第9話 皆で抱っこ
凪がすやすや寝ているうちに、お昼をみんなで食べた。聖君は和室で寝ている凪が気になってしょうがないようで、お昼ご飯もろくすっぽ味あわず食べている。聖君にしては珍しいことだ。
「ごちそうさま」
聖君はさっさと食べ終わると、凪の横に行ってしまった。
「早く起きないかな。抱っこしたいな」
ああ、抱っこがしたくってうずうずしているのか。すると、その聖君の望みを叶えるように、凪が目をさましたようだ。
「あ、凪、起きた」
聖君の裏返った嬉しそうな声が聞こえた。
食べるのが早いひまわりが、さっさと聖君の横に行き、凪を一緒に見ている。凪は見世物じゃないぞ、とも内心思ったが、そのうち、
「ふえ…、ふえ…」
という泣き声が聞こえてきて、聖君が抱っこをしたようだ。
「凪、お腹空いたのかな」
そう言いながら、私のほうに凪を連れてきた。
「まだじゃないかな。きっとパパに抱っこしてほしかったんだよ」
私はまだ、昼ごはんがすんでいなかった。ちょっとのんびりと食べたいのもあって、そんなことを聖君に言ってみた。
すると案の定、
「そっかあ。パパに抱っこされたかったのかあ」
と鼻の下をのばした聖君は、嬉しそうに凪を見た。そして、その辺を抱っこしたまま、ぶらぶらと歩き出した。
上手に凪の背中も、ぽんぽんとたたいたり、揺らしたりしている。あれま。私が車の中でやっているのを見て、もう真似してできるようになっちゃったんだな。
そのうちに凪の泣き声が、聞こえなくなった。
ススス…。すごく静かに聖君は私のもとにやってきて、小声で、
「桃子ちゃん、見て。凪、気持ちよさそうに寝ちゃったよ」
と、目を細めて聖君が言った。
「上手に寝かしつけたのねえ、聖君」
それを見ていた母が聖君にそう言うと、聖君はすごく嬉しそうに笑った。
「凪の寝顔、可愛い」
小声でひまわりが聖君の腕の中に抱かれている凪を見て、そうつぶやいた。
「可愛いよね」
聖君も嬉しそうにそうつぶやく。
「生まれたばかりの桃子に、やっぱり似ているなあ」
父が昼ご飯を食べ終わり、お茶を飲みながらそう言った。
「そうよね。似ているわよね」
母も凪のほうを見ながら、ぽつって言った。
「ふうん」
ひまわりが、それを聞いてなんとなく相槌を打った。聖君は、凪の寝顔に魅せられちゃっているのか、凪のことしか見ていない。
1日目からこんなじゃ、私、本当に聖君にほっておかれるんじゃないかな。それとも、1日目だからこうなのかなあ。
ちょっとだけ、不安。っていうかジェラシー。
3時になり、凪を沐浴させようとみんなで準備をした。父は直前まで張り切っていたが、中腰の姿勢で凪をベビーバスに入れようとして、
「いたた。腰が…」
と言い出した。
「ちょっとお父さん、ぎっくりじゃないでしょうね」
母がそう言うと父は、
「それはないと思うが、ちょっと危なそうだな。やっぱり、聖君、君が入れたほうがよさそうだ」
とそう言って、聖君の手に凪を抱かせた。
「え?」
聖君は一気に緊張した顔になり、顔を引きつらせながら、凪をそおっとベビーバスに入れた。お湯の中に入ると凪は、顔をこわばらせ、聖君がそうっと凪にお湯をかけると、凪は両手をぎゅうって握りしめた。
「怖いのかな」
聖君がぼそって言った。
「聖君、お湯も冷めちゃうし、どんどん体洗ってあげたら?」
母がそう言い、聖君は恐る恐る凪を洗い出した。凪の顔はずうっとこわばっている。
どうにか無事沐浴も済み、私が凪の体を拭いてあげた。聖君は、
「ほえ~~~」
とため息をつき、緊張から解放されたようだ。
「写真ばっちり撮れたよ」
凪の沐浴をひまわりが写真に撮っていた。後で見せてもらったら、聖君は眉間にしわを寄せ、凪は凪で、思い切り緊張している笑える写真だった。
沐浴も済み、凪は気持ちよさそうにすやすやと寝てしまい、聖君はお店に行かないといけない時間になってしまった。
「行きたくないなあ」
駄々っ子聖君になっている。凪の顔を覗き込み、ずうっとその場を離れようとしない。
「聖君、そろそろ出ないと本当に時間…」
私がそう言うと、
「は~~~~~」
とため息をつき、
「じゃ、行ってくるよ。凪。パパが帰ってくるまでいい子にしてるんだよ」
と言って、和室を出て行った。
あ、あれ?私にはなんにも言ってくれないの?ちょっと、いや、かなりショックなんだけど。
聖君はリビングのソファに置いてあった上着を着ると、
「行ってきます」
と母や父に元気に言った。
「いってらっしゃい。お父さん、お母さんによろしくね」
「はい」
ひまわりも聖君に、いってらっしゃいと元気に言っているのが聞こえた。
そして1分後、リビングから玄関に行った聖君が戻ってきた。
まさか、最後に一目凪が見たいとか…?
