来てから、抱きついてきた。
「おかえり、杏樹ちゃん」
「ね!凪ちゃんは?」
「リビングにいるよ」
「抱っこしてもいい?」
「今、寝てるかも」
「じゃ、寝顔見てくるね。寝てるから静かに行かなくっちゃ」
杏樹ちゃんはそう言うと、そうっとお店から家のほうへと向かって行った。
「桃子ちゃんの家も、こんな感じ?」
「え?」
「ご両親もひまわりちゃんも、凪ちゃんの世話をしたがって、大変なんじゃない?」
「ひまわりはそうでもないんです。まだ抱っこもしていないし」
「まあ、そうなの?」
「首がすわっていないのが、怖いみたいで」
「なるほどね」
「父は大変です。目じりを下げて、すっかり爺バカです」
「あはは。うちの爽太と同じね」
「母は、で~~んってしています」
「で~~ん?」
「子育ての先輩って感じで、いろいろと聖君にもアドバイスしているし」
「まあ、そうなんだ。聖、ちゃんとそのアドバイスを聞いてるの?」
「はい、目を輝かせながらいつも聞いています」
「あら、そう。あの子、凪ちゃんのことだと、一生懸命よねえ」
「はい」
そうなんです。今、聖君は凪のことでいっぱいなんです。私のことなんて、まったく気にかけてもらえないんです。とは言えないよね。
それからご飯が出来上がり、みんなでリビングで一緒に食べた。凪はまだ、気持ちよく寝ている。お風呂からあがったあとは、凪は熟睡してしまう。このあともちゃんと寝てくれたらいいんだけどな。今日はいつもよりも、だいぶお風呂が早かったから、どうかなあ。
「凪ちゃんの寝顔、可愛い」
杏樹ちゃんはご飯を食べながらも、凪の寝顔をちらちらと見ている。
「あとで起きたら、抱っこさせてね」
杏樹ちゃんがそう言うと、聖君は「いいよ」と言って、にこっと微笑んだ。
夕飯は和やかにみんなで食べた。食べ終わるとお母さんは、みんなにコーヒーを入れた。私には、ハーブティを入れてくれた。
「お宮参りも終わったね」
聖君のお父さんがそう言って、コーヒーを飲み、ふうって息を吐いた。
「桃子ちゃんも体の調子よさそうだし、凪ちゃんも元気だし、ほんとよかったわ」
「うん」
聖君は嬉しそうにうなづいた。
「一週間しか、こっちにいないの?」
杏樹ちゃんがそう聞いてきた。
「うん。なんで?杏樹、寂しいの?」
聖君が杏樹ちゃんに聞くと、
「凪ちゃんの世話、もっとしたいんだもん」
と杏樹ちゃんは、ちょっとすねた感じで聖君に答えた。
「あはは。そっか。まあ、そのうちこっちで暮らしてもいいんだし、それはまた、桃子ちゃんのご両親と相談だな、聖」
聖君のお父さんが代わりにそう言った。聖君はお父さんの隣で、うんってうなづいた。
「そうだ。結婚式も考えないと」
聖君は、思い出したっていう顔をして、いきなりぽんと手をたたいた。
「ああ、そうだよな。いつ頃がいいんだろう。ね?桃子ちゃん」
「凪も出席するから、首も腰も据わってからのほうがいいかなって思うんですけど」
私が聖君のお父さんの質問にそう答えると、
「じゃ、半年先くらいかな。その頃なら桃子ちゃんも、すっかり体調が戻ってるだろうし」
と聖君のお父さんが提案した。
ああ、その頃には体重も体型も戻っていたらいいんだけど。っていうのは、私の心のつぶやき。
「だったら、もういろいろと決めて行かなくっちゃ」
お母さんが身を乗り出してそう言った。
「どこで式を挙げるの?教会?」
杏樹ちゃんも目を輝かせて聞いてきた。
「レストランとか、そういうホームパーティみたいなのがいいかなって思うんだけど、駄目かな。ね?桃子ちゃんはどうしたい?俺はうちわだけの式やパーティがいいかなって思うんだ」
「私も、そういうのがいいな。結婚式場で大々的な式を挙げるっていうのは、なんだか恥ずかしいし」
「そうねえ。爽太もフリーで働いてるし、聖も呼ぶなら友達くらいでしょ?榎本家はいつものメンバーで集まるようになるわよねえ」
「はは。じゃ、いつものパーティと変わんないか」
「パーティ好きの親戚だから、いいんじゃないの?」
聖君のお父さんと聖君はそんなことを言って笑っている。
「桃子ちゃんは?誰を呼ぶ?」
「私は両親と、祖母と祖父。あとは友達で…」
「友達だけでも、どっかで2次会とかしたいよなあ」
聖君がぽつりとそう言ってから、
「あ、籐也たちも呼んで、歌わせちゃおうか」
