俺を殺した犯人と、結婚することになった
俺を殺した女は、泣いていた。
包丁を握ったまま。
血だらけの手で。
「ごめんなさい」
何度も。
何度も。
そう言っていた。
胸が熱かった。
いや。
熱いというより、焼けるように痛かった。
息をするたび、肺の奥で何かが崩れていく。
床に広がった血が、背中を濡らしていた。
俺は動けなかった。
目の前にいる女の顔だけを見ていた。
長い黒髪。
白い頬。
泣くと少しだけ下がる眉。
左目の下にある、小さなほくろ。
その顔を。
俺は知っていた。
妻だった。
結婚して三年。
毎朝、俺より少し早く起きてコーヒーを淹れてくれた女。
寝相の悪い俺に文句を言いながら、布団をかけ直してくれた女。
俺が仕事から帰ると、
「おかえり」
と笑ってくれた女。
その妻が。
俺の胸に包丁を刺していた。
「どうして……」
声にならなかった。
妻――美月は、包丁を落とした。
金属音が響く。
「悠真……」
俺の名前を呼んだ。
「ごめん」
また、それだけ。
俺は知りたかった。
なぜ。
俺が何をした?
浮気なんてしていない。
暴力も振るっていない。
借金もない。
夫婦仲だって、少なくとも俺は悪くないと思っていた。
なのに。
どうして。
美月は俺を殺した?
伸ばした指が、美月に届く前に。
視界が暗くなった。
最後に聞こえたのは。
美月の声だった。
「次は絶対に、あなたを助けるから」
――そこで。
俺は死んだ。
はずだった。
◇
目を開けた瞬間。
最初に見えたのは、知らない天井だった。
白い。
安っぽい蛍光灯。
壁際に積まれた漫画。
脱ぎっぱなしのジーンズ。
散らかった机。
「……は?」
俺は身体を起こした。
胸を触る。
傷がない。
血もない。
痛みもない。
心臓が動いている。
ドクン。
ドクン。
生きている。
「なんだ……これ」
視界の端にスマホがあった。
古い機種。
見覚えがある。
大学時代に使っていたスマホ。
まさか。
画面を点けた。
日付。
四月十二日。
十年前。
俺が二十五歳になる、少し前。
「……嘘だろ」
部屋も。
スマホも。
カレンダーも。
全部、十年前のものだった。
鏡を見る。
若い。
間違いない。
二十四歳の俺だ。
意味が分からない。
夢なのか。
死ぬ直前に脳が見せている幻覚なのか。
頬を叩いた。
痛い。
もう一度。
痛い。
俺はベッドに座り込んだ。
頭の中に浮かんだのは、ただ一人。
美月。
俺を殺した妻。
十年前。
この時点では。
まだ出会っていない。
俺たちが初めて会うのは、約三か月後。
七月。
友人の結婚式だった。
そこで。
新婦側の友人として来ていた美月と知り合った。
もし本当に十年前に戻ったのなら。
選択肢は一つだった。
美月に会わない。
あの女と関わらなければ。
俺は殺されない。
単純な話だ。
「二度と……」
俺は呟いた。
「二度と、お前とは会わない」
それで終わるはずだった。
◇
七月。
俺は友人の結婚式を欠席した。
「仕事が入った」
嘘だった。
その日は一日中、部屋にいた。
カーテンすら開けなかった。
時刻を見る。
午後三時。
本来なら、この時間。
披露宴会場で美月に声をかけていた。
俺がワインをこぼして。
美月のドレスに少しかかって。
必死に謝って。
それが最初だった。
午後六時。
何も起こらない。
夜十時。
何も起こらない。
日付が変わった。
俺は笑った。
「やった」
運命は変えられた。
そう思った。
翌朝。
俺はコンビニへ向かった。
横断歩道。
青信号。
何気なく渡ろうとした。
その瞬間。
誰かに後ろから強く腕を引かれた。
「危ない!」
目の前を。
トラックが猛スピードで横切った。
信号無視だった。
俺は尻もちをついた。
一秒。
いや。
半秒遅ければ。
死んでいた。
「大丈夫ですか?」
声。
俺は凍った。
ゆっくり顔を上げた。
長い黒髪。
白い頬。
左目の下の小さなほくろ。
美月だった。
「……嘘だろ」
美月が首を傾げる。
「え?」
俺は腕を振り払った。
「触るな!」
美月の顔が強張った。
周囲の人がこちらを見る。
「す、すみません……」
美月は一歩下がった。
「急に引っ張ってしまって。でも、車が……」
「俺に近づくな」
「……え?」
「二度と」
俺は逃げた。
美月を置いて。
走った。
肺が痛くなるまで。
◇
どうして。
どうして会う?