「も、桃子ちゃん?」
あ、私に何も言ってなかったことに気が付いてくれた、とか?
「なんで見送りに来てくれないの?」
え?
私は凪の横で、凪のガーゼや産着をたたんでいる最中だった。
「あ…。ごめん」
私はどっこらしょと立ち上がり、リビングに行った。
「…桃子ちゃん、どっか具合悪かった?」
「ううん。なんで?」
「いや、あまり体調が良くなくて、和室にいたのかなって…」
そういうわけじゃない。ああ、そっか。私が玄関まで見送ると思って、私には何も言わずに玄関に行ったんだ。
聖君は靴を履き、私のほうを向くと、
「じゃあ、行ってくるね」
と言って、私に軽くキスをした。
「うん、いってらっしゃい」
「…桃子ちゃん」
「?」
聖君はちょっと暗い顔になり、
「俺のことも忘れないでね」
とぼそって言った。
「え?!」
「それじゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
バタン。ドアが閉まった。
あ、あれれ?それは私が聖君に言いたかったセリフ。ああ、でも、もしかして聖君のことをほっぽらかしにしてたかな、私。
それから私は和室に行き、元もとは私の部屋にあったエステ用のベッドに、ごろんと横になった。そして、すぐにぐうすか寝てしまったようだ。
ふえ…。ふえ…。
何か、泣いてる?
「桃子、桃子」
母の私を呼ぶ声もした。
「凪ちゃん、お腹空いたんじゃない?」
ぼけら~~。まだ私の目は完全に覚めていない。私の寝ている横で、泣いている凪を抱っこしている母が立っている。
「あ。ああ、おっぱいの時間?」
「うん。そろそろじゃない?」
私はベッドに座って凪を受け取り、おっぱいをあげた。
「やっぱりね。ほら、凪ちゃん、思い切り吸ってるわよ」
「左だとね。右は駄目なんだ」
「なんで?」
母が聞いてきた。
「陥没しててうまく吸えないみたい」
「乳頭のこと?」
「え?ああ、うん。そう」
「それ、マッサージしたらいいんじゃないの?」
「うん…。してるんだけど。あ、なんだか右をあまり吸ってくれないから、硬くなってきちゃった」
「じゃあ、ちゃんと搾乳しないとね」
「うん」
ああ。聖君がいてくれてる間に、マッサージをしてもらえばよかったな。
凪は、おっぱいを吸っても、目を開けたまま寝ようとはしなかった。
「臭い。ウンチしたんじゃない?」
「そうみたい」
オムツも替えてあげて、ようやくご機嫌になった凪は、寝そうになった。だが、寝たらいいのに、ふえふえとぐずる。
「眠たいって感覚が、気持ち悪いんでしょうね」
「え?そうなの?」
「抱っこして寝かせちゃうわ。桃子は休んでていいわよ」
母がそう言って、凪を抱っこしてゆらゆらと歩き出した。
「んな~~」
そこへ、しっぽがやってきた。凪のほうを見て、くんくんと匂いをかいでいる。
「しっぽ、凪ちゃんよ。優しくしてあげてね」
母がしっぽにそう言うと、しっぽはくるっと後ろを向き、寝室に行ってしまった。
「なんだあ、あまり凪に関心がないんだね」
私がそう言うと母は、
「ふふ。そのうちに凪ちゃんがはいはいでもしだしたら、しっぽも茶太郎も無視していられなくなるんじゃないの?」
と笑いながら言った。
「凪をいじめたりしないかな」
