第97話 妻子連れ
聖君はドアをノックした。中から、
「どうぞ」
と低い声がした。
「失礼します」
聖君はドアを開け、私と凪も引きつれ中に入った。
「教授」
「ああ、榎本君か」
部屋の奥の椅子に座っていたのは、ダンデイな雰囲気のある男性。黒髪と白髪が交じり合い、それをオールバックにしていて、メガネをかけている。なかなか、渋い感じの人だ。
「記憶がなくなったという話を、お父さんから聞いたが…」
「ご心配おかけしました。ちゃんと戻りました」
「そうか」
教授はにこりと微笑み、椅子から立ち上がると私たちのそばに来た。
「あ、それで今日は、娘の凪と妻の桃子も一緒に来ました。教授に紹介したくて」
聖君がそう言うと、教授は私と凪を見てにこりと笑った。
「やあ、可愛いなあ。僕の孫も今、1歳なんだよ」
「え?教授、お孫さんいるんですか?」
「一人娘が一昨年、やっと嫁いでくれて、すぐに子供をあやかってね」
「…やっと?」
「もう娘は今年で34になるんだよ。結婚もあきらめていたんだが、電撃的な出会いがあってね」
「へえ、そうだったんですか」
「女の子だね。名前は凪ちゃん?」
「はいっ!」
「ママ似だね。色が白くて、可愛いねえ」
「ですよね。めちゃ可愛いですよね?」
聖君は、目を輝かせてそう言った。
あれ?そういえば、私、まだ一言も発していない。聖の妻ですとか、いつもお世話になってますとか、言ったほうがいいのかな。ど、どうしよう。
「はは。奥さん、そんなに硬くならないで。一見僕は怖そうに見えるみたいだけど、怖くないから安心して」
わ。私、顔、固まってた?
「す、すみません。ちょっと緊張しちゃって」
そう言うと、聖君も隣でくすっと笑い、
「桃子ちゃん、緊張しないでも平気だから」
と優しくそう言ってくれた。
「教授、休んでいる間のことを相談にのってもらってもいいですか?」
「ああ、どうぞ。そこのソファに腰かけて」
教授に言われ、私たちはソファに腰かけた。
それから聖君は、教授といろいろと話を始めた。私と凪は、部屋をキョロキョロと見回していた。
凪は、見回してから私の顔と、聖君の顔を見ながら、
「あ~~~」
とお話を始めた。
その声に教授は反応して、にこにこしながら凪を見た。あ、今、お孫さんを見るおじいちゃんの目になっていたなあ。
そして、話が終わると、聖君とお礼を言って部屋を出た。
「優しい教授なんだね」
「うん。うちのじいちゃんとは違うよね。品があって、ダンディって感じで」
「え?じゃあ、聖君のおじいちゃんは?」
「ただただ、元気で、明るくって能天気」
ひどいなあ。
「俺も、じいちゃんみたいな、じいちゃんになりそうだけど」
くす。イメージができて笑ってしまうと、
「あ、桃子ちゃん、ひでえ。俺がダンディなじいちゃんになるって、思ってないでしょ?」
と言われてしまった。
私たちはそれから、カフェに移動した。講義が始まったからか、カフェには人がまばらだった。
でも、その中でもめざとく聖君を見つけ、声をかけてくる女の人がいた。
「榎本君~~」
なんだかやたらと化粧が派手な人だ。
「はい?」
「久しぶりじゃない。榎本君が大学にいなくって、ずっと寂しかったよ」
「…」
聖君は苦笑いをしてから、
「あ、俺の奥さんと娘です」
と私たちを紹介した。でも、その人は私たちを見るとすぐにまた、聖君に視線を戻して、
「ねえ。この前言ってたこと、どうにかならない?」
と聖君に聞いた。
「無理です。夏休みも俺、バイトあるから」
「時給いいわよ。ほんの1週間でいいから」
「無理ですよ。夜はずっと家の店のほうに出ますから」
「……。なんだあ。残念だなあ」
その人はそう言ってから、その場を去って行った。
「なに?」
「ああ、あの人の知り合いの店でバイトしないかって誘われてたんだ。それも、バーテンダーだってさ」
「バーテン?」
「まだ未成年でお酒も飲めないし、そんなバイトも無理だって言ったし、夜は店の手伝いするからって言ってもしつこくって」
「…」
そんなところでバイトしたら、聖君、超モテちゃうし、絶対に駄目だよ。
私は凪を抱っこしたまま、聖君に張り付いた。もう、聖君に寄ってこないで~~!ってオーラを出しながら。
聖君は、
「凪、抱っこするよ」
と言って、凪を受け取り、椅子に座った。
私も聖君のすぐ横の椅子に座った。
「やっぱり、結婚していようが、子供がいようが、言い寄ってくる人っているんだね」
