第120話 春香さんの家
午後、聖君はお父さん、杏樹ちゃん、やすくんと一緒にシュノーケリングをしに行った。お店はパートの人もやってきて、聖君のお母さんもいるので、私と春香さんはまたケーキ作りをするために、春香さんの家に行った。凪と空君のお守り役として、クロとクロがついてきてくれた。
春香さんの家は、一階部分がお店で、2階が自宅になっている。お店には櫂さんともう一人、バイトの男の子がいた。髪が茶色く、真っ黒に日焼けしたいかにもサーファーっていう感じの子だ。
「ちわっす」
とその子は、春香さんに挨拶をして、私にもぺこっとお辞儀をした。
「春香さんの親戚の人?」
その子が春香さんに尋ねた。
「私の甥っ子の奥さんと、その子供。ユウちゃん、もう人妻だから手を出したりしたら駄目よ」
「え?!人妻?!」
その男の子がめちゃくちゃ驚いている横で、櫂さんが声をあげて笑った。
「ユウちゃん好みだろうけど、桃子ちゃんは駄目だ。旦那、すごいやきもち妬きだし、仲良くするのも無理かもな」
そんなことを櫂さんは、そのユウちゃんっていう子に言っている。
「桃子ちゃん、あがって」
春香さんに言われ、私は春香さんと2階に上がった。2階は、リビングとダイニング、そしてキッチンが一つなぎになっている。春香さんの家は、アジアの匂いのするもので囲まれ、壁には櫂さんと春香さんが南国のどこかで撮った写真が飾られていた。
それを、凪を抱っこしたまま私が眺めていると、
「それ、ハワイのマウイ島で撮った写真だよ」
と春香さんが教えてくれた。
「凪ちゃんは、ここに寝転がして」
春香さんはそう言って、空君を寝転がしたプレイマットを指差した。クロとクロはあとから、櫂さんが足を拭いてくれたのか、のこのことやってきた。
「クロたち、空と凪ちゃんのお守りをよろしくね」
春香さんがそう言うと、クロとクロは尻尾を振りながら、凪と空君の周りに寝転がった。凪と空君は、2人ともとってもご機嫌。そろそろお昼寝なんじゃないかと思っていたけど、どうやら嬉しいらしくって、眠くならないようだ。
「わあ、すごいキッチンですね」
春香さんのあとに続いてキッチンに行くと、とても広くて、大きなオーブンもついていた。
「ケーキ作りをするから、キッチンは大きめに作ったの」
「冷蔵庫も大きい」
「でしょ?」
春香さんは嬉しそうに笑いながらそう言った。
「結婚してから空が生まれるまで、櫂と2人っきりだったでしょ?」
「はい」
「毎年ハワイに行ったり、バリや、タイ、いろんな国に行ったんだよ」
「いいですね~~。あ、サーフィンをしにですか?」
「そう。私も下手くそだけど、ちょっとサーフィンをしてた。でも私の場合は、観光や買い物がメイン」
また、春香さんはそう言って笑った。そして、しばらく黙ってから、
「もう、赤ちゃんは無理かもって思ってたんだけどねえ」
とつぶやくように言った。
「……赤ちゃん、春香さんは欲しかったんですか?」
「もちろん。子供好きだもの。櫂もね」
「そうなんですか」
「だから、嬉しかったよ」
春香さんはにこっとして、それからカウンター越しに、空君のほうを見た。
「ねえ、桃子ちゃん」
「はい?」
「聖も、凪ちゃんのこと、すごく可愛がっているでしょう?」
「はい」
「聖も子供大好きだもんねえ。子煩悩のお父さんになるよね」
「もう親ばかです」
