第8話 退院の日
いよいよ、退院の日がやってきた。朝から私も小百合ちゃんも、なぜだか緊張しっぱなしだ。
私たちは着替えをして、病室で迎えをドキドキしながら待っていた。
「桃子ちゃんと同室でよかった」
小百合ちゃんがぽつってそう言った。
「それは私もだよ」
「またすぐに会おうね」
「うん。凪と和樹君連れてね」
「聖君、和樹と凪ちゃんが遊ぶの、反対しない?」
「あはは。しないよ~~。ちょっとやきもち妬くだけだよ、きっと」
「ふふ…。仲良しになるといいね」
そんな話をベッドに腰掛けてしていると、小百合ちゃんの家族のほうが、一足先にやってきた。
「それじゃあね、桃子ちゃん」
「うん。またね、小百合ちゃん」
小百合ちゃんのお母さんや、輝樹さんも私に挨拶をして、カバンを持って病室を出て行った。
会計を済ませた後、和樹君を受け取り、輝樹さんの車で帰っていくんだな。
それから10分後、
「桃子ちゃん、お待たせ~~~!」
と、聖君がスーパーハイテンションで現れた。
「あれ?お母さんは?」
「下でもう会計してるよ」
そうなんだ。
「あ、小百合ちゃんに会ったよ。看護師さんも一緒にみんなで写真撮ってた」
「へえ」
私たちも、写真撮ってほしいな。
「荷物はこれだけ?」
「うん」
「じゃ、一階に行こうか。凪は看護師さんが連れて来てくれるって」
「うん」
ドキドキ。なんだか、やたらとドキドキしちゃう。って思っていたら、聖君も、
「なんかドキドキしちゃうね!」
と顔を高揚させてそう言った。
「聖君も?」
「お母さんやお父さん、ひまわりちゃんも楽しみにしているよ」
「そっか。あ、ひまわりもついてくると思ったんだけどな」
「お父さんと家を掃除しているよ」
「そうなの?」
「姪っ子が来るんだからって、すげえ張り切ってた」
「そうか、ひまわりってもう、おばさんなんだ」
聖君と一階に行くと、母がすでに会計を済ませ、待合室で待っていた。土曜日の午前中も診察を受け付けているので、待合室には妊婦さんがたくさんいた。その妊婦さんが聖君をいっせいに、注目している。
「誰かな。まさか、旦那さん?」
「イケメンの旦那さんねえ」
という声も聞こえてきた。
私たちは看護師さんに呼ばれ、玄関のほうに向かった。
「ほら、ママですよ」
一人の看護師さんの腕の中には、凪が抱かれていた。
「凪!」
目を輝かせ、凪のもとに飛んで行ったのは聖君だ。カバンをその辺に置き、看護師さんから凪を受け取ろうとしている。
「え?聖君が抱っこしていくの?じゃあ、運転は?」
「あ…」
聖君は凪を受け取ろうとしている手を止め、母の言葉に振り返った。
「運転します。でも、せめて車まで凪を、抱っこしていったらだめですか?」
「くすくす。嘘よ。私が運転していくわよ」
「え?でも、あの車、お父さんの…」
「私も運転できるわよ。2年前くらいまではあの車を使っていたんだから」
「そうだったんすか」
聖君は母の言葉にほっとした顔をして、にこにこしながらまた凪のほうを見た。
「じゃあ、凪ちゃんはパパに抱っこしてもらいましょうか」
看護師さんがそう言って、凪を聖君の腕に抱かせた。
「うわ~~~~。凪だ~~~~。可愛い~~~~」
聖君が目を細めて、感激している。
「やっぱり、お父さんなんだ」
「若いかっこいいパパね」
そんな声が、待合室から聞こえてきた。
「玄関の外で、写真を撮りましょうか?」
「あ、はい」
私たちは看護師さんと一緒に、外に出た。
すると、他にも4~5人の看護師さんがやってきて、
「榎本さん、このカメラでぜひ私たちとも写真を撮っていって」
と、一人の看護師さんにカメラが手渡された。
「え?俺?」
「そう、凪ちゃんと、ぜひ記念に」
「ああ、はい」
聖君はちょっと不思議そうな顔をして、玄関の前に立った。凪は目を開けているが、おとなしくしている。
「桃子ちゃん、入らないの?」
「うん。私はいいよ」
「え?でも」
「あ、私が写真を撮ります。どうぞ、一緒に入ってください」
カメラを手渡されたのは、多分、婦長さんだ。一番年配の人だが、年配と言っても30代後半くらいだろう。
「そう?じゃあ、お願いしようかしら」
その人も聖君の近くに立ち、私はみんなのことを写真に撮った。
「ありがとう。あ、じゃあ、家族でどうぞ。カメラはありますか?」
一人の若い看護師さんに言われ、母がカメラを渡した。そして今度は、母、私、聖君と凪で、写真を撮ってもらった。
「ありがとうございました」
私たちは看護師さんにお礼を言い、車に乗り込んだ。看護師さんはなかなか産院の中に入らず、私たちを最後まで見送ってくれた。
「なんか、すげえな。みんなで見送ってくれるなんて」
凪を抱っこしたまま、注意深く後部座席に乗った聖君がそう言った。私も聖君の隣に乗り込んだ。
