第105話 大変!
専門学校も夏休みに入り、蘭と菜摘が一緒にれいんどろっぷすに来た。
「蘭ちゃん、菜摘ちゃん、いらっしゃい。聖~~~!桃子ちゃん~~~!」
お母さんの大きな声が、お店から聞こえてきた。
私と聖君はリビングにいた。聖君は、凪の寝返りをビデオに撮ることに夢中で、ずうっとリビングにいる。お父さんは仕事の締め切り間近らしく、部屋にこもっているが、休憩と言ってはビデオを持って、凪を撮りに下りてくる。
今日はお店に紗枝さんが出ていた。紗枝さんは、聖君の記憶が戻ったのをすごく喜び、前よりもずっと明るく、楽しそうに仕事をしている。
「いらっしゃいませ!」
紗枝さんの元気な声も聞こえてきた。
「おう!菜摘、蘭ちゃん」
聖君は元気にお店に行った。私もそのあとを凪を抱っこして、ついて行った。
「兄貴!!!!!」
菜摘が、聖君に思い切り抱きついた。
「抱きつく相手、間違ってない?」
聖君が笑いながらそう言うと、
「間違ってないよ~~~。もう~~。記憶戻ったんでしょ?」
と菜摘は聖君に抱きついたまま聞いた。
「うん。戻った」
「ひどいよ。私や桃子のこと忘れちゃうなんて!」
「ごめん。まじで、ごめん!」
聖君は謝ると、菜摘の背中をぽんぽんとたたき、
「でもちゃんと、全部思い出したからさ」
と優しくささやいた。
ああ。はたから見ると、まるでカップル。お客さんの中には、目を丸くして驚いて見ている人もいるよ。
だけど、お母さんや蘭は、微笑ましいなっていう目で見ている。ただ、紗枝さんはちょっと顔が引きるっているけど。兄妹だってことは知っているはずなのにな。杏樹ちゃんと聖君が仲良くしているのは、微笑ましいっていう目で見ているのにね。
「桃子ちゃん、大丈夫なの?」
私のすぐ横まで紗枝さんが来て、耳打ちしてきた。
「何がですか?」
「あなたの親友よね。でも、聖君とあんなに仲いい」
「でも、兄妹ですから」
「…そうは言っても、ずっと他人として生きてきたんでしょ?」
「は?…でも、血はつながってますよ?」
「え?」
「え?」
紗枝さんは目を丸くした。
「知らなかったんですか?」
「深い事情まで聞いたことなかったし」
じゃあ、どんな兄妹だと思っていたんだ、今まで。
「私、勝手に思い違いしていたかも」
紗枝さんはそうぽつりと言った。
「どんな思い違いですか?」
「くるみさんが、菜摘ちゃんのお父さんと結婚してて」
「え?」
「で、別れた後に、爽太さんと出会ってできちゃった婚をして」
「はあ」
「元の旦那さんは旦那さんで、他の人と結婚して、菜摘ちゃんが産まれたのかなって」
「…え?でも、それじゃ、兄妹でもなんでもないですよ?」
「ああ、そうよねえ。だけど、聖君って爽太さんに似ているし…。じゃあ、元の旦那さんと別れる前に、聖君は生まれたんだ」
「聖君のお母さん、バツイチじゃないです。菜摘のお父さんと付き合っていて、別れてからお腹に赤ちゃんがいることを知ったってだけで」
「え?じゃあ、お腹に別の男の子がいるのを承知で、爽太さん、結婚したの?」
「はい」
「うわ。すご~~い。やっぱり、爽太さんはつわものだよね」
つわもの?