そうぽつりと言うと、聖君は、
「でも、軽く無視してるから、安心して」
と、表情も変えずにそう言った。
安心してと言われて、はい、そうですねと、そんなに簡単には割り切れないよ。
それからも、聖君を見つけて話しかけてくる女の人は多かった。
「あ、榎本さんだ。赤ちゃん、抱っこしてる」
そう言ってきた可愛い女の子が2人。きっと1年だね。まだ、高校生に見える。
「俺の娘の凪」
聖君はにっこりとして、2人に凪を見せた。
「可愛い~~~」
一人の子がそう言うと、聖君は嬉しそうに、
「でしょ?」
と目を細めた。
「…榎本先輩、本当にパパなんだね」
「うん。あ、横にいるのが俺の奥さん」
私はそう言われ、ぺこっとお辞儀をした。すると、
「榎本先輩、本当に結婚してるんだね」
と2人は落胆して、そのまま去って行った。
「…ね?」
「え?」
「みんな、さっさと去って行ってくれるでしょ?」
「……うん」
今日はね。でも、明日はわからないじゃない。
「聖君」
「ん?」
「浮気、しないでね」
「だから~~~~。するわけないでしょ?本当にもう~~」
聖君はそう言うと、私のおでこに聖君のおでこをぶつけて、
「奥さん、心配しないでいいからねっ」
と念を押すようにそう言った。
それをカフェにいたみんなに見られた。そして、
「うわ。仲いい~~」
という声がした。それからしばらくざわめいていたが、もう、私たちに話しかけてくる人はいなくなった。
凪が、お腹が空いたのかぐずりだしたので、私たちはカフェを出ることにした。
「またどこか空いてる部屋に入って、おっぱいあげちゃう?」
「うん。そうする」
聖君は、
「あ。サークルの部室なら、今、空いてるかも」
と言って、ダイビングの部室まで私を連れて行った。
「ここなら大丈夫。あ、部屋暑いね。窓開けるね」
聖君は窓を全開にした。外は雨で、ひんやりとした空気が入り込んできた。
ダイビングの部室に入り、椅子に腰かけ、私は凪におっぱいをあげた。するとそこに、誰かが入ってきた。
「あれ?中に誰かいるみたい」
女の人の声だ。あ、もしかして麦さん?
「あ!聖君」
「どうも。部室借りちゃってるよ」
「なんだ。来るって言ってくれたら、案内したのに。あ、桃子ちゃんも来てた!」
「こんにちは」
「凪ちゃんにおっぱいあげてるの?」
「はい」
麦さんの後ろからは、東海林さんが顔を出した。
「今、私たち、講義がなくて暇なの。この前のダイビングに行った時のビデオ、東海林さんに見せようかと思って来たんだよねえ」
「二人だけ?男どもも来る?」
聖君が聞いた。
「あとで、今、暇なのが来るかもしれないけど」
「桃子ちゃんがおっぱいあげるの終わってから、野郎は入れるから。ドア、鍵閉めておいてもいいかな」
「他の男には見せちゃ駄目なの?」
「当たり前でしょ?」
麦さんの言葉に聖君はそう言うと、部屋のドアの鍵を閉めに行った。
「ねえ、聖君」
「え?」
「この後、大学案内しようか?教授にも会って来る?」
「もう会って来た。あ!そっか!」
「何?」
突然大きな声を出したからか、麦さんが驚いた。
「麦ちゃん。俺、記憶戻ったんだよ」
「え?本当に?」
「ごめんね。いろいろとお騒がせしました」
聖君はにこりと笑ってそう言った。麦さんは「良かったね」と喜んでいたが、その隣で東海林さんは顔を引きつらせた。
「……じゃ、あの。私のことも」
「ああ。東海林さんのことも思い出したけど」
聖君がそう言うと、東海林さんは顔を伏せた。
「あのさあ。確かに、いきなり手紙を鞄に入れられたりって言うのは、困っちゃうんだけどさ。でも、同じサークルなんだし、そんなに構えないで欲しいんだけどな」
「え?で、でも」
東海林さんはちらっと私を見た。
「とりあえず、聖君のことはさっさとあきらめて、他にいい男を見つけるとして、聖君のことは良き先輩くらいに思って見たら?」
麦さんがそう言うと、聖君もうんうんとうなづいた。
「そ、そうですよね」
「そうそう。私だって、聖君のこと好きだったけど、桃子ちゃんのこと聖君、本気で好きだし。っていうか、もう結婚だってしてるんだしね。諦めが肝心だよ」
麦さんはそう言うと、笑った。でも、東海林さんは笑わず、暗い顔をして下を向いた。
「記憶も戻ったことだし、このさいだから、はっきり言うけど、俺、気持ちに応えることは絶対に無理だから。悪いけど」
うわあ。聖君、きっぱりと言っちゃった!