「しないでしょう」
そうだよね。そんな猫たちじゃないよね。
「お父さんとひまわりは?」
「買い物に行かせちゃった。夜はみんなでちらしずしでも食べて、お祝いしましょうね」
「退院祝い?」
「出産祝いよ」
ああ、そっか。
「聖君にも食べないで帰ってきてもらおうか」
「そうねえ。でも、お腹空いちゃっても悪いしねえ」
凪はいつの間にか寝てしまったようで、母がそうっと布団に寝かせた。
「赤ちゃんの匂いっていいわね」
母はそう言うと、凪を優しい目で見ている。母の目だなあ。父や聖君とはまた違った目だ。
「桃子は寝ていていいわよ。夜も3時間おきに起こされる羽目になるんだし」
「うん。じゃあ、寝るね」
母は和室を出て行き、私はベッドにごろんと寝転がった。そして横で寝ている凪を見た。
ああ、気持ちよさそうに寝ているなあ。
本当に母や父、ひまわりがいてくれて助かるなあ。
目を閉じた。そしてまた私はすぐに眠りについていた。
夜、聖君には申し訳ないが、4人でお祝いをした。凪は途中で起きてしまい、今度は父が抱っこをして寝かしつけた。
みんなして抱っこしてくれて、申し訳ないなって思っていると、どうやら、抱っこがしたくてしょうがないようだった。
ひまわりだけは怖がって、凪を抱っこしようとしなかったけど。
8時半になると、聖君がまたハイテンションで帰ってきて、
「ただいま~~~。凪~~~」
とリビングにやってきた。
凪は父に抱っこされたまま、腕の中ですやすや寝ている最中だった。
「聖君、今、凪ちゃん寝たところだから、大きな声は出さないでくれ」
父は小声で聖君に注意をした。
「あ、すみません」
聖君は父に謝ってから、凪の顔を覗き込んだ。
「父と母が、凪に会いたいって言ってました。それで、水曜に遊びに来たいって言ってたんですけど、いいっすか?」
聖君が小声で、母に聞いた。
「ええ、いいわよ」
母がそう答えると、聖君はにこっと微笑んだ。
それから、ようやく、本当にようやく私のほうを向き、
「桃子ちゃん、お風呂入ろう」
と言ってきた。
「私、一か月はお風呂駄目なの。シャワーだけなんだ」
「あ、そうなの?じゃ、体洗ってあげるよ」
聖君はそう言いながら、リビングにカバンを置くと、リビングでテレビを観ていたひまわりが、ぎょっとした顔をした。
「お、お兄ちゃん、お姉ちゃんの体、洗ってあげてるの?」
ひまわりの顔は、真っ赤になっていた。
「え?うん」
聖君はあっさりとひまわりにそう答えると、
「桃子ちゃん、着替え持って来るね」
と言って、2階に上がって行ってしまった。
ひまわりは口をぱくつかせ、まだ赤くなっている。父と母はというと、凪に夢中でまったくこっちの会話を聞いてないないようだった。
私は、ひまわりと目を合わせることもできず、着替えを取りに聖君の後を追った。
部屋に入ると、ベビーベッドにはおもちゃがつけられ、紙おむつだの、凪の着替えだのがベッドの横に置いてあった。
「ここに今日から凪が寝るんだね」
聖君はにやけながら、ベビーベッドを見ている。
「聖君…」
「ん?」
「私ね、病院で隣に聖君がいないから、寂しかったよ」
「…え?俺、けっこういたじゃん」
「そうじゃなくって、夜寝る時」
聖君は寂しくなかったの?