「あはは。それはうちもだよ。櫂も、めちゃくちゃ空を可愛がってるの。お父さんやお母さんも可愛がってるから、空、思い切りわがままな子に育たないかって心配で」
「え?そうですか?愛情いっぱい受けて育つから、きっと大丈夫ですよ」
「そう?」
「はい。うちも、お母さんとお父さん、それから杏樹ちゃんも凪をすごく可愛がってくれてるけど、だから、凪、すごく安定してるなって気がします」
「…そっかあ。そうだよね」
「はい」
「ほんと、凪ちゃんはいつもにこやかだし、空も一緒にいて安心するみたいだしね」
「…そうですね。あ、でも、聖君に女性が近寄ると、あんなに泣くようになるなんてびっくりです。今までは、そんなことなかったんだけどな」
「いろいろと自我が目覚めてきたのかしらねえ?」
春香さんはそう言ってまた笑った。
それから、私たちはケーキ作りをし始めた。春香さんは、いろんなことを教えてくれた。さすが、パティシエ。趣味でケーキ作りをしている私とは全然違う。
「これ、出来上がったら、まりんぶるーに出すんですか?」
「もちろん!」
わあ。売り物なんだ。一気に緊張してきちゃった。
「あの子たち、静かね」
春香さんがふと、リビングのほうを見つめながらそう言った。
「そう言えば…」
私たちは手を止めて、そうっとリビングのほうに行った。すると、プレイマットの上で、凪も空君もすやすやと寝ていた。
「あ、寝てる」
「本当だ」
クロとクロも、目を閉じていた。でも、私たちがそっと近づくと、2匹とも片目を開けてこっちを見た。
「し~~。クロたちも寝てていいよ」
春香さんがそう言うと、クロたちは目を閉じた。
「可愛い。写真撮っちゃおう」
春香さんは小声でそう言うと、デジカメを持って来て、クロとクロに囲まれて寝ている凪と空君を写した。
「これ、プリントアウトしてあとで渡すね」
「はい、ありがとうございます」
リビングのチェストの上には、何個かの写真立てがあり、どれも空君の写真が入っていた。
「写真やビデオ、つい撮っちゃいますよね」
その写真を見ながらそう言うと、春香さんはうなづいた。
「うん。櫂も私もついね。桃子ちゃんも?」
「はい。でも、聖君とお父さんが、いっぱいデジカメやビデオを撮っています。聖君はいっつも、どの写真を年賀状に使おうかって悩んでいるし」
「あはは。まだ夏なのに、気が早いよねえ。ほんと、聖って面白いわ」
春香さんはそう言って笑うと、
「あの子には、小さなころから笑わせてもらってるわ。本当にやんちゃで大変だったんだけど、楽しかったなあ」
と、懐かしそうな遠い目をしてそう言った。
「へえ…」
そうか。春香さんは聖君のことを生まれた時から見てるんだもんね。いいなあ。赤ちゃんの聖君や、子供の頃の聖君を知ってるなんて。
ケーキをオーブンに入れ、私と春香さんはリビングでお茶を飲みながらのんびりした。春香さんは聖君の子供の頃のエピソードや、自分の恋の話をしてくれた。
あっという間に時間は過ぎ、ケーキは焼けて、空君と凪も目をさまし、私たちはまりんぶるーに出来上がったケーキを持って戻った。
お店には、すでに聖君たちが帰って来ていて、奥のテーブルでお茶をしていた。他のお客さんは一組だけで、お母さんとお父さんも、椅子に座ってのんびりとしている。
「ケーキできたよ~~。お母さん」
そう言いながら、春香さんはキッチンに向かって行った。
空君は、櫂さんに預けていた。ケーキはちゃんと持って行かないと、売り物だから、と春香さんは大事に抱えてきたのだ。
