第14話 一ヶ月検診
いよいよ今日は、凪の一ヶ月検診だ。朝からなぜか聖君はハイテンション。
「凪、もう一ヶ月もたったんだね」
と凪に話しかけ、
「でももう、何ヶ月も凪と一緒にいるような気もするなあ」
と嬉しそうに目を細めている。
ミルクを持ったり、オムツを持ったり、おくるみで凪を包んだり、あれこれ用意をしてようやく車に私と凪と聖君は乗り込んだ。
「いってらっしゃい。気を付けてね」
母が車の横まで見送りに来て、発進してもまだ車を母は見ていた。もしかして一緒に来たかったのかなあ。
「凪、起きてるの?」
バックミラー越しに聖君が聞いてきた。
「うん。なんかちょっと様子が違うことに、気が付いているみたい…」
「ほんとう?」
「そんな気がするけど、わかんない」
凪はよく、口をすぼめて目を丸くする。これは緊張をしている時の顔なのかな。ゆったりしている時は、口元もゆるみ目も細くなり、ほえ~~って顔になる。私や母が沐浴させると緊張の顔になり、聖君が入れる時には、ほえ~~って顔をする。
本当に聖君だと、気持ちよさそうにするんだよね。きっと聖君の、
「気持ちいい?凪。湯加減はどう?」
なんて話しかける優しい声が、緊張をほどくんだろうな。それに聖君が凪の体にお湯をかけたり、凪を洗ってあげる時、すご~~く優しい手つきなの。
それを見てると、私の体を洗ってくれる時も、こんなふうに優しいんだ。って思っちゃって、ちょっと見ているのもこそばゆくなる。
「もう着いたよ。凪、桃子ちゃん。先におりちゃってくれる?俺、車停めてから行くよ」
「うん」
産院の前で私と凪は車から降りた。そして産院に入ると、すぐの長椅子に小百合ちゃんと小百合ちゃんのお母さんがいた。
「あ!桃子ちゃん」
「小百合ちゃん、久しぶり」
一ヶ月ぶりくらいだ。
「今日来るんじゃないかなって思ってたんだ」
「私も!」
受付を済ませ、小百合ちゃんの座っている前の長椅子に腰かけた。
「凪ちゃん、こんにちは」
小百合ちゃんと小百合ちゃんのお母さんが、凪の顔を覗き込んだ。
「凪ちゃん、順調?」
「うん。和樹君は?」
「最近、顔に湿疹が出てきたの」
「あ、凪もたまにぶつってできるよ?」
「…和樹はいっぱい。ほら、今日もほっぺが真っ赤なんだ」
「そっか~。だけど、乳児性の湿疹かもよ?」
「うん。それを今日先生に聞こうと思って」
小百合ちゃんは心配そうにそう言った。
「今日は一人で来たの?」
小百合ちゃんのお母さんが聞いてきた。と、その時に聖君がドアを開けて入ってきた。
「あ、旦那さんも一緒なのね」
それに気が付いた小百合ちゃんのお母さんは、聖君にも挨拶をした。
「あ、どうもこんにちは。小百合ちゃん、久しぶり。どう?元気?」
「うん。私は元気だよ」
「私はっていうと、和樹君が何か?」
聖君は私の隣に座り、小百合ちゃんに聞いた。
「湿疹が出ちゃって」
「ああ、そうか~~。でも、大丈夫だよ。そういえば、俺の一ヶ月頃の写真でも、顔は真っ赤だった。母さんが3~4ヶ月まで、ほっぺが赤かったけど、半年くらいしたら綺麗になったって言ってたし」
聖君はそう小百合ちゃんに言うと、ニコって笑った。
「そうだよね。心配することないよね」
「うん」
私も小百合ちゃんに微笑みかけた。小百合ちゃんはほっとした表情を見せた。
「あら、榎本さん。一ヶ月検診ですか?」
看護師さんが聖君を見つけて、聞いてきた。
「ああ、はい」
聖君は看護師さんを見てうなづいた。
「凪ちゃん、もう一か月たったの。早いわね」
その看護師さんは凪の顔を見てから、もう一回聖君のほうを向き、
