第128話 凪のお気に入り
「できた~~~。凪~~~!ご飯だよ!」
聖君がご機嫌な顔をして、リビングに来た。今日もまた聖君は、凪の離乳食作りを頑張っている。
「はい、凪」
「あ~~」
モグモグ。モグモグ。
「あ~~~」
「え?もっと食べるの?凪。はい」
モグモグ。モグモグ。
「あ~~~」
「美味しいの?凪。でも、もう空っぽだよ」
「う~~~~~」
「ちょっと待ってて。キッチンに行けばまだある。待っててね?」
そう言って聖君は、急いでお店に行った。
聖君はいろいろと工夫をして、最近は凪が喜んで離乳食を食べるようになった。それからというもの、凪の食欲はすごい。そして、聖君の喜び方も半端ない。
子育て日記はあんまり詳しく書いていなかったが、離乳食日記は、聖君が詳しく書き出した。今日のメニューとか、レシピとか、写真付きでかなり凝っている日記だ。
「凪の離乳食ブログとかやろうかな、俺」
突然、寝る支度も全部終えて、日記を書きながら聖君が言い出した。
「え?」
「写真載せたり、レシピ載せたり。受けるかもしれないよね?」
「じゃ、いっそのこと、お店で出したら?赤ちゃん連れてこれるって、若いママさんたち喜ぶかもよ」
「いいの?」
聖君が、日記を書く手を止めて私の顔をじっと見た。
「何が?」
「若い奥様方が増えて」
「……よ、よくないかも」
そうだよ。そういう人たちって、結局は聖君目当てなんじゃん!
「でも、離乳食も出すようにしたら、確かに、赤ちゃんも連れてこれるね。ただ、赤ちゃん用の椅子とか食器とかまで用意しないとならないし、子供用の椅子まで置くスペース、店にはないしなあ」
「……ブログ、本当にやるの?」
「ハンドルネームで、本名隠してやってもいいかな」
「……。本当にやるの?」
「冗談だよ」
いや、あの顔は本気だった。聖君、そのうち子育てブログとか書きそう。凪の写真まで載せちゃうようになったら、大変だよ。
もし、聖君も一緒に写した写真まで載せたら、アクセス数もすごくなっちゃって、人気者になっちゃうかもしれないし、大変だよ。
「明日は何を作ろうかな。ね?凪。何がいい?」
「う~~~~」
凪は、聖君のあぐらをかいた足の上に座っている。まだ、お座りは不安定だけど、聖君のあぐらをかいた足なら、その隙間にうまくお尻を入れて座っていられるから、凪のお気に入りの場所になった。
だから、聖君が私を後ろから抱きしめたりすることがなくなり、私はかなり寂しい思いをしている。
「凪って、可愛い匂いがするよね。ね?凪」
そう言うと聖君は、凪の頭にキスをした。
「あ~~~」
凪は嬉しそうにパパの胸に体を預け、おしゃぶりをしている。
ああ、凪が聖君を独り占めにしているよ~~~。あの場所、いいなあ。私も聖君のあぐらをかいた足の上に座りたい。そして、後ろから抱きしめられたい。
ずっとこれから先も、あの場所は凪の居場所になったりして。
そうしたら、私はいっつも蚊帳の外。二人のことを羨ましそうに眺めているしかないのかなあ。
「そうだ。桃子ちゃん。保育園どうする?」
「来年の春からの?」
「うん。桃子ちゃん、料理学校行きたいでしょ?今から保育園探したほうがいいって、母さんも言ってたし」
「…保育園に凪が入ったら、聖君、寂しい?」
「寂しけど、俺も大学あるしなあ」
「そうだよね」
なんとなく、まだ1歳なのに保育園に行かせるなんて、気が引けるなあ。
「私の料理の学校は、まだまだ先でもいいんだけど」
「ほんと?桃子ちゃん、遠慮とかはいらないよ?」
聖君が私の顔を見つめながらそう言った。
「遠慮じゃないんだ。私が凪から離れるの、寂しいのかも」
「…ママってば、さびしがり屋さんだね?凪」
そう言うと、聖君はまた凪の頭にキスをした。ああ、そういうことを言うなら、私にキスして欲しいよ、聖君。
「あ、凪が寝そう。ウトウトしてる」
「ほんとだ」
「寝かしつけちゃうね?」