結婚式を避けた。
出会いを消したはずだ。
なのに。
翌日。
偶然、命を救われた。
運命。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
馬鹿らしい。
運命なんてない。
俺は仕事を変えた。
引っ越した。
駅も変えた。
生活圏を完全に変えた。
それから半年。
美月には会わなかった。
安心していた。
ある冬の日。
会社帰り。
雪が降っていた。
駅前のベンチ。
そこに、一人の女が座っていた。
美月。
俺は足を止めた。
彼女は俯いていた。
傘も差していない。
肩に雪が積もっている。
俺は無視した。
通り過ぎる。
十歩。
二十歩。
それでも。
振り返ってしまった。
美月はまだ座っていた。
顔色が異様に白かった。
次の瞬間。
身体が傾いた。
「おい!」
反射的に走った。
倒れる寸前。
俺は美月を受け止めた。
「大丈夫か?」
返事がない。
額が熱かった。
結局。
俺は美月を病院へ運んだ。
高熱と過労。
医者に言われた。
命に別状はなかった。
二時間後。
美月が目を覚ました。
「……あなた」
俺を見た。
そして。
少し笑った。
「この前の怖い人」
「怖い人って……」
「触るな、近づくなって言った人」
「あれは……」
「でも今日は助けてくれたんですね」
「たまたまだ」
「ありがとうございます」
笑顔。
記憶と同じ笑い方だった。
胸が痛んだ。
俺は思い出す。
この女が。
十年後。
俺を殺す。
◇
俺は病室を出ようとした。
「待ってください」
美月が言った。
「名前だけ、教えてもらえませんか?」
「嫌だ」
「じゃあ私から言います」
「いらない」
「相沢美月です」
知っている。
「二十六歳です」
知っている。
「好きな食べ物はオムライスです」
知っている。
「猫派です」
それも知っている。
「あと……」
「コーヒーはブラック飲めないだろ」
美月が止まった。
「え?」
しまった。
「どうして知ってるんですか?」
「……適当だ」
「私、砂糖二つ入れます」
「知ってる」
「やっぱり知ってるじゃないですか」
美月が笑った。
俺は何も言えなかった。
「どこかで会いました?」
会った。
十年後まで一緒にいた。
お前と結婚した。
旅行もした。
喧嘩もした。
笑った。
そして。
殺された。
「知らない」
それだけ言って。
俺は病室を出た。
◇
それから。
なぜか美月とは何度も会った。
本当に偶然だった。
駅。
本屋。
喫茶店。
スーパー。
三回目くらいから、美月は笑うようになった。
「またですね」
五回目。
「これ、もう運命じゃないですか?」
俺は顔をしかめた。
「冗談でもやめろ」
「そんなに嫌ですか?」
嫌だった。
怖かった。
でも。
それ以上に。
懐かしかった。
美月の声。
美月の仕草。
何かを考えるとき、下唇を少し噛む癖。
笑うと目が細くなるところ。
全部知っている。
この十年。
俺が一番愛した人だった。
殺されたという事実さえなければ。
もう一度。
抱きしめたかった。
ある日。
美月が聞いた。
「私、何かしました?」
「何が」
「私を見るとき、時々すごく怖い顔するから」
「……」
「嫌いなら、ちゃんと言ってください」
「嫌いじゃない」
口から出た。
美月が驚いた。
俺自身も驚いた。
「じゃあ」
「怖いんだ」
「私が?」
「ああ」
美月は少し黙った。
そして。
「じゃあ、怖くなくなるまで友達でいます」
そう言った。
俺は笑ってしまった。
未来と同じだ。
美月はいつだって。
そういう女だった。
◇
友達。
その関係は二年続いた。
俺は何度も距離を取ろうとした。
だが、美月が困っていると助けた。
俺が体調を崩すと、美月が家まで来た。
仕事で落ち込んだ夜。
美月と朝まで電話した。
雨の日。
一つの傘に入った。
誕生日。
美月は手作りのケーキを持ってきた。
そして。
二十七歳の冬。
美月が言った。
「私、あなたが好きです」