「最近、聖君も素敵だけど、爽太さんみたいな旦那さんもいいなって思うんだ」
「は?」
「早く、私にも素敵な人現れないかなあ」
紗枝さんは深いため息をすると、ホールに戻って行った。
聖君はというと、テーブル席について、菜摘や蘭と話に夢中になっている。時々、3人の笑い声が店内に響き渡る。
「桃子もこっちに来て!」
菜摘に呼ばれ、私も席に着いた。
「あ!聞いて、菜摘、蘭ちゃん。なんと今朝、凪が寝返りをうてるようになったんだ!!すげえだろ?!」
聖君は思い切り嬉しそうに2人にそう言った。でも、
「ふうん」
と2人の反応はすごく薄かった。
「あれ?何その反応。なんで驚かないの?」
聖君は私の腕から凪を受け取り、自分の膝の上に乗せながらそう聞いた。
「え?それって、すごいことなの?」
蘭が聞いた。
「あったりまえじゃん!昨日までできなかったんだよ?それができるようになったんだから!」
聖君はそう言うと、凪の頭に頬づりをして、
「ね?凪。頑張ったんだよね?」
とそう言った。
「…頑張ったかどうかは、わかんないけど」
私がぽつりとそう言うと、
「親ばか炸裂中?こりゃ、大変だね、桃子」
と菜摘が苦笑しながら私に言ってきた。私は思い切りうなづいてしまった。
「あ、見て!凪、足をぴょんぴょんさせてる。すげえ!足の力すげえ!!」
今度は自分のももの上に凪を立たせて、凪がぴょんぴょんしているのを聖君は喜んでいる。
「こりゃ、歩き出すのも早いかも、凪」
「その前に聖君、ハイハイが先だよ」
私がそう言うと聖君は目を丸くして、
「だね!ハイハイしちゃうんだね!可愛いだろうな~~、凪」
とそう言った後に目を細めた。
やれやれ。私、蘭、菜摘は同時に苦笑した。きっとそれにすら、聖君は気が付いていない。だって、今も凪に夢中だもん。
「兄貴、記憶が戻ったこと、葉君に言ってなかったでしょ?私は桃子からメールもらって、すぐに葉君に言ったら、葉君びっくりしてた」
「あ、そういえば。あいつの方から、記憶が戻っておめでとうってメールが来たっけ」
「え?!じゃ、基樹にも言ってないの?」
「うん。そういえば、俺、メールしてないけど。あ、でも、蘭ちゃんから言ってくれた?」
「ううん。最近会ってないし、言ってないよ」
「え?基樹と会ってないの?」
「だって、基樹、ずうっとバイトだもん」
「でも、夜とか、会えるでしょ?喧嘩でもした?」
聖君がちょっと心配そうに聞いた。
「ううん。あいつ、泊まり込みでバイトしてるから、来月頭には戻ってくるから、それからは会える」
「泊まりでバイト?!」
私は驚いた。なんだってまた…。
「千葉のペンションでバイトだって。大学の友達の親戚の家で、人が足りないからって頼まれたらしいの。バイト料もいいし、引き受けちゃったんだよね」
「…ペンションって、女の子来るよね」
菜摘がそう言って蘭を見た。
「浮気の心配?ないない!基樹に限って」
「わ~。すごい自信」
菜摘がそう言うと、蘭は赤くなって、
「自信って言うか…。私、基樹を信じてるもん」
とそう照れながら言った。
そうなんだ。聞いている方が恥ずかしくなっちゃった。
「基樹とは来月、旅行行くの。私も今バイトしてて、お金ためてるの。ちょっとリッチに旅行してきちゃうつもり」
「どこに行くの?」
私が聞くと、蘭は嬉しそうに、
「軽井沢のホテルに泊まるの。もう予約はしてあるんだ」
とそう言った。
「うわ!リッチだ~~~」
菜摘がそう言って羨ましがった。
「菜摘だって、旅行行くんじゃないの?」
「私は行かないよ。お母さんがうるさくって、友達との旅行も禁止って言われてるから」
うそ。
「だから、泊りでは無理なんだ。でも、最近週末、葉君のアパートにずっといるんだけどね」
「…一人暮らしだもんね~~。もうお母さんに気を使わないでも済むし、泊まらなくたって、ほとんど葉君と1日を過ごせるわけだ」
蘭がそう言って、うりうり~~と菜摘の腕をつっついた。
「あ、そっか。葉一、一人暮らし始めたんだもんな。こうなったら、菜摘と同棲しちゃえばいいのに」
聖君がそう言うと、菜摘は顔を赤くして、
「だから、そういうことが我が家じゃ無理なんだってば。うちの母親、超うるさいんだから」
と聖君に返していた。
「大変だな。菜摘も。お父さんは許してくれそうなのにな」
「ううん。結婚までは一緒に住むなんて、絶対ダメだぞって言われたから」
「お父さんから?」
「早く、結婚したいよ、私も」
菜摘はそう言うと、私と聖君を見て、
「いいな~~」
と羨ましがった。
「お前も、赤ちゃん作る?」
「聖君!」
聖君の言葉に、私と蘭が同時につっこんだ。
「あ、ははは。今の、冗談だから」
ううん。本気で言ってたよ。もう~~~。
菜摘と蘭が帰ってから、私と聖君はまたリビングに戻った。
凪はお昼寝をするかと思ったが、自分でも寝返りをうてるようになったのを、至極気にいってしまったらしい。何かって言うと、くるっと寝返りをうって、しばらく顔をあげ、あ~~、う~~と嬉しそうにしている。
でもそのうちに力尽きる。だけど、顔を右や左に向けたらいいんだと、学習したらしい。
我が家ではうつぶせ寝はしていないので、凪にとってはうつ伏せでいるのは初めての体験だ。
それはそれで、気に入っているようだったが、ただ、おもちゃで遊んだりできなくなるので、凪はその日の夕方から、必死に裏から表に戻る試みも始めたようだ。
「お!凪、もう少しだ。頑張れ!」
また、聖君とお父さんが、凪の応援団になった。2人してビデオを構え、凪を応援しながら撮っている。
「そこだ」
「行け、凪ちゃん」
似た者親子だよなあ。つくづくそう思う。血のつながりなんて関係ないよね。
「あ、あ、あ!……ゴクン」
2人が、息をのんで見守っていると、凪がくるんと体を仰向けにさせたので、
「やった~~~!!!!」
と二人同時に、大声をだし喜んだ。
「すげえ、凪!」
「うん、凪ちゃん、やったね!」
そんなに喜ぶこと?あ、でも、何気に凪の顔、ドヤ顔になってない?