そう言うと聖君は凪を抱っこして、ゆらゆら揺れた。凪はすぐに気持ちよさそうに寝てしまった。
「凪、寝たね」
「うん。これで夫婦だけの時間がやってきたね、桃子ちゃん」
「え?」
聖君はそうっと凪を布団に寝かすと、クルッと私の方を向き、思い切り抱きしめてきた。
「明日、店休みだし」
「うん」
「朝寝坊できちゃうし」
「う、うん」
「今日は、思い切り愛し合っちゃおうね?桃子ちゃん!」
「……」
うん。とは言えなかったけど、内心めちゃくちゃ嬉しかった。
やっぱり、凪だけの聖君じゃない。ちゃんと私のことも、大事に思っていてくれる聖君だ。嬉しいよ~。
そして…。夏の日差しは秋の日差しへと変わり、夜、秋の虫たちが鳴いていたのも、いつの間にか聞こえなくなり、朝晩が冷え込むようになって、結婚式は着々と近づいてきた。
凪はすっかりお座りが出来るようになった。それに、ズリバイも得意だ。時々お尻を浮かせるが、ハイハイはなかなかしようとしない。ズリバイで移動できるからなのか、ズリズリといろんなところに行ってしまう。
お座りができるようになっても、凪のお気に入りの場所は聖君の膝の上だ。ズリズリとパパに擦り寄り、膝の上に乗っかろうとすると、聖君がにやけながら、凪を膝の上に乗せる。
「パパのお膝、お気に入りだよね?凪」
そう言って、にやついている聖君は、聖君が大学に行っている間はずっと、聖君のお父さんの膝の上に凪が座っていることを知らない。
「そろそろだよなあ。結婚式」
「旅行もそろそろだな。支度はできてるのか?聖」
「できてるよ」
「凪ちゃんのものも、準備できているの?桃子ちゃん」
「はい。もうばっちり」
今日はお店がお休みで、聖君が大学から帰ってきてから、みんなでのんびりとリビングで夕飯を食べているところだ。
杏樹ちゃんも、テニス部が早く終わったらしく、家でのんびりと食事をしている。どうして、家でのんびりとしているかというと、やすくんまでが今日は我が家で夕飯を食べているからだ。
「いいっすね、沖縄。俺も行きたいな」
「やす、いつか潜りに行こうぜ。お前も早めにライセンス取れよ」
「はい。絶対に取ります」
やすくんは、すっかり聖君の影響を受け、海大好き青年になってしまっている。
「沖縄かあ。私も行きたいなあ」
杏樹ちゃんもそうつぶやいた。すると隣に座っているやすくんが、ちょこっと杏樹ちゃんを見て、
「一緒に、行けたらいいね」
と、小声でそう言った。
「うん」
杏樹ちゃんが真っ赤になってうなずいた。そして、しばらく二人の世界に浸りだした。
「凪ちゃん、お風呂入りに行くか~~?」
「そうね。今、用意するわ」
そんな二人に気をきかしたのか、お父さんとお母さんがいきなり、立ち上がってそんなことを言い出した。
「今日も凪、父さんが入れるの?俺、入れるけど」
「いいよ。休みの日なんだから、ゆっくり俺が入れたいの」
「店が休みとか関係なく、いつも入れてるじゃん」
「お前は大学が休みの日に入れたら?」
そんな会話を親子で繰り広げている横で、まだ杏樹ちゃんとやすくんは、二人の世界だ。
「凪ちゃん、爽太パパと入ろうね?」
「ちぇ」
聖君がいじけた。
「凪ちゃん、今日はどのおもちゃで遊ぶ?アヒル?ペンギン?それとも、水鉄砲する?」
「ずるいわ。爽太。今日は私が凪ちゃんと入る」
「くるみが?」
「そうよ。凪ちゃんとはあんまり一緒には入れないもの。お店が休みの日くらい、私が入ってもいいでしょ?」
「う、うん」
結局、お父さんはお母さんには逆らえないようだ。凪をお風呂に入れるのは、お母さんになった。
「早く3人で入れるようになったらいいわね。凪ちゃんが歩けるようになったら、入れるかしら」
「そうだなあ」
お母さんとお父さんはそんなことを言いながら、凪を連れてお風呂場に行ってしまった。
「なんだかなあ。母さんと父さんの子じゃないってのになあ」
聖君がそうぼやいた。
「食器片付けちゃうね」