知っていた。
前の人生でも。
この時期。
美月は俺を好きになった。
「ごめん」
俺は断った。
美月は笑った。
「分かりました」
強がっていた。
目は泣いていた。
その夜。
俺は一人で飲んだ。
苦しかった。
死ぬほど。
殺される未来を知っている。
なのに。
俺も美月が好きだった。
どうしようもないくらい。
◇
美月はその後も変わらなかった。
友人として側にいた。
俺も離れられなかった。
そして。
ある日。
美月が交通事故に遭った。
俺に会いに来る途中だった。
病院へ走った。
幸い、命に別状はなかった。
眠っている美月の手を握った。
そのとき。
初めて思った。
もし。
美月が死んだら。
俺は後悔する。
殺されるとしても。
十年一緒にいられるなら。
それでいいんじゃないか。
そんな馬鹿な考えだった。
美月が目を開けた。
「悠真……?」
前の人生で死ぬ直前。
彼女が俺を呼んだ声と重なった。
俺は泣いた。
「美月」
「どうしたの?」
「好きだ」
美月が固まった。
「俺も、お前が好きだ」
「……遅い」
美月が泣いた。
「二年待った」
「ごめん」
「本当に遅い」
俺たちは。
付き合い始めた。
◇
未来は。
少しずつ前と同じ道を進んだ。
付き合って三年。
プロポーズ。
場所まで同じだった。
海の見えるレストラン。
前の人生では。
俺が選んだ。
今回は。
避けようと思った。
しかし美月が言った。
「ここ、一度来たかったんだ」
結局。
同じ店になった。
俺は指輪を出した。
「結婚してください」
美月は泣いた。
「はい」
嬉しかった。
怖かった。
同時に。
死へのカウントダウンが始まった。
◇
結婚一年目。
何もない。
二年目。
何もない。
三年目。
俺は毎日怯えていた。
前の人生で殺された日が近づいていた。
十月十九日。
午後九時四十分。
場所は自宅キッチン。
俺は日時まで覚えている。
逃げることも考えた。
だが。
知りたかった。
なぜ俺を殺したのか。
そこから逃げ続ける限り。
何も分からない。
十月十九日。
朝。
美月はいつも通りだった。
「今日、早く帰ってきてね」
「どうして?」
「話があるの」
心臓が止まりそうになった。
前の人生。
美月は同じことを言った。
「話がある」
それが最後の会話だった。
◇
午後八時五十分。
俺は帰宅した。
美月はリビングにいた。
顔色が悪い。
「おかえり」
「ただいま」
食卓。
料理はなかった。
テーブルの上に。
一枚の封筒。
「何?」
「座って」
俺は座った。
美月も向かいに座る。
手が震えていた。
「悠真」
「ああ」
「私ね」
美月は深呼吸した。
「ずっと、隠してたことがある」
ついに来た。
俺は拳を握った。
「言って」
「子どもの頃、父親から暴力を受けてた」
予想外だった。
「え?」
「お母さんにも」
美月の声が震える。
「父は酒を飲むと暴れて。母と私を殴った」
初めて聞いた。
前の人生でも。
美月はそんな話をしなかった。
「中学生のとき、両親は離婚した。でも父はずっと私たちを探してた」
美月は封筒を開けた。
一枚の写真。
男が写っていた。
六十代くらい。
「三日前、この人から連絡が来た」
「父親?」
美月が頷く。
「私たちの住所を知ってた」
背筋が冷えた。
「警察には?」
「相談した。でも今の段階だと……」
その瞬間。
玄関で音がした。
ガチャ。
鍵。
「なんで……」
美月が青ざめた。
玄関のドアが開く。
男が入ってきた。
写真の男。
手には。
包丁。
俺は立ち上がった。
「お前が悠真か」
男が言った。
酒臭かった。
「娘を返せ」
「警察呼ぶぞ」
「美月は俺の娘だ」
「帰れ!」
男が突進した。
俺は腕を掴んだ。
揉み合い。
包丁が光る。
美月が叫ぶ。
そして。
すべてを思い出した。
前の人生。
あの夜。
俺はキッチンで刺された。
目の前には。
包丁を握る美月。
でも。
その前は?
なぜ。
何も覚えていない?