と子供のような顔で言い出した。
「だったら、聖君も歌ってね」
「え?」
「見たいもん、私」
「俺?」
「うん」
「…そうだな。桃子ちゃんのためだったら、歌ってもいいかな」
う、やった~~~。
「ふふ。本当にあなたたちは、初々しいわよね?」
聖君のお母さんがそう笑いながら言った。
ギク。初々しい?そ、そうかな。最近、どうも仲のいい夫婦とか、バカップルだって意識、薄れてきたような気がするんだけどな。
「ふ…ふ…ふえ…」
「あ、凪、起きたんだ」
聖君は凪の声に敏感に反応して、すぐに凪の顔を覗きに行った。
凪は目を開けて手足を動かし、ぐずりだしている。
「喉でも乾いたかな」
聖君が、凪を抱っこして白湯を飲ませた。凪は白湯を飲むと、聖君の腕の中で機嫌よさそうに目を丸くした。
「抱っこさせて」
杏樹ちゃんがそう言って、凪のことを覗き込んだ。
「首、まだすわっていないし、縦抱きにしてね、杏樹」
と聖君は言ってから、杏樹ちゃんの腕に凪を渡した。
「可愛い~~~」
杏樹ちゃんは、思い切り喜んでいる。クロがさっきまで私の足元で寝ていたのに、立ち上がって杏樹ちゃんの足元をくるくると回りだした。
「クロも抱っこしたいの?」
杏樹ちゃんが聞いた。
「ク~~ン」
「はは。それは無理だよ、クロ。もう少し凪ちゃんが大きくなったら、一緒に遊べるさ」
お父さんが笑ってそう言った。
「クロは遊びたいんじゃなくって、凪の世話がしたいんだよな?」
聖君がそう言うと、クロは聖君のほうを見て、
「ワン」
と嬉しそうにほえた。
「やっぱりね」
聖君はニコって笑った。
「だけど、今は私の番なの」
杏樹ちゃんはそう言って、
「ね?凪ちゃん」
と凪に話しかけている。凪はまだご機嫌だ。
ていうことで、榎本家でも私はほとんど、凪を抱っこすることもなく、みんなが交代で抱っこをして、凪の世話をしている。きっとそのうち、クロまでが凪の面倒を見ることになるんだろう。
ちら。聖君を見た。聖君はずうっと、杏樹ちゃんに抱っこされている凪のことを見ている。
あ~~あ。ちらっとでもいいから、私を見てくれないかな。
そんな思いもよそに、聖君はずっと凪のことばかりを見ていた。
そしてその日の夜、私はまた一人でお風呂に入り、そのあと聖君も一人でお風呂に入った。
「あれ?一緒に入らなかったの?」
一人でリビングで、寝ている凪を見ていたら、お店からお母さんがやってきて、私に聞いた。聖君のお父さんは、ちょっと仕事でもするかと言って2階に上がり、お母さんは明日の仕込みをしていたようだ。杏樹ちゃんは自分の部屋に行き、宿題をしている。
そして今、凪の面倒を見ているのはクロだった。凪の寝ている座布団の横に寝転がり、まるで凪を見守っているかのように、クロは鼻の先を凪のほうに向け、おとなしく顔を床に伏せて寝ているのだ。
時々片目を開けて、凪の様子をうかがい、また目を閉じる。そんなクロは、まるで自分の子供を世話しているかのようだ。
「まだ、お腹が元に戻ってないんです」
いきなり聖君のお母さんにそう言うと、
「え?」
と驚いて、そのあとお母さんはくすくすと笑いだした。
「それを聖に見られたくないとか?」
「はい」
「そう。そうね。そういうのも気になっちゃうわよね」
聖君のお母さんはそう言うと、凪の寝顔を優しい目で見つめた。
「でも…」
お母さんは今度は私の顔をじっと見て、
「そういうのもちゃんと、聖に言ってみたら?あの子、きっと桃子ちゃんがそんなことを思っているってわからないと思うな」
と優しく話してきた。
「…」
「二人の間には、凪ちゃんがいるから。前よりもいろいろと自分の思ってることを口にしないと、伝わりにくくなっちゃうかも。特にあの子、女の子が何考えてるか、な~~んにもわかってないし」
「凪がいると伝わりにくい?」
「子供中心になってくるでしょ?お互いのことが見えにくくなったり、わかりづらくなってきたりするかもしれない」
ああ。それ、あるかもしれないな。
「そんな時には、直接なんだって話しちゃうことよ。ね?」
「はい」
なんだか、お母さんにはお見通しなのかもしれない。
素直になれない私も、いじけてすねてる私も。
今夜はもうちょっと素直になって、聖君にちゃんと伝えてみよう。
そう思いながら、私は凪のことをぼんやりと見ていた。