私がそう言いながら、みんなの食器をお店に運び出すと、
「俺、洗っちゃうよ」
と聖君もついてきた。
そしてキッチンで、二人で洗い物を始めた。聖君はこんな時、なぜか、私に甘えてみたり、からかって遊んできたりする。
「桃子ちゅわん。こっち向いて」
そう言って私が顔を向けると、私の鼻の頭に、石鹸の泡をくっつけて遊んでみたり。
「あはは。可愛い」
もう~~~。なんだってこんなに、子供っぽいんだか。
洗い物が終わると、後ろから抱きしめてきたり、頬にキスをしてきたり、ほんと、甘えん坊だし。
なんて言って、私も嬉しくて、抱きついたりしちゃうんだけど。
「あの!」
そんな私たちに、やすくんが顔を赤くしながら声をかけてきた。
「やす、帰るの?」
「はい。すみません、お父さんとお母さんには、ごちそうさまでしたって伝えてください」
「わかった。明日シフト入ってるっけ?」
「いえ。土曜と日曜の夜入ってます」
「そっか。じゃ、またな、やす」
聖君がそう言うと、やすくんはぺこっとお辞儀をして、お店から出て行った。杏樹ちゃんは、そんなやすくんを、お店のドアの前で見送るようだ。一緒にお店を出て、ドアの前に二人でいる。
「あ」
「あ!」
なんとなく、ドアの方を私と聖君が見ていて、やすくんが杏樹ちゃんにキスをしているのを目撃してしまった。
「あいつ、いっつも照れまくってるくせに、キスなんてしやがった」
聖君、口が悪い。
「なんだよ、もうそんな仲になっていたのかよっ」
「夏にキスしたみたいだよ?」
「え?!」
「伊豆で」
「ええ?!なんで桃子ちゃん知ってるの?」
「杏樹ちゃん、教えてくれたもん。聖君には教えてくれなかったの?」
「知らねえよ。なんだよ、やす、付き合って間もない頃だろ?手、早すぎじゃないか?」
「聖君、人のこと言えないと思う」
「………そう?」
「うん」
聖君は黙って、私の腰に手を回し、
「リビング、行こうか。そろそろ凪も風呂から出る頃だろうし。父さん、着替えとかさせるの、下手くそだしさ」
と、そう言った。今、絶対にごまかしたよね。
リビングに戻ると、ちょうど凪がお風呂から出たところだった。
「あ、お父さん、私がします」
「そう?じゃ、お願いしようかな」
お父さんが、凪がすぐに腹ばいになってオムツを履かせられないで困っているので、私はそう言って、凪のことを膝の上に乗せた。
そしてそのまま、手早くオムツを履かせると、
「さすがだねえ、桃子ちゃん」
と、お父さんは感心したようにそう言ってきた。
「父さんが、モタモタしすぎなの」
そう言うと聖君は、凪に服をさっさと着せていった。聖君は、こういうのも得意だ。シャツをさっさと凪にかぶせ、凪が私の膝からおりて、ズリバイを始めると、そんな凪をひょいと抱き上げ、さっさとズボンも履かせてしまう。
「凪、パジャマの上も着て」
聖君がそう言うと、凪は聖君の腕をすり抜け逃げ出した。でも、まったく聖君は動じることもなく、凪を追いかけるとまたひょいと抱き上げ、さっさとパジャマの上も着せて、さっさとボタンもはめてしまう。凪がくすぐったがって、きゃたきゃた笑っていても、おかまいなしだ。
この手際の良さや器用さ、これだから、私の服やパジャマもするすると簡単に脱がせちゃうわけね。いや、そういうことをしていたから、凪の着替えもさっさとできちゃうのかもしれない。
「はい。遊んでいいよ」
聖君が凪をつかまえていた手を離すと、凪は嬉しそうにクロのそばにズリズリ擦り寄って、クロの上に乗っかろうとしたり、クロの尻尾で遊んだりし始めた。クロもとっても嬉しそうに尻尾をふっている。
「クロ、いい遊び相手だよなあ」
聖君がそう言った。そこに、杏樹ちゃんが戻ってきた。
「先にお風呂に入るね」
そう言って、杏樹ちゃんは着替えを取りに2階に行った。
「…やすのものになっちゃうのは、いつなんだろう。なんだか、兄として寂しいな」
「は?」