俺の記憶は。
刺された瞬間から始まっていた。
男が俺を押し倒す。
包丁が胸へ向く。
「悠真!」
美月が男に飛びついた。
男が振り払う。
美月が壁に叩きつけられる。
俺は男の腕を押さえる。
だが力が強い。
刃先が。
胸に近づく。
そのとき。
美月が包丁を掴んだ。
刃を素手で。
血が出る。
「離せ!」
男が美月を蹴った。
包丁が床に落ちた。
美月が拾う。
男が俺の首を絞める。
息ができない。
視界が暗くなる。
そして。
美月が。
包丁を振った。
男に向かって。
俺は男を押し退けようとして。
身体を起こした。
刃の軌道に。
俺の胸が入った。
ズブッ。
音がした。
時間が止まった。
美月の目が見開かれる。
包丁は。
俺の胸に刺さっていた。
「……あ」
全部。
思い出した。
そうだった。
美月は。
俺を殺そうとしたんじゃない。
俺を助けようとしていた。
倒れながら。
俺は笑った。
「そういうことか……」
美月が泣き叫ぶ。
「悠真!」
男は逃げた。
美月が俺を抱える。
前の人生と同じ。
血だらけの手。
泣き顔。
「ごめんなさい」
何度も。
何度も。
謝る。
「美月」
「喋らないで!」
「違ったんだな」
「え?」
「お前じゃ……なかった」
意識が遠くなる。
同じだ。
また。
死ぬ。
結局。
未来は変わらなかった。
そう思った。
でも。
今回は。
美月が何を言ったのか。
最後まで聞こえた。
「死なないで」
美月が泣いている。
「お願い」
俺は目を閉じる。
「次は絶対に、あなたを助けるから」
違う。
あの言葉は。
タイムリープのことじゃなかった。
美月はただ。
次に何かあったら。
絶対に俺を守る。
そう言っていただけだった。
俺は。
十年間。
その言葉を勘違いしていた。
◇
目を覚ました。
白い天井。
また。
十年前かと思った。
「……悠真?」
横を見る。
美月。
髪は乱れている。
目は腫れている。
「ここ……」
「病院」
胸が痛い。
でも。
生きている。
「俺……」
「手術成功したって」
美月が泣いた。
「生きてる?」
「生きてるよ!」
抱きつかれた。
痛かった。
でも。
俺は笑った。
前の人生では。
救急車が来る前に俺は死んだ。
今回は。
少しだけ違った。
なぜ?
美月が言った。
「あなたが前に言ったから」
「何を?」
「もし何かあったら、すぐ救急車呼べって。救急セットも置いて。止血のやり方まで教えてくれたでしょ」
思い出した。
未来を恐れて。
俺は何年も前から準備していた。
避難経路。
救急用品。
近所の病院。
防犯カメラ。
全部。
自分が殺される未来から逃げるためだった。
その準備が。
俺を救った。
運命は。
完全には変えられなかった。
だけど。
結末は変えられた。
◇
美月の父親は逮捕された。
殺人未遂。
住居侵入。
過去の暴力も含めて。
長い裁判になった。
俺は退院した。
美月は。
しばらく俺に触れられなくなった。
自分の手で俺を刺したことが。
トラウマになっていた。
夜中。
時々泣いていた。
俺は何度も言った。
「美月は悪くない」
でも。
簡単に消える傷じゃない。
だから。
急がなかった。
時間をかけた。
半年後。
美月が初めて。
自分から俺の手を握った。
「ねえ」
「ん?」
「どうして昔、私のこと怖がってたの?」
ついに聞かれた。
俺は少し考えた。
本当のことを言っても。
信じないだろう。
でも。
嘘もつきたくなかった。
「夢を見たんだ」
「夢?」
「お前に殺される夢」
美月が黙った。
「すごくリアルな夢だった」
「だから?」
「だから最初、お前から逃げてた」
美月はしばらく俺を見た。
「バカ」
「ああ」
「夢で人を嫌わないでよ」
「悪かった」
「それで?」
「それで、結局好きになった」
「もっとバカ」
美月が笑った。
俺も笑った。
◇
一年後。
俺たちは小さな結婚式をやり直した。
最初の結婚式も本物だった。
でも。
俺にとっては。
これが二度目の人生で初めて。
心から未来を怖がらずに迎えられる日だった。
式が終わった夜。
ホテルの部屋。
美月が窓辺に立っていた。
「悠真」
「ん?」
「聞いていい?」
「何?」
「もし」
美月が振り向く。