「なんだ~~。でも、隣には小百合ちゃんがいたでしょ?寂しいって言ったら、俺のほうだよ。桃子ちゃんがいつも横にいたのに、このベッドで寂しく一人で寝ていたんだよ?」
聖君の胸に私はひっつき、
「ほんと?本当に聖君、寂しかったの?」
と聞いてみた。
「めっちゃ寂しかった。当たり前じゃんか」
聖君はぎゅって抱きしめてきた。
「もう、ぎゅうって抱きしめても平気だよね?」
「うん。あ、でも…」
でも、愛し合うのは…と言いかけると、
「わかってる。それはまだまだ、できないってこと」
と優しく言ってきた。そして優しく髪をなでた。
はあ。聖君にこうやって抱きしめてもらうのが、すごく久しぶりの気がしちゃう。
「あ、そうだ。聖君、あとでおっぱいのマッサージしてもらってもいい?また張ってきちゃった」
「いいよ」
それから二人でバスルームに向かい、聖君は私の体と髪を優しく洗ってくれて、私は先に出た。
聖君に体を洗ってもらうのも久しぶりだったな。ああ。聖君は相変わらず優しくて、すごく幸せを感じてしまった。
髪を乾かし、リビングに行くと、凪は今度は母に抱っこされていた。
「泣いちゃった?」
「一回布団に寝かせたらね、すぐに泣いて起きちゃったのよ」
「お腹空いたのかな」
「そうかもね」
私は和室に入り、凪におっぱいをあげた。するとそこに聖君がやってきて、
「あ、おっぱいの時間?」
と聞いてきた。聖君はまだ、髪が濡れたままだった。
「凪、おとなしくなったね」
ひまわりが顔を出した。
「さっきまで、泣いていて、お母さんが抱っこしていたんだ」
「お腹空いちゃってたみたい」
聖君はひまわりにそう教えた。
「ふうん」
ひまわりはそう言って、私の前に座り私と凪を見た。
凪は左のおっぱいを吸うのをやめた。それでもまだ、お腹が空いているようで、右側を一応あげてみた。でも、案の定、なかなか吸えないらしく、いやいやって首を動かしている。
「ミルク作ってくる?」
母がそれを見てそう言ってくれた。私は作ってきてもらうよう、母に頼んだ。
「なんで、こっちは飲まないの?」
ひまわりが不思議がった。
「乳首が陥没しているからなんだって」
聖君がそう説明すると、ひまわりはふうんって相槌を打ったが、私の胸をじっと見て、
「あ、本当だ」
とぽつりと言った。
私はじっと見られたことにちょっと抵抗があり、恥ずかしくなっていると、聖君は、
「マッサージして、乳首出さないとね。今、してあげようか?」
と私に聞いてきた。
「え?!マッサージ?」
ひまわりがそれを聞き、仰天している。
「え?ああ、そうなんだよ。おっぱいを凪にあげるのも大変なんだよね。それに吸ってくれないと、胸が張っちゃって痛いらしい。ほら、なんだか桃子ちゃんの右の胸、張ってるように見えない?お風呂で洗ってあげても、硬かったよね」
「……」
ひまわりが、みるみるうちに真っ赤になった。
「わ、私、明日デートなんだ。もうお風呂入って寝なくっちゃ」
ひまわりは真っ赤になったままそう言って、いそいそと和室を出て行った。
「あれ?ひまわりちゃん、真っ赤だったね」
「刺激強かったんじゃないかな。今の会話」
「なんで?」
聖君がきょとんとした。ああ、聖君って、そういうの疎いっていうか、構わないっていうか…。
その時、母が哺乳瓶を持ってきた。
「あ、俺があげます」
聖君は畳の上にあぐらをかき、凪をその上に乗せた。そして母から哺乳瓶を受け取ると、凪に飲ませ始めた。
「あら、上手ね」
「ですよね?俺、多分、杏樹にもあげてたんだと思います。記憶にはないんですけど、きっと体が覚えてるんだろうな」
「杏樹ちゃんに?でも、聖君だってまだ、小さかったでしょ?」
「いえ、もう3歳か、4歳になってましたよ」
「あ、そうなのね。じゃ、その頃から聖君は赤ちゃん好きなんだ」
「はい。母に聞いた話によると、杏樹が可愛くて可愛くて、本当に引っ付いて離れなかったそうですよ」
「くすくす。聖君だったらしていそうよね」
母はそう言って笑いながら和室を出て行った。
「…よく飲んでるね」
「私のおっぱいだけじゃ足りないのかな」
「…右も吸ってくれるようになったら、変わってくるよ」
聖君は優しい表情で、そう言ってくれた。
聖君のこの、絶対にマイナスに言わない性格、本当にありがたいって思う。押しつけがましいプラス思考とも違って、穏やかなんだけれど、いつも安心や、楽になるような言葉をすごくいいタイミングで言ってくれる。
私は凪にミルクをあげている聖君の横に、ぴったりくっついて座った。
「ん?」
聖君は優しく私を見た。
「聖君、大好き」
「はは。いきなり告白?俺も大好きだけど」
聖君はそう言うと、クスって笑った。
「凪、パパとママが仲良すぎて、きっと驚いちゃうよね」
「え?」
「ま、いっか。お腹にいる時から知ってるんだもんね。今さらだね」
聖君はそう言うと、チュッて私にキスをして、それからまた凪のほうを優しく見てミルクをあげていた。