聖君の言葉に、私はびっくりした。杏樹ちゃんだけはやっぱり、聖君、特別なんだなあ。菜摘と葉君が結ばれようと、かんちゃんとひまわりがどうなろうと、あまり気にしていないようだったけど。
私はその日、聖君とお風呂に入ってから、そんな話を持ちかけた。
「杏樹ちゃんのことは、大事なんだね」
「俺?ひまわりちゃんも大事だよ?」
「でも、ひまわりとかんちゃんがどうなっても、あんまり関心持たないよね?」
「そんなことないよ。ひまわりちゃんが傷ついたりしないよう、ひまわりちゃんにもいろいろと助言しているし」
「例えば?」
「かんちゃんが、ひまわりちゃんに迫ろうとしていた時、かんちゃんのこと待たせてじらしなさいって、そうアドバイスもしたし。まだ、ひまわりちゃんは、高校2年なんだから、かんちゃんのものになっちゃうのは、早すぎるしね」
よく言うよ。私も、聖君と結ばれたのって、高校2年だったよ?そのことは棚に上げちゃうのね。
「でも、それ、ずいぶん前の話だよね?」
「バレンタインだったっけ?そんなに前じゃないよ」
「前だよ。だって、ひまわり…」
「ん?」
「言わないほうがいいか」
「何?」
バスタブの中でそんな話をしていた。聖君は後ろから私のことを抱きしめ、
「何?言いなさい。隠し事は無しだよ」
と言ってきた。
「でも、ひまわり、聖君には知られたくないかもしれないし」
「え?まさかと思うけど、かんちゃんとひまわりちゃん、もう…」
私は黙ってうなずいた。
「い、い、いつ?」
「夏…」
「なんで、桃子ちゃん知ってるの?」
「夏に私と凪だけで、椎野家に帰った日あったでしょ?」
「ああ、なんか、ひまわりちゃんがどうしても、桃子ちゃんに来て欲しいって言って、そういえば急遽戻った日、あったね」
「あの日、かんちゃんと結ばれる前の日だった」
「え?!!!」
「色々と相談されて、それで」
「…やめるように説得しなかったの?桃子ちゃん」
「うん」
「な、なんで?」
「なんで、やめるように説得するの?」
「だ、だだだって、ひまわりちゃん、まだ高2」
「うん。私も高校2年の時に、聖君と結ばれたよね?」
「そうだっけ?」
「私は、高校3年で妊娠もしたよね?」
「はい。そうです」
聖君はそう言うと、しばらくおとなしくなってしまった。でも、はあってため息をつくと、
「そっかあ。ひまわりちゃん、とうとうかんちゃんと。そっかあ」
と何度もため息をついてそう言った。
ショックなのかなあ?妹だから?
「ああ!杏樹もいつか、やすに…。そんな日が来たら、俺、かなりショックかも」
そうなの?なんで?よくわかんないけど、でも、もし、凪だったら。
……っていう話は絶対にしないでおこう。きっと、もっともっと聖君は暗くなっちゃうよね。
「でもさあ、桃子ちゃん、夏に俺にはなんにも教えてくれなかったよね?杏樹がキスしたことも、ひまわりちゃんのことも」
「しようとしたけど、聖君、凪の離乳食作りに夢中になっちゃったから」
「…そんなの。話聞くくらいできたよ?」
「でも、そのうち凪を膝の上に乗せて、二人きりの世界を作り出したから。私、いっつも蚊帳の外で、私の話なんか聞いてくれなかったし」
「……そ、そんなことないよ。俺、ちゃんと」
「そうかな」
「…うそ。もしかして、ずっと寂しがってた?」
「うん」
「も、桃子ちゃん。早くそういうことは言って!俺、けっこう、そういうことに疎いんだから」
「だよね…。これからはちゃんと、言うようにする」
「…桃子ちゅわわん」
聖君はそう言うと、またしばらく黙り込んで私をただ抱きしめた。
ああ、きっと今聖君は、反省しているか、落ち込んでいるんだなあ。
「桃子ちゃん、ごめんね」
「うん」
「ごめんね?」
「え?うん。別に私、怒ってないよ?」
「でも、寂しい思いさせて、ごめんね」
「……うん。大丈夫。これからは寂しかったら、ちゃんと甘えるから」
「うん!」
聖君はうんって可愛い声を出して、また私を抱きしめた。