「未来が分かるとして」
心臓が止まりそうになった。
「その未来で、私があなたを不幸にするって分かってたら」
美月は笑った。
「それでも、私と結婚する?」
俺は答えた。
今度は。
迷わなかった。
「する」
「即答?」
「ああ」
「どうして?」
俺は美月の隣に立った。
「未来を知ってても、人間は間違えるから」
「何それ」
「大事なのは、未来に何が起きるかじゃない」
美月を見る。
「そのとき、誰といるかだと思う」
美月は。
少し泣いた。
「クサい」
「うるさい」
「でも」
美月が俺の手を握った。
「嬉しい」
◇
それから七年。
俺は四十一歳になった。
前の人生では。
とっくに死んでいた年齢。
美月との間には。
娘が一人いる。
名前は陽菜。
六歳。
口が達者で。
美月にそっくりだ。
ある日。
娘がアルバムを見ながら聞いた。
「パパとママ、どうやって結婚したの?」
美月が笑う。
「パパがね、ママに一目惚れしたの」
「嘘つけ」
「違うの?」
「最初は逃げた」
娘が笑う。
「なんで逃げたの?」
俺は少し考えた。
「ママが怖かったから」
「ママ怖くないよ?」
「そうなんだよ」
俺は美月を見る。
美月も俺を見る。
十年前。
俺は未来を知っているつもりだった。
美月が俺を殺す。
それが真実だと思っていた。
でも。
人間は。
一つの場面だけを見て。
すべてを分かったつもりになる。
泣きながら包丁を握っている女。
血まみれで倒れている男。
そこだけを切り取れば。
犯人と被害者にしか見えない。
でも。
その一秒前に何があったのか。
その十年前に何があったのか。
知らなければ。
真実なんて。
何も分からない。
俺は一度。
美月から逃げた。
未来から逃げた。
死から逃げた。
でも。
結局。
一番怖かった女が。
俺を一番愛してくれた。
そして。
一度俺を殺したその人が。
二度目の人生では。
俺を生かしてくれた。
夜。
娘が寝たあと。
俺と美月はベランダに出た。
「ねえ」
美月が言う。
「ん?」
「もし人生やり直せたら」
俺は笑った。
「また私と結婚する?」
少しだけ。
十年前の自分を思い出した。
美月から必死に逃げていた。
俺はその頃の自分に。
教えてやりたい。
その女から逃げるな。
確かに。
お前はその女に刺される。
一度死ぬ。
怖い目にも遭う。
泣く。
後悔する。
でも。
それでも。
その女を好きになる。
俺は美月の手を握った。
「するよ」
「本当に?」
「ああ」
「次も?」
「次も」
「その次も?」
「何回でも」
美月が笑った。
「じゃあ、来世でも?」
「来世は勘弁してくれ」
「なんで!」
「一回くらい別の人生も経験したい」
「最低」
美月が肩を叩く。
俺は笑った。
その瞬間。
胸の古傷が少し痛んだ。
あの日。
包丁が刺さった場所。
俺は傷に触れた。
美月が気づく。
「痛い?」
「少しだけ」
「ごめん」
「またそれ言う」
「だって」
俺は美月の額に軽くキスをした。
「もう謝らなくていい」
「……うん」
「それに」
「何?」
俺は夜空を見上げた。
「この傷のおかげで分かったこともあるから」
「何が?」
俺は笑った。
「人生って」
一度。
言葉を切った。
「結末を知ってても、途中までは分からないんだなって」
未来を知っていた俺ですら。
美月を誤解した。
死を避けようとして。
逆に美月と出会った。
逃げようとして。
好きになった。
殺されると知りながら。
結婚した。
そして。
死ぬはずだった日に。
生き残った。
もしかすると。
未来なんて。
最初から決まっていなかったのかもしれない。
決まっているのは。
いつか必ず。
終わるということだけ。
だから。
それまで。
誰と笑うか。
誰を愛するか。
何を信じるか。
それを選び続けるしかない。
美月が俺の肩にもたれた。
部屋の中から。
娘の寝言が聞こえる。
「ママぁ……」
美月が笑う。
「呼ばれた」
「行ってこい」
「一緒に来て」
「はいはい」
俺たちは手を繋いで。
部屋へ戻った。
一度目の人生。
俺は妻に殺された。
二度目の人生。
俺は。
俺を殺した犯人と。
もう一度結婚した。
そして今度は。
死ぬまで。
一緒に生きていく。
――完――