「小百合ちゃんの時には、婦長ともう一人看護師さんがいただけよ」
母がバックミラーで聖君を見ながらそう言った。
「え?そうだったんすか?」
「聖君がいたから、きっと看護師さんがあんなに来ちゃったのよ。ここの産院でも聖君は人気者だったのねえ」
母がそう言うと聖君は、きょとんとした顔をして私を見た。
「聖君、気が付いてなかったの?看護師さん、聖君のファン多かったんだよ?」
「へ?俺の?」
聖君、本当に気が付いていなかったんだ。やたらと聖君に声をかけていた看護師さん、多かったじゃない。ああ、聖君ってば、凪のことしか目に入ってなかったからなあ。
「さあ、出発するわよ」
母が車を発進させた。
ブルルル…。車の振動で寝そうになっていた凪が、ぱちりと目を開けた。
「あ、起きた」
「凪ちゃん、起きたの?」
母がそう言って、バックミラーを見た。
「ああ、早くに家に帰って、私も抱っこしたいわ」
「ちゃんと安全運転してよね、お母さん」
私がそう言うと、母はもちろんよと言って、ちゃんと前を見て運転し始めた。
「ふ…。ふ…」
「あれ?凪、どうした?」
聖君が凪に声をかけた。あ、凪、泣きそう。
「ふ…。ふえ…。ふえっ」
ああ、こういう感じになったら、もう本格的に泣き出す時だ。
「わ、なんで?」
聖君が焦っている。
「お腹空いたのかも。もうすぐしたらおっぱいの時間だし」
私がそう言うと、
「今、おっぱいあげる?」
と聖君が聞いてきた。
「く、車の中ではちょっと」
「あと10分もしたら着くから、家に着いたらすぐにおっぱいをあげたらいいわ」
母が運転をしながらそう言った。
「凪、もうちょっとの辛抱だからね?」
聖君が凪の顔を覗き込みそう言うと、
「ふえ~~~っ!」
と逆に凪は、本格的に泣き出してしまった。
「うわわ。泣いちゃった」
「抱っこするよ」
私はそっと凪を聖君から受け取り、背中のあたりを手でぽんぽんとしながら、揺らした。凪はしばらく、ふぇっふえっと泣いていたが、そのうちにうとうとし始めた。
「さすがだ、桃子ちゃん」
それを横で見ていた聖君が、尊敬のまなざしで私を見ている。
「えっと。そのうちに聖君も、こういうことができるようになるよ」
何て言ってみたけど、できるようになってもらわないと困る。っていうのが本音だ。
車が家の前に着いた。私は先に凪を抱っこして車を降り、聖君が荷物を持って後から降りた。すると玄関のドアが開き、
「おかえり!お姉ちゃん」
とひまわりが元気に階段を下りて門を出てきた。
「きゃ~~~、凪ちゃん!!」
私の真ん前に来て、ひまわりは歓喜の雄たけびをあげた。
「待ってたよ~~~~!!」
「ふんぎゃ~~~~~っ」
ひまわりの雄たけびで一気に目を覚ました凪が、一気に泣き出した。
「あ~~あ」
せっかく寝ていたのに。
「ご、ごめん。わあ、どうしよう」
ひまわりは、凪を見ながらおろおろしている。
「家の中、入ろう。そんで、桃子ちゃん、おっぱいあげなよ」
聖君がそう言って、私の背中に腕を回した。
「うん」
母は車を駐車場に入れに行き、私は聖君と家に入った。凪はまだ、私の腕の中で、おぎゃあおぎゃあ泣いている。
「おかえり、桃子。おや、凪ちゃん、泣いちゃってるのか?」
目じりをでれっと下げた父が、そう言いながらリビングから顔を出した。
「私が泣かせちゃったよ~」
ひまわりはまだ、顔を青くしたままでいた。
「違うよ。ひまわりちゃんのせいじゃないよ。凪、お腹空いてるんだ」
聖君がそう言って、ひまわりを慰めた。ひまわりはそれでも、まだ顔を青くしたままおろおろしている。
「和室でおっぱいあげてくるね」
「うん。あ、荷物もそこに持って行くよ。なんかいるもんある?すぐに出すけど」
「じゃあ、ガーゼとか出してもらおうかな」
「了解」
私と聖君は和室に入った。聖君はふすまを閉め、カバンからガーゼなどを取り出してくれた。私は着ている長そでTシャツをまくり、おっぱいをあげる準備をした。
その間にも凪は、おぎゃあおぎゃあ泣きっぱなし。
「凪、ほら、おっぱいだよ」
そう言って凪の口におっぱいをくわえさせた。すると泣くのをピタッとやめ、凪はおっぱいを元気にすいだした。
「わ~~~……」
凪がおっぱいを吸うところを、聖君は初めて見たんだっけ。興味津々って顔で、じ~~っと凪の顔を見ている。
「すげえ。凪、元気に飲んでるね」
「うん。よく飲んでくれて助かっちゃう」
「じゃあ、おっぱいもう張らなくてもすむ?」
「う~~ん。右はどうかな。ちゃんと飲んでくれるかな」
「ああ、陥没している方?」
「うん」
「それはあれだ。俺がこれからは、マッサージ係になるよ」
「…」
聖君の顔がちょっと、にやけたように見えたのは、気のせい?
