第98話 進みだす
大学から帰ってきて、車で寝てしまった凪を抱っこしてお店に入った。
「ただいま~~~」
「おかえりなさい」
にこにこ顔で私たちを出迎えてくれたのは、紗枝さんだ。
「紗枝ちゃん、ただいま。店どうだった?混んじゃって大変だった?」
「ううん。そうでもないよ」
聖君の質問に、紗枝さんはにこにこしながら答えた。
お店の中には、3組のお客さんがいた。どのお客さんも、まったりと話をしている様子だ。
「大学に行ってたの?」
「うん。来週から、大学に復帰する」
「え?そうなの?」
紗枝さんはちょっと寂しそうな顔をした。
紗枝さんは、聖君の記憶が戻ったことを本当に喜んでいた。記憶が戻った聖君は、また紗枝さんにも笑顔で接するようになったし、紗枝さんもそんな聖君に、嬉しそうに話しかけたりしていたもんな…。
それなのに聖君が大学に行っちゃったら、紗枝さん、ほとんど聖君に会えなくなっちゃうもんね。
リビングに行くと、お父さんはいなかった。多分クロと、部屋にいるんだろう。
「は~~~。ちゅかれたね。凪」
座布団に凪を寝かせると、聖君は寝ている凪に声をかけた。もちろん、凪はぐうすか寝ているから、反応はない。
「凪、みんなに可愛いって言われてたね」
私がそう言うと、聖君は目元を思い切り下げ、
「もちろん。だって、凪可愛いもん」
と答えた。
ああ、デレデレだな。それにすっごくご機嫌だ。大学に復帰できるのも嬉しいのかもなあ。
「夏休み、泊まりで合宿行くんでしょ?」
「サークル?桃子ちゃんも来る?」
「いいよ。悪いもん」
「凪も連れて来たらいいじゃん」
「いい、いい」
慌てて首を横に振ると、
「な~~んだ。そうしたら俺が嬉しかったのになあ」
と聖君は、口を尖らせそう言ったが、またすぐに鼻歌を歌いだして、ご機嫌な聖君になった。
「7月の終わりごろに合宿は行く。で、8月は、桃子ちゃんと凪連れて、伊豆に行くからさ」
「…うん」
嬉しいなあ。楽しみだなあ。
「やすも行くって言ってたし、杏樹も大喜びだし。あ、ひまわりちゃんや、かんちゃんは行くのかな」
「あ!うちの家族に聖君の記憶が戻ったこと、言ってなかった」
「あ、本当だ」
それから私は家に電話をして、母に聖君の記憶が戻ったことを告げた。母も大喜びをしていた。
そのあと、聖君は、緑川さんに電話して、記憶が戻った報告と、この前の神社とレストランで結婚式を挙げる話を進めてくださいとお願いした。
「なんだって?緑川さん」
「うん。喜んでくれてた」
聖君はそう言うと、にこっと微笑み、
「これから、式の準備をいろいろとしなくっちゃね。忙しくなるかもね」
とそう言った。
「そ、そうだね。結婚式を挙げるんだもんね」
じ~~~~~~~~~ん。なんだか、わかんないけど、嬉しさがこみ上げてきた。
聖君との結婚式。ああ!念願の結婚式。ああ!念願の羽織はかま姿!
「あのさ。今、桃子ちゃんが何を想像して、顔を赤くしているか想像つくけどさ、もっと現実的なこと見ようね?」
「え?!」
聖君の言葉に驚いた。現実的なことって何?!
「緑川さんも言ってたよ。まず、誰を招待するかを決めて、招待状を送って、引き出物とか考えて…。一回、緑川さんに会って、いろいろと相談しないとね」
「……うん」
そうか。そういうことも細かく、決めて行かないとならないんだよね。
だけど、やっぱり、嬉しいものは嬉しい!