「榎本さん、凪ちゃんのことちゃんと世話しているの?」
と聞いてきた。そしてそれから、5分くらい聖君と話し込み、
「あ、いけない。もう行かなくちゃ」
と言って、足早に階段を上って行った。
今日の午前中は、検診だけのようで、赤ちゃんを連れたお母さんがたくさんいる。入院中に見かけたことのある人も、ちらりほらりといた。中には、
「あら、旦那さんもついてきてくれたの?いいわね」
と言いながら聖君のそばに寄ってきて、話しかけてくるお母さんもいる。どう見ても、私よりも聖君目当てだろう。
そのうち、和樹君が呼ばれ、和樹君が検診を受けている最中に、凪も呼ばれた。
もちろんのこと、聖君もくっついてきた。すると看護師さんが目を輝かせ頬を高揚させ、聖君に話しかける。他の赤ちゃんを抱っこしている看護師さんも、
「あら、榎本さん、一ヶ月検診?」
と聞いてくる。
「はい」
聖君はただ、うなづくだけ。聖君は看護師さんとの会話よりも、凪の成長が気になってしょうがないようだ。
体重、身長をはかり終え、先生の診察が始まる。凪はいたって順調。聖君も嬉しそうだ。
が、いたって順調じゃないのは私のほうだった。
「悪露が残っていますね」
「え?」
「取り出しますので、痛いですが我慢してください」
は?
そんなことになるとは露知らず、軽い気持ちで診察台に上がったのに。
い、痛い~~~~~。
心身ともに疲れ果てながら、私は診察室を出た。待合室では聖君が凪を抱っこしながら、小百合ちゃんと談笑している。私は聖君の横に腰を下ろした。
「桃子ちゃん、遅かったね。あれ?」
私がどよよんとした顔をしていることに、聖君がようやく気が付いたらしい。
「どうしたの?」
小百合ちゃんが聞いてきた。
「悪露、残ってたんだって。今、それを取ってくれたんだけど」
「ええ?大丈夫?」
「すんごい痛かった」
私がそう言うと、隣で聖君の顔色がさっと蒼くなった。
「小百合ちゃんは大丈夫だったの?」
「うん、順調だって言われたよ」
「いいな~~」
私はため息交じりについ、そう言ってしまった。
「まだ通院するの?」
聖君が聞いてきた。
「ううん。もしまだ悪露が続くようなら来てくださいって言われた」
「そう…」
聖君は表情を暗くして、
「出産っていうのは、本当に大変なんだね」
とつぶやいた。
凪はというと、聖君の腕の中ですやすや気持ちよさそうに寝ていた。和樹君は小百合ちゃんのお母さんが抱っこしていて、立ったままゆらゆら揺れている。
「凪ちゃん、おとなしいのね」
小百合ちゃんがそう言った。
「和樹、ずっと診察してても泣いちゃって…。家でもよく泣いてるし、なかなか寝てくれないし、大変なんだよね」
「そうなの?じゃ、夜中は?旦那さんへとへとになっていない?」
「なった。だからもう、別の部屋で寝てるの。今はお母さんが一緒に寝てくれて、和樹のこと寝かしつけてくれてるの」
「そうなんだ」
それを横で聞いていた聖君は、ずっと黙っていた。
「別々の部屋に寝てるの、寂しくないの?」
私は気になり聞いてみた。
「うん。輝樹さんが和樹が泣くたびに起きて、寝不足になるよりも、私も気が楽」
「え?」
「朝、なかなか起きれなかったり、すごく疲れているように見えてたから、心配だったの。仕事に影響が出たら悪いし」
「そっか。昼間は仕事してるんだもんなあ」
聖君がぼそってそう言った。
「聖君は夜だけ?バイト」
「夕方から」
「じゃあ、昼間はずっと凪ちゃんの世話?」
「うん」
「そう。いいね…」
小百合ちゃんは暗い顔をした。あ、あれ?もしかして、なんか悩み事?