凪に今度は右のおっぱいをくわえさせた。やっぱり、凪はうまく吸ってくれない。
「ああ、やっぱり右は駄目なのかなあ」
左に戻すと、また元気に吸いだした。
「おっぱいの大きさが変わっちゃったらどうしよう」
「え?そんなことあるの?」
聖君がびっくりして聞いてきた。
「ありそうだよ。このままだと」
「じゃ、右は俺が飲んであげるってのはどう?」
それ、まさか本気で言ってないよね?
「あ、今、桃子ちゃん、呆れた?」
「うん」
「は…、ははは。冗談だって。本気にした?もう~~、桃子ちゃんってば」
聖君はそう言ったけど、顔がかなり引きつっている。
「桃子、入るわよ」
母がふすまを開けて入ってきた。
「私も入っていい?」
母の後ろから、ひまわりがちょこっと顔をだして聞いてきた。
「いいよ」
と言うと、ひまわりも入ってきて、おっぱいを吸っている凪を見た。
「わ~~~。凪ちゃん、可愛い」
ひまわりは静かに私の横に座り、小声でそう言った。
「よく飲んでくれるのね」
母も静かにそう言った。
「このままだと、すぐ寝ちゃいそうね。ここに凪の布団、敷きましょうか」
「凪の?」
「お昼寝用にって、買っておいたのよ」
母はそう言うと、和室の押し入れから、可愛いお昼寝用の布団を出してそうっと敷いた。
「あ、もうほら、凪ちゃん、寝ちゃいそう」
ひまわりが、凪の顔を覗き込みながらそう言った。
「俺、寝かしつけるよ」
聖君はそう言うと、凪を私の腕から受け取り、そうっと布団に寝かせた。凪はそのまま、すやすやと寝てしまった。
「寝ちゃった…」
「可愛い寝顔ね」
ひまわりと母は、しばらく凪のことを見ていた。
聖君も嬉しそうに目を細めながら凪を見ている。母が、
「カバンから洗濯物だしちゃって、桃子。これからすぐに洗濯しちゃうから」
と言って、洗濯物を受け取り、和室を出て行った。
母にはこれからあれこれ、お世話かけちゃうんだろうな。どうやら、一か月間は、エステの予約も、ほんのちょっとしか入れないようにしていたみたいだし。
母と交代して和室に父が入ってきた。
「凪ちゃん、寝ちゃった?」
「うん」
ひまわりがうなづくと、父はひまわりの隣に座り、目じりをでれりんこと下げ凪を見つめた。
「可愛いね、聖君」
父が凪を見つめたまま、隣にいる聖君にそう言った。
「はい」
「凪ちゃんは、お姉ちゃん似かな」
今度はひまわりが、聖君にそう声をかけた。
「うん。色白なところも、鼻や口元も、桃子ちゃんに似てるよね」
そうかな。まだ鼻はぺちゃんこだし、わからないと思うんだけど。あ、そっか。ぺちゃんこだから、私似なのか。
「本当に可愛いねえ」
父はずうっと凪から目を離そうとしない。
「ああ、明日接待ゴルフだ。副支店長に行ってもらえばよかったなあ」
父がそんなことをボソッと言った。
「え?」
その言葉に私が驚いた。
「聖君、明日は聖君が凪ちゃんを沐浴させるかい?僕はいないからなあ」
「あ、そうっすよね?じゃあ、今日はお父さんが沐浴させますか?」
「そうだなあ。そうしようかなあ」
あれ?聖君がするんじゃないの?父には聖君、遠慮しちゃうのかな。
「それにしても、可愛いねえ」
「ほんと、可愛いっすよね」
ひまわりは、和室を出てリビングに移動していた。そしてテレビを小さな音にして見ている。だが、聖君と父は、まったく凪のそばから離れる様子はなかった。
こりゃ、大変な親バカと爺バカだな。この先、どうなっちゃうのかな。目じりを下げた二人は、凪の寝顔に吸い寄せられるようにして、その場をそれから1時間近く、離れることはなかった。