「…桃子ちゃん」
「え?」
「俺が記憶なかった時、式を挙げるのをやめようとしてごめんね?」
「ううん。そんなの気にしてないよ」
「桃子ちゅわん」
「?」
「もう!桃子ちゃんったら、優しすぎる」
聖君はそう言って、私を思い切り抱きしめてきた。
「私のこと忘れちゃって酷いって、俺を責めたって、怒ったってよかったのにさ」
「だって、聖君のせいじゃないし」
「…むぎゅ~~~~」
むぎゅ~~って言って抱きしめてくる聖君、可愛い。16歳の時の聖君は、こういうのなかったもんなあ。
「やべえ」
「え?」
「桃子ちゃんが…」
?なんだろう。
「可愛すぎる~~~~~~~~」
「………」
そう言う聖君だって、可愛すぎるよ。
「あ、バカップル、いつ大学から戻ってきたの?」
お父さんがクロを連れ、そう言いながら階段を下りてきた。
「俺らのこと、バカップルって呼ぶのやめてくれない?」
聖君はそう言いながら、私から離れた。
「いいじゃん。バカップルなんだから。ところで、教授なんだって?」
「うん。すぐに復帰していいって。休んでいた時の講義は、教授からプリントをもらったり、わからなかったらいつでも、質問に来てって。それに同じ講義受けてたやつも、ノート見せてくれるって言うし」
「よかったな。じゃ、来週から行くのか?」
「うん。すぐ、夏休みだけどね」
「サークルも顔を出したのか?」
「昼にね。部長にも会って、夏の合宿に参加させてもらうことになったよ」
「どこ?伊豆?」
「多分ね」
「8月も行くんだろ?伊豆」
「もちろん。じいちゃん家に行くよ!」
聖君は最高の笑顔でそう言った。ああ、なんて爽やかなんだ。海の話をする聖君は、本当に顔が輝いている。
「桃子ちゃんはじいちゃん家、初めてだね」
「うん。楽しみ」
「あはは。じいちゃんとばあちゃんも楽しみにしてるよ。それから春香さんや櫂さんも」
「そうか。春香にまだ桃子ちゃんは会ってないのか」
「お父さんの妹さんですよね?」
「うん。母さんに似てるよ」
「ああ、そうだよね。雰囲気とかそっくり。話し方や声も」
「空はママ似だって言ってたな。そういえば」
「へえ~。そうなんだ」
「空君にも会えるんですね。楽しみ!」
「伊豆のカフェもきっと桃子ちゃん気に入るよ」
「わあ!嬉しいな。お手伝いしても大丈夫かな」
「ええ?手伝いなんかしないでゆっくりしたらいいのに」
「でも、素敵なカフェだったらぜひ、お手伝いしてみたい」
私がそう言うと、聖君は目を細めて私を見て、
「桃子ちゃんは、カフェの話をすると目が輝くね。やっぱり、好きなんだね」
と可愛い笑顔でそう言った。
「え?私、目、輝いてた?」
「うん。キラキラしてた。春香の作るケーキ、すごく美味しいし、桃子ちゃんも春香からいろいろと教えてもらうといいよ」
お父さんも、聖君のように目を細めて優しそうに笑い、そう私に言ってくれた。
「はい。わあ!楽しみ!」
私は本当に、心からうきうきわくわくした。このれいんどろっぷすも大好きだし、榎本家のあったかさや優しさも、本当に癒されて大好きなんだけど、おじいさんやおばあさんのあったかさも大好きだから、きっと伊豆のおうちもお店も、あったかくって心地のいいところなんだろうな。
寝ている凪を見た。きっと凪も気に入るね。ああ、楽しみだね、凪。
その日の夜は、やすくんがお店に来た。杏樹ちゃんは走って帰ってきたのか、はあはあと息を切らしながらリビングに来て、制服から着替えをして、あっという間にお店に出て行った。
でもお店から、
「杏樹はいなくても、店、どうにかなるよ」
という聖君の声が聞こえてきた。
ひどい。杏樹ちゃん、必死で帰って来たのに。
でも、杏樹ちゃんは、家に上がってこなかった。お店のカウンターで、何か飲んだり食べたりしているのかもしれない。私も凪がご機嫌なので、凪を連れてお店に行った。
「杏樹ちゃん、隣いい?」
杏樹ちゃんはやっぱり、カウンター席に座って、ソーダ水を飲んでいた。
「凪ちゃん、お風呂から出てご機嫌なの?」
「うん。すごくご機嫌」
「抱っこしていい?」
「うん。いいよ」
杏樹ちゃんが凪を抱っこした。そこへやすくんがやってきて、
「桃子さん、これ、聖さんから」
と言って、カウンターにソーダ水を置いてくれた。
「あ、ありがとう」
そう言うと、やすくんはにこにこしながら凪の顔を覗き込みに、杏樹ちゃんのほうに行った。
「凪ちゃん、ほんと、可愛いっすね」
「やすくんも伊豆に行くんでしょ?」
「はい、行きます」
「そうしたら、凪の世話、杏樹ちゃんといろいろとしてもらっちゃおうかな。私、伊豆のお店の手伝いしたいし」
「え?いいっすか?聖さん、怒りませんか?」
「怒らないよ。きっと」
そう言うと、やすくんは嬉しそうに笑った。杏樹ちゃんはそんなやすくんをずっと見ていて、
「やすくんは、本当に赤ちゃんが好きなんだね」
とやすくんに話しかけた。
「…おかしいかな?」
「え?全然!私、子供好きな人って好きだなあ。お兄ちゃんも子供好きで、そういうところは私昔から、好きだったもん」
杏樹ちゃんがそう言うと、やすくんの顔が一気に赤くなった。好きって言葉に反応したのかな。
「あ、変なこと言った?子供好きって、男の人にとって恥ずかしいこと?」
杏樹ちゃんが、そんなずれたことを聞いた。でも、やすくんは、
「あ、ううん。変なこと言ってない」
と顔を赤くしたまま答えて、凪のほっぺを突っついてから、キッチンのほうに戻って行った。
やすくん、多分、凪を見たかったのもあるけど、杏樹ちゃんと話がしたかったんじゃないのかなあ。
ああ。もしかして、まだ思いを告げあっていない2人は、伊豆で進展があったりして!なんて思うと、他人事ながら、ドキドキしちゃう。
杏樹ちゃんを見た。やすくんと話せたのが嬉しかったのか、すごく嬉しそうに頬を染めながら、凪をあやしている。
可愛い!杏樹ちゃん!