「輝樹さんも休みの日にはお風呂に入れてくれたり、いろいろとしてくれてるの。でも、平日は朝早いし夜遅いから、全然和樹のことを見れなくって」
「う~~~ん、そうなんだ」
聖君はうなった。
「輝樹さん、可愛そう。和樹のこともっと世話したがってるのに」
「あれ?そうなの?なんだ」
聖君は顔をゆるませ、
「俺はまた、和樹君の世話をしたがっていないのかと思っちゃった」
と和樹君をほうをちらっと見ながらそう言った。
「ううん。可愛がってる。夜中も本当によく起きてくれて、寝かしつけたり、ミルクをあげたりしてくれてたの。だから、寝不足続きで、ふらふらになりながら会社行ってたんだ」
「そっか。じゃ、大丈夫だよ。帰ってきて寝顔見ただけでも、きっと満足してるんじゃないかな」
「そうかな」
「うん」
聖君はニコって微笑んだ。また小百合ちゃんはほっとした顔に変わった。
和樹君はようやく眠ったようで、小百合ちゃんのお母さんも長椅子に腰かけた。
「和樹、やっぱり乳児性湿疹だって。あまり心配しなくていいよって先生にも言われちゃった」
小百合ちゃんが私にそう言ってきた。
「私って、なんだかいろいろと心配ばっかりしちゃってて、先生がもっと気を大きく持ってどんと構えていてくださいねって…。初めての子だし、心配するのもわかるけど、でも大丈夫ですよってそう言ってた」
そうだよね。初めての子なんだもん、あれこれ心配しちゃうよね。
しばらくすると、小百合ちゃんが受付に呼ばれた。そして会計を済ませ、
「じゃあ、私たち先に帰るね」
と私たちよりも先に、産院を出て行った。
「和樹君、でかかったね」
聖君はぼそってそう言うと、凪を見た。
「やっぱり、男の子と女の子だと違うのかな」
「そうだね」
和樹君は抱っこをしていても、大変そうだ。凪はまだまだ小さくて、抱っこもしやすいけど。でも、先生に言わせると、凪はちゃんと平均値にいるって言っていたから、もしかすると和樹君はやや大きい赤ちゃんなのかもしれないな。
「榎本さん」
受付に呼ばれた。凪を私の腕に置き、聖君が受け付けに行った。ここからでも受け付けはよく見えて、受付の人が聖君を見て、頬を赤らめているのがわかる。
それから会計に行くと、会計の人も聖君に何やら話しかけ、聖君はしばらく戻ってこなかった。
戻ってくると、
「車、入り口に回してくるから、ここで待ってて」
と聖君は言うと、産院を出て行こうとした。が、またそこで他の看護師さんに呼び止められ、何やら話をしている。看護師さんはにこにこしながら聖君に手をふって、診察室に入って行った。
今日だけで、いったい何人の看護師さんが聖君に話しかけたんだろうか。もしや聖君がこうやって産院に来るのを、待ちわびていたんじゃないよね。
「検診終わったの?」
隣の人が聞いてきた。小さな赤ちゃんを抱っこしているから、この人も一ヶ月検診だろうな。
「はい、終わりました」
「今の旦那さん?若いのね」
「はい」
「それにかっこいいのね。なんだかここの看護師さんたちにも人気があるみたい。さっきも旦那さんがここに座っていたら、看護師さんが話しかけに来たわよ」
やっぱり。
「あんなにかっこよかったら、心配ねえ、奥さんは」
「………」
その言葉、すごく久しぶりに聞いたような気がする。確かに、あんなにかっこよかったら心配だ。
でも、最近は聖君が凪に夢中だから、そんなことも忘れていたかもしれないなあ。