「でも、サークルの後輩だし、これからもダイビングのことで聞きたいこととかあるなら、話は聞くよ」
聖君は少しだけ表情を和らげた。
「はい…」
東海林さんはまだ、下を向いていた。
「……だけど、あんまり仲良くなると、俺の奥さん、やきもち妬いちゃうから、ほどほどにね?」
聖君はそう言うと、私の顔を見て、でへっと笑った。
「はいはい。記憶が戻ったら、バカップル復活なわけね」
麦さんは呆れたって言う声でそう言った。
「うっせえ。麦ちゃんだって、桐太とアツアツのくせに」
「そう言う言い方はやめてよ」
「じゃ、どういう言い方したらいいんだよ」
「……ただ、仲のいいカップルだって、それだけでいいから」
「俺らも、そうだけど?」
「聖君たちはどっからどう見ても、バカップルだから」
「……。どこが違うんだ、どこが」
「全然違うわよ。私と桐太はもっと、あっさりとしてるもん」
「…」
聖君は黙り込んだ。それから、ふ~~んって言って、にやついた顔で麦さんを見ると、
「桐太はけっこう、のろけてるけどね?」
と意地悪そうにそう言った。
「桐太ったら、なんで、ばらしてるの?」
麦さんの顔が一気に赤くなった。
「あはは。麦ちゃんが赤い」
聖君はさらにそう言って、麦さんをからかった。
それを東海林さんは羨ましそうに見ていた。
ガチャ。
「あれ?鍵かかってる」
ドアの向こうで声がした。
「桃子ちゃん、もうおっぱい飲ませ終わった?」
「うん。凪、寝そう」
「じゃ、服をちゃんと直してね。ドア、開けちゃうから」
聖君は優しくそう言うと、椅子から立ち上がりドアのかぎを開けに行った。
「なんだよ。聖じゃん!お前、ずっと休んでいたけど、どうしたんだよ」
あ、大木戸さんだ。
「部長。すみませんでした」
「それより、鍵かけて何してたんだよ」
「桃子ちゃんが凪におっぱいあげてたんです」
「え?奥さんと娘連れ?」
大木戸さんの隣から、他の人も顔を出した。
「あ、奥さんだ。ちわ~~~っす!」
私はその人と、大木戸さんにぺこりとお辞儀をした。
「なんだ。やっぱ、奥さんがおっぱいあげているところは、他の奴が見ちゃ駄目なの?」
「当たり前でしょ。部長」
「ふうん」
聖君とそんな話をしながら、大木戸さんは中に入ってきた。
「聖、ちょうどよかった。お前もこの前のダイビングのビデオ見てく?」
「ああ、見たい」
聖君はそう言うと、凪のことを抱っこして、
「でもその前に、凪が寝そうだから、寝かしつけちゃっていい?」
と大木戸さんに聞いた。
「いいけど、お前、ほんと、いいパパだよね」
「…だって、ほら。こんなに可愛い娘なんだよ。いくらでもいいパパになっちゃうでしょ」
聖君は目じりを下げてそう言うと、凪を揺らして寝かしつけはじめた。
「そうやってると、本当にパパだよねえ」
「本当のパパなんだけど」
麦さんの言葉に、聖君は小声で言って、
「凪、おやすみ」
と優しくささやいて、凪のことを寝かしつけてしまった。
凪は聖君の腕の中で、気持ちよさそうに目を閉じた。
「寝ちゃった」
「可愛い」
麦さんと、東海林さんが凪の顔を覗いた。東海林さんが凪をちゃんと見たのって、初めてかもしれないな。
「聖先輩の腕の中って、きっと安心するんですね」
東海林さんがそう言った。
「そりゃ、パパだからね」
聖君がそう言うと、東海林さんは静かにうなづいた。
もしかしてもしかすると、もう東海林さんは聖君をあきらめてくれたのかな。だから、ちゃんと凪のことも見て、聖君を凪の父親だと認めて、今、静かにうなづいたんだろうか。