凪はあ~~う~~と言ってから、指をしゃぶり、私ってすごい?って顔をして聖君を見た。そのあと、凪の顔に近づけた聖君のほっぺをぺちぺちとたたくと、また体をそらせ、くるんとうつ伏せになってしまった。
おいおい。やっとこ仰向けになったところだったのに、なんでまたうつ伏せになるのかな。母には理解不能。でも、パパとジジは、
「すげえ。いとも簡単に寝返りがうてるようになってる!」
と大喜びだ。やれやれ。
だけど、そんな喜びも、その日限りだった。
翌日、合宿のお土産を持って、麦さんとカッキーさんがお店に来た。
私と聖君は、凪が座布団で気持ちよさそうに寝ているので、クロに子守をお願いしてお店に出て行った。
お父さんは、仕事が今日締切だからと、部屋に缶詰め状態。昨日凪の寝返りを見過ぎたおかげで、今日とってもやばいことになっているらしい。朝、濃いブラックコーヒーを飲んで、真っ青な顔をして2階に上がって行った。
「残念だったね、聖君」
カッキーさんがそう言いながら、お土産を聖君に渡した。
「え?何が?」
「何がって、楽しみにしていた合宿に行けなくなって」
「ああ、そのこと」
聖君はにこりと笑うと、
「お土産サンキュー。あと、今度合宿で撮ったビデオ見せてよ」
と明るくそう言った。
「いいよ~。また上映会しようよ。みんなでどこかに集まれたらいいね」
麦さんも明るくそう言った。
「…あんまり、がっかりしていないんだね」
カッキーさんがそう言うと、聖君はキョトンとした顔をして、
「合宿のこと?でも俺、凪が元気になってくれた方が嬉しいし、寝返りうったのも見れたし、全然合宿に行けなかったことは、残念に思ってないよ」
とカッキーさんに答えた。
「凪ちゃんのほうが大事なのよね」
麦さんがそう言うと、カッキーさんはちょっと顔を曇らせた。
「そうか。そうだよね。サークル活動なんて、そんなに重要なことじゃないよね」
「へ?」
「ううん、なんでもない」
カッキーさんは、無理して笑って首を横に振った。
「サークル仲間も大事だし、俺、ダイビングも好きだよ。でも、自分の娘が熱出してるのに、ほっておいて合宿に参加できないでしょ?」
聖君が真面目な顔でそう言うと、カッキーさんは顔を赤くして、
「そ、そうだよね。聖君の大事な娘なんだもんね。ごめんね」
と謝った。
「……うん。俺は大学生だけど、もう家族がいるからさ。優先順位はやっぱり、家族が1番になるかな」
「そ、そうだよね。うん。そりゃそうだよね」
カッキーさんはまだ、顔を赤くしている。聖君に申し訳ないことを言ったって、そんな表情だ。
「いいよね~~。桃子ちゃんも凪ちゃんも、こんなに大事にされられて。でもさ~、凪ちゃんはパパに溺愛されて、いったいどんな女の子に育つんだろうねえ」
麦さんがそう言った。聖君は、
「そりゃもう、超可愛い女の子に決まってるじゃん」
と目じりを垂らして答えた。
「ああ、出た。親ばかだ」
麦さんはそう言って、あははって笑った。
「ワンワンワンワン!」
その時、いきなりリビングからクロの吠える声がした。
「クロ?」
私と聖君、それにお母さんもびっくりして、家のほうにすっ飛んで行った。
クロのあの吠え方は、尋常じゃない。きっと、凪に何かあったんだ!