恋する乙女はどんどん可愛くなっていくよね!
聖君の記憶が戻って、いろんなことが進みだした。わくわくすることばっかりだ。
聖君のサークルの合宿は、ちょびっとだけ寂しいけど、でも、聖君はきっと大喜びで海を満喫してくるんだろう。
聖君の喜ぶ顔が浮かぶ。それがわかるから、寂しいとか、浮気が心配だなんて言えなくなる。
浮気…。去年は麦さんのことが心配だった。カッキーさんのことが心配だったこともあった。
でも…。聖君が何よりも魅せられているのは海だ。女の人じゃない。
それがもう、わかっているから、そんなに前ほど心配じゃない。
今年は東海林さんの存在が、かなり心配だったけど、それも、今日凪を連れて大学に行ったおかげで、東海林さんも聖君をあきらめてくれたっていう、そんな確信があって心配はなくなった。
仕事を終えると聖君は、さっさと夕飯を食べ、
「桃子ちゃん、お風呂入ろう」
とにっこり笑顔でそう言った。
「うん」
聖君と一緒にお風呂に入れるのが、すっごく嬉しい。
聖君に体と髪を洗ってもらって、それからバスタブにつかり、豪快に洗う聖君を見ていた。
「ねえ、聖君」
「ん?」
「記憶がなかった時、私に裸見られるのを恥ずかしがっていたけど、今は恥ずかしくないの?」
「恥ずかしいよ」
「え?そうなの?」
「そりゃ、桃子ちゃんに色っぽい目でじろじろ見られたら、恥ずかしくもなるって」
「え?わ、私、今、そんなだった?」
「うん。そんなだった」
うわ!こっちが恥ずかしい。慌てて私は横を向いて、聖君を見るのをやめた。
「なんちゃって。うそうそ。別に見ててもいいけど?」
「え?」
どっちなんだ。そう言われて私はまた前を向いて、聖君を見た。
「俺も、桃子ちゃんの裸見るの好きだもん」
あ、にやけ顔だ!
「エッチ。スケベ!」
「うん。スケベだもん」
「……」
開き直ってる?
「でも、桃子ちゃんもスケベでしょ?」
「う…」
何も言えないよ…。だって、さっきも見惚れていたんだし。今もしっかりと見ていたし。
「だけど、16歳の俺は、抵抗があったよ。桃子ちゃんに見られるのも、触れられるのも、恥ずかしかった」
「聖君、私と出会ったころもそうだったの?平気で手とか繋いでいるのかと思っていたけど」
「照れてたよ。ただ、照れているのをわからないようにしてただけで」
「そうだったんだ」
「だけど、手とか繋ぐと桃子ちゃん、赤くなってすげえ可愛いかったし。だから、ちゃっかり俺、手、繋いじゃってたっけ」
「……そんなところが、ちょっと違って感じた」
「記憶がなかった俺と?」
「うん。だって、手が触れただけで、ぱっと引っ込めたり」
「それは…」
聖君はバスタブに入ってきて、私を後ろから抱きしめた。
「桃子ちゃんが可愛くて、ドキッてしちゃって。だけどそれを知られたくなくって…」
「え?」
「まだ、クールな俺でいた頃だし。女の子とあんまり話もしていなかったし」
ああ、そっか。
「だから、かなり戸惑ったんだけど」
「そうだよね…」
「そうだよ。クールな俺が、なんでこんなふわふわしたすげえ可愛い子と結婚してるの?って」
「え?」
「もう、桃子ちゃんが可愛くって、困ってたよ。ずうっと」
「…」
そんな風には見えなかったけどな。
「桃子ちゅわん」
あ、胸触ってきた。
「16の聖君は、まだスケベ親父じゃなかったよ」
「でも、スケベはスケベ。普通に男だったから。だから、桃子ちゃんのこと襲っちゃったじゃん」
「え?」
「ああ、あれは桃子ちゃんが誘って来たのか」
「え?そんなことしてないよ」
「でも、俺に抱かれなくなって、寂しい思いしたでしょ?」
「う…」
「だから、お風呂出たら思い切りいちゃつこうね?」
「え?」
「もう、寂しい思いはさせないからね?」
「……うん」
聖君のそんな言葉が、やけに可愛く感じて、ものすごく愛しくなった。
聖君。確かに寂しかったけど、でも、聖君はやっぱりずっと私のそばにいてくれてたよ。部屋が違っても、私から遠く離れて行こうとはしなかった。
桃子ちゃんの隣が俺の居場所。そう前に言ってたっけ。記憶がなくなっても、隣にいてくれたね。
私も…。
ずうっと聖君の隣が、私の居場所だからね。