そろそろ車来たころかなと思い、凪を抱っこして産院を出た。あれ。私が出る時には、誰も声をかけてこないんだ。
ま、いいけど。
私がドアを開け外に出た時、ちょうど車が目の前に止まった。
運転席から聖君は降りてきて、後ろのドアを開けてくれた。私が凪を抱っこして乗り込むと、聖君は気を付けながらドアを閉め、また運転席に乗り込んだ。
そして緩やかに車を発進させ、すぐに椎野家に車は到着した。
「ただいま」
私と凪が先に家に入った。玄関に出迎えに来た母は、
「どうだった?」
と凪の顔を覗き込みながら聞いた。
「凪は順調。私は悪露が残ってたって」
「まあ、そうだったの?それで?」
「もう今日悪露を出してくれた。通院もしないでいいみたい」
「そう」
母は凪がすぐに寝れるようにと、和室に昼寝用布団を敷きにいった。聖君は車を駐車場に入れてから、家の中に入ってきた。
「凪、まだ寝てるの?」
「うん」
「桃子ちゃん、疲れたでしょ。ちょっと休んだら?」
「うん」
実はくたくただった。家の中にずっといたし、外に出ただけでも疲れてしまったのかもしれない。
凪を昼寝用布団に寝かせ、私もベッドに寝転んだ。
聖君は母の所に行き、何か手伝いはないか聞いている。母はベビーベッドのマットを干したので、それをしまってくれないかと頼んでいた。
私はそんなやり取りを聞きながら、そのまま寝てしまったようだ。次に目を覚ましたのは、凪の泣き声でだった。ああ、お腹空いちゃったんだな。
凪におっぱいをあげていると、聖君が和室に来た。
「凪、起きたの?」
「うん、泣いてた」
「ああ、ごめん。2階にいたから気が付かなかった」
「マット、しまったの?」
「うん。ほかほかになったから、きっと凪、気持ちいいよ」
聖君はそう言うと、凪の顔を覗き込み、凪のほっぺを指でつついた。
「可愛いよな~。今日来てた赤ちゃんの誰よりも凪が一番可愛かった」
出た。親ばか聖君だ。
なんて思っていたら、今度は私の頬にキスをしてきた。
「?」
「今日来てたどのお母さんよりも、桃子ちゃんが一番可愛かった」
「……」
それ、本当に思ってた?凪のことしか見てなかったじゃない。
「今日も看護師さんにいっぱい話しかけられてたね、聖君」
凪がおっぱいを飲み終わったので、聖君は凪をひょいと肩に乗せ、背中をさすっている。私はそんな聖君を見ながらそう言ってみた。いったい、聖君はどんな反応をするんだろう。
「妬けた?」
「え?」
「妬いちゃった?」
「…別に」
「え?そうなの?」
「聖君がモテモテなの、今に始まったことじゃないし」
「あはは。何それ。桃子ちゃん、なんかちょっと機嫌悪い?」
「ううん。別に」
「ふうん」
出た。聖君の「ふうん」。何か納得できていないと、ふうんって言うんだよね。
聖君は凪がゲップをすると、さっさと布団に寝かしてしまった。でも凪はお腹がいっぱいになったからか、機嫌よく布団の上でもぞもぞと手や足を動かして遊んでいる。
「桃子ちゅわん」
聖君が私を抱きしめてきた。
「なあに?」
「今日、そんなに痛かったの?」
「うん…」
「ギュ!」
「聖君?」
「桃子ちゃん一人が、大変な思いをしてるよね」
「でも、聖君がいてくれるから、大丈夫だよ?」
「…桃子ちゃん、大学始まったら、今までみたいに凪の世話もできなくなるけど、でも、何か手伝ってほしいことあったらどんどん言ってね」
「うん」
だけど一番私がしてほしいことは、ただこうやって抱きしめてもらうことかもしれない。
そんなことを私は聖君の腕の中で、感じていた。