「凪?!」
聖君が一番に、家に上がった。でも、リビングに行く手前で、聖君はそう叫んだ。
「ワンワン!」
「凪、なんでこんなところまで来てるんだよ!」
え?
私も慌てて靴を脱ぎ捨て、家に上がった。お母さんもサンダルを放り出しながら、家に上がった。
「凪ちゃん?」
「凪?」
聖君が凪を抱っこして、クロの頭を撫でている。
「クロ、教えてくれてありがとうな」
「どうしたの?聖君」
「凪、リビングから出て、店に続く廊下のところにいた」
「どうやって~?」
お母さんが驚いている。
「あ、まさか、寝返りをゴロゴロと打ちながら?」
私がそう聞くと、
「多分そう。俺が見た時も、さらに寝返りをうって、店のほうに突進していくところだったから」
うそ!もしそのまま、クロが教えてくれなかったら、凪、家と店にある段差のところで落っこちてたよ。
「あ、危なかったわね。ここにつけたガード、しっかりと閉じなきゃだめね」
「うん。まだ大丈夫だろうって、開けっ放しにしたのがやばかった。でも、ほんと、クロ、教えてくれてありがとうな」
聖君は、凪を抱っこしたまま麦さんとカッキーさんのところに戻った。私もその横をついて行った。
「は~~~。びびった」
「本当…。まさか、寝返りであんなに移動できるようになってるなんて…」
聖君と一緒に、私も安堵のため息をついた。
「凪ちゃん、寝返りうてるようになったんだっけ?これからは、どんどんいろんなところに行っちゃうから、一時も目を離せないよね」
麦さんがそう言った。
「…だよね。今までは座布団の上から、絶対に移動できなかったから、凪が寝てる時、たまにクロに任せちゃってた時もあったけど、これからはそうもいかなくなるな」
聖君はそう言ってから、凪の顔に顔を近づけ、
「めっ!凪、あのままごろごろ転がっていたら、大変なことになってたんだぞ。気を付けないと駄目だぞ」
とそう凪を叱った。でも、「めっ」でも笑ってしまう凪には、もちろん、聖君が怒っていることもわかっていないようで、きゃきゃきゃっと嬉しそうに声をあげて笑っている。
「凪に言ってもわかんないか。やっぱり、周りが気を付けないとね、桃子ちゃん」
「そうだね」
「あと、ガード、ちゃんと閉めるようにしないとね?聖」
そこにお母さんもやってきてそう言った。
「大変ねえ、これからどんどん動くようになったら、本当に目が離せなくなるわよ」
隣のテーブル席にいる50代くらいのお客さんが、そう言ってきた。
「そういえば、聖もうろちょろして大変だったわ。お店の中も平気でかけまわっていたっけね。お父さんもお母さんも、爽太もまったく怒らないから、私だけがいっつも聖を追いかけて、怒っていた気がする」
「あはは。じいちゃんも、ばあちゃんも怒んなかったの?」
「そうよ。お客さんもみんな寛大で、逆に聖にお菓子や飴をあげたりしていたわ」
「へえ。それは俺、覚えてないなあ」
「凪ちゃんも、このへんをちょろちょろ走るようになるんですね、そのうち」
麦さんがそう言うと、お母さんは笑って、
「すぐよ、すぐ。すぐに聖が凪ちゃんを追っかけるようになるから」
とそう言ってキッチンに戻って行った。
「まあ、ふふふふ。娘に翻弄されている聖君も、見てみたいわね」
隣の席のお客さんがそう言うと、聖君は苦笑して、
「凪はなるべく、おとなしくしてるんだぞ」
なんて、凪に耳打ちしていた。もちろん、凪はわかっていない。
「あ~~~?」
と言いながら、嬉しそうに聖君の顔をぺちぺちとたたいている。
「凪ちゃんはどんな子になるのかしらねえ」
「楽しみだね」
麦さんとカッキーさんがそんなことを言った。
聖君はそれに対して、にっこりと笑っただけで、何も答えず、凪のほっぺにキスをしていた。
本当に、凪はどんな女の子に育つんだろうか。ママ似?それとも、パパ似?見た目は私だけど、性格はどうなるのやら…。