「桃子ちゃん、凪!」
奥のテーブルから、聖君がそう言いながらやってきた。
「どうだった?海」
「綺麗だったよ。桃子ちゃんにも見せたかったなあ」
「そっかあ。でもね、春香さんの家に遊びに行けて、楽しかったよ」
「空と凪、また仲良くしてた?」
「うん」
「む~~~~~。空に凪を取られたらどうしよう、俺」
「だ、大丈夫だよ~~」
もう、聖君ってば。
「凪ちゃんのことばっかり心配してないで、桃子ちゃんのことも心配したら?」
そこに春香さんがやってきて、聖君にそう言った。
「え?なんの心配?」
「ユウちゃん、知ってるでしょ?桃子ちゃんのこと気に入ってたよ」
「え?!」
「だ、大丈夫だよ、聖君。それに、結婚してることも櫂さんがちゃんと言ってたし」
「……ユウちゃんってさ、今、高校2年だっけ?」
「うん、そう」
「……なんか、けっこうナンパなやつじゃなかったっけ?」
「うん。よく店に来てる女の子に声かけてる。その割には彼女ができないんだよね」
「……。桃子ちゃんに、目つけたの?」
聖君、顔がまじだ。
「聖君、本当に大丈夫だってば」
「桃子ちゃん!」
「え?」
「もう、櫂さんの店、行ったら駄目だからね?」
「……」
「あはは。櫂が言ってた通りだ。聖って、すごいやきもち妬きなんだね」
春香さんが思い切り笑った。
絶対に大丈夫なのに。誰が現れても、私は聖君だけしか目に入らないんだから。
「そうだ。浴衣!桃子ちゃん、母さんに着せてもらって!」
「え?」
「花火だよ。浜辺に行ってみんなでするんだから!」
「うん」
聖君が子供のようにわくわくしながら、言って来た。なんだか、伊豆に来てからの聖君は、いっつも目をキラキラさせている気がする。
水を得た魚…って感じ?伊豆ってもしかして、聖君にぴったりの場所なのかもしれないなあ。
夜、お店にはパートさん、おばあさん、そしておじいさんが残り、他のみんなは浜辺に移動した。
「凪、花火見るの初めてだね」
聖君は、腕の中の凪にそう言って、ほっぺにキスをしている。
凪と空君は、シャワーをすでに浴び、いつ寝ちゃってもいい状態で浜辺に連れて来た。櫂さんまでがお店を早く閉めて、やってきていた。それも、バイトの子も連れて。
「あ、ユウちゃんだっけ?君。今朝、サーフィンしに来てたよね」
「…はい。えっと?」
「ああ、自己紹介してなかったよね。俺、榎本聖。春香さんの甥っ子で、桃子ちゃんの旦那」
聖君は、すごく無愛想にそう言った。
「あ!あなたが?そ、そうなんだ」
ユウちゃんはそう言って、軽く一歩引いた。それから顔を引きつらせ、
「お、俺、奥さんに別に言い寄ったりしていないですから」
と、そんなことを言いだした。
「だよな?櫂さんからも忠告されてるよな?」
うわ。聖君、声、怖いってば。威嚇してるの?もしかして。
ユウちゃんは、ぺこぺことお辞儀をして、私たちから離れ、遠くで花火を始めた。
「…」
それを聖君は黙って見てから、くるっと私のほうを向き、
「良かった。桃子ちゃんに言い寄る前に、追っ払えて」
とほっとした顔を見せた。
「だ、大丈夫なのに~~~」
まったく。何をそんなに心配しているのやら。
「大丈夫じゃないよ?浴衣姿で、一人でふらついてたら、絶対にナンパされること間違いないんだから」
「いったい、なんでそんなこと言いきれるの?聖君」
「え?そんなの決まってるじゃんか。桃子ちゃん、めっちゃ可愛いもん」
「………」
今の、本気?
「あははは。聖って、ほんと面白いわね」
空君を抱っこしている春香さんが、そばにきてそう言った。ああ、大きな声で聖君が言ったものだから、聞えちゃったんだ。
「聞いてんなよ。春香さん」
あ、聖君、照れてる。
「だって、大声で言ってるんだもん。聞こえちゃうってば。そんなに桃子ちゃんに惚れちゃうのもわかるけどね。本当に浴衣姿も可愛くって、とても人妻には見えないしね」
「だろ?見えないだろ?俺、やっぱり心配」
ああ、聖君は…。
なんて言いつつ、実は心の奥底では、嬉しがってる私もいるなあ。だって、凪や海にばかり目を向けてて、私のことほったらかしている気もしていたし。
「花火に火をつけるぞ」
お父さんがそう言って、聖君の持っている花火に火をつけた。
シュ~~~。音を立て、青や緑の閃光が飛び出してきた。それを凪は目を丸くして見た。
音で驚いたのか、煙がけむいのか、空君はぐすりだしてしまった。でも、そんな空君にまた凪が、
「あ~~」
と話しかけると、空君はぴたっとぐずるのをやめた。
そして、凪と一緒に、こわごわしながらも花火を見だした。それからは、2人とも花火に釘付けになった。
「面白い?空」
春香さんがそう聞いた。空君は春香さんの腕にしがみついたままだったけど、それでも花火を見ていた。
凪はと言うと、かなり身を乗り出して見ている。
「あ~~~、う~~~」
と、聖君のほうに手まで伸ばそうとする。私にも持たせろと言ってるようにも見える。
「凪には危ないから、そこで見てて」
聖君がそう言っても、凪は、あ~~う~~~と話をして、聖君に手を伸ばす。
やすくんと杏樹ちゃんがそこにやってきた。杏樹ちゃんは可愛い浴衣を着ていて、2人で並んで花火をし始めた。ああ、可愛い初々しいカップルだ。
やすくんは、ほとんど花火に目を向けず、隣にいる杏樹ちゃんのことを、照れ臭そうにしながら見ている。そして杏樹ちゃんがやすくんを見ると、二人して目を合わせ、恥ずかしがっている。
見ている方が、ドキドキしちゃうなあ。
「凪は今度、俺が抱っこするよ。桃子ちゃん、花火したら?」
聖君の手にしていた花火が終わり、聖君がそう言ってきた。
「うん」
私は線香花火を手に取った。
「もうそれ?それは最後に取っておかない?」
「でも、これが好きだし」
「じゃ、こっちでしようか」
みんなとちょっと離れたところに行き、線香花火に火をつけてしゃがんだ。私の隣に聖君が、凪を抱っこしてしゃがみこんだ。
パチパチと線香花火が音を立てた。凪はまた、じいっと静かにそれを見入っている。
「いいね、線香花火」
「うん」
聖君の言葉にうなづいた。
「前にも2人で、線香花火したね、覚えてる?」
「うん。もちろん」
「あの時には、ここにまさか俺らの娘が加わってるとは思いもしなかったね」
「うん」
聖君は、しばらく線香花火を見てから、ボトッと火種が落ちると、
「なんか、幸せ」
とつぶやいた。
「え?」
「桃子ちゃんと、凪と線香花火を一緒に見てるなんて、幸せだなってつくづく感じた」
「私も」
「…来年は、もう凪、歩いてるね。花火を見ながら、きっと喜んでるね」
「歩き回って危ないかも。やっぱり、聖君が抱っこしてるんじゃないかなあ」
「あ、そうかもね」
そんなことを言いながら、2人で凪を見た。凪は聖君の胸に顔をすりよせ、ちょっと眠たそうな顔をした。
「眠いの?凪。線香花火って、眠気を誘う?もしかして」
そう言いながら、聖君は立ち上がり、凪の背中をぽんぽんと優しくたたいた。凪はおしゃぶりをして、どんどん眠気眼になっていく。
私もその横に並んだ。聖君からは、凪に対する優しいあったかい空気が感じられ、私まで眠くなりそうになった。
ああ、聖君って、本当に優しいパパだよね。そのあったかさをもっと感じたくなって、私は聖君の背中にぴとっとくっついた。
「あれ?もう一人、甘えてる人がいる」
聖君は、ちょっと笑いながらそう言うと、
「でも、寝ないでね?桃子ちゃん。部屋に戻ったら、いちゃつくんだから」
と、耳元でそうささやいた。
うわ~~。もう、そんなこと言って来ちゃうなんて。スケベ親父。とか思いつつ、やっぱり嬉しい。
凪はいつの間にか、聖君の腕の中で寝ていた。そして、私たちは凪が寝たからと言って、みんなよりも一足早くにまりんぶるーに戻って行った。