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俺を殺した犯人と、結婚することになった

作者: 刻音
掲載日:2026/09/20

俺を殺した女は、泣いていた。


包丁を握ったまま。


血だらけの手で。


「ごめんなさい」


何度も。


何度も。


そう言っていた。


胸が熱かった。


いや。


熱いというより、焼けるように痛かった。


息をするたび、肺の奥で何かが崩れていく。


床に広がった血が、背中を濡らしていた。


俺は動けなかった。


目の前にいる女の顔だけを見ていた。


長い黒髪。


白い頬。


泣くと少しだけ下がる眉。


左目の下にある、小さなほくろ。


その顔を。


俺は知っていた。


妻だった。


結婚して三年。


毎朝、俺より少し早く起きてコーヒーを淹れてくれた女。


寝相の悪い俺に文句を言いながら、布団をかけ直してくれた女。


俺が仕事から帰ると、


「おかえり」


と笑ってくれた女。


その妻が。


俺の胸に包丁を刺していた。


「どうして……」


声にならなかった。


妻――美月は、包丁を落とした。


金属音が響く。


「悠真……」


俺の名前を呼んだ。


「ごめん」


また、それだけ。


俺は知りたかった。


なぜ。


俺が何をした?


浮気なんてしていない。


暴力も振るっていない。


借金もない。


夫婦仲だって、少なくとも俺は悪くないと思っていた。


なのに。


どうして。


美月は俺を殺した?


伸ばした指が、美月に届く前に。


視界が暗くなった。


最後に聞こえたのは。


美月の声だった。


「次は絶対に、あなたを助けるから」


――そこで。


俺は死んだ。


はずだった。


◇


目を開けた瞬間。


最初に見えたのは、知らない天井だった。


白い。


安っぽい蛍光灯。


壁際に積まれた漫画。


脱ぎっぱなしのジーンズ。


散らかった机。


「……は?」


俺は身体を起こした。


胸を触る。


傷がない。


血もない。


痛みもない。


心臓が動いている。


ドクン。


ドクン。


生きている。


「なんだ……これ」


視界の端にスマホがあった。


古い機種。


見覚えがある。


大学時代に使っていたスマホ。


まさか。


画面を点けた。


日付。


四月十二日。


十年前。


俺が二十五歳になる、少し前。


「……嘘だろ」


部屋も。


スマホも。


カレンダーも。


全部、十年前のものだった。


鏡を見る。


若い。


間違いない。


二十四歳の俺だ。


意味が分からない。


夢なのか。


死ぬ直前に脳が見せている幻覚なのか。


頬を叩いた。


痛い。


もう一度。


痛い。


俺はベッドに座り込んだ。


頭の中に浮かんだのは、ただ一人。


美月。


俺を殺した妻。


十年前。


この時点では。


まだ出会っていない。


俺たちが初めて会うのは、約三か月後。


七月。


友人の結婚式だった。


そこで。


新婦側の友人として来ていた美月と知り合った。


もし本当に十年前に戻ったのなら。


選択肢は一つだった。


美月に会わない。


あの女と関わらなければ。


俺は殺されない。


単純な話だ。


「二度と……」


俺は呟いた。


「二度と、お前とは会わない」


それで終わるはずだった。


◇


七月。


俺は友人の結婚式を欠席した。


「仕事が入った」


嘘だった。


その日は一日中、部屋にいた。


カーテンすら開けなかった。


時刻を見る。


午後三時。


本来なら、この時間。


披露宴会場で美月に声をかけていた。


俺がワインをこぼして。


美月のドレスに少しかかって。


必死に謝って。


それが最初だった。


午後六時。


何も起こらない。


夜十時。


何も起こらない。


日付が変わった。


俺は笑った。


「やった」


運命は変えられた。


そう思った。


翌朝。


俺はコンビニへ向かった。


横断歩道。


青信号。


何気なく渡ろうとした。


その瞬間。


誰かに後ろから強く腕を引かれた。


「危ない!」


目の前を。


トラックが猛スピードで横切った。


信号無視だった。


俺は尻もちをついた。


一秒。


いや。


半秒遅ければ。


死んでいた。


「大丈夫ですか?」


声。


俺は凍った。


ゆっくり顔を上げた。


長い黒髪。


白い頬。


左目の下の小さなほくろ。


美月だった。


「……嘘だろ」


美月が首を傾げる。


「え?」


俺は腕を振り払った。


「触るな!」


美月の顔が強張った。


周囲の人がこちらを見る。


「す、すみません……」


美月は一歩下がった。


「急に引っ張ってしまって。でも、車が……」


「俺に近づくな」


「……え?」


「二度と」


俺は逃げた。


美月を置いて。


走った。


肺が痛くなるまで。


◇


どうして。


どうして会う?


結婚式を避けた。


出会いを消したはずだ。


なのに。


翌日。


偶然、命を救われた。


運命。


そんな言葉が頭に浮かんだ。


馬鹿らしい。


運命なんてない。


俺は仕事を変えた。


引っ越した。


駅も変えた。


生活圏を完全に変えた。


それから半年。


美月には会わなかった。


安心していた。


ある冬の日。


会社帰り。


雪が降っていた。


駅前のベンチ。


そこに、一人の女が座っていた。


美月。


俺は足を止めた。


彼女は俯いていた。


傘も差していない。


肩に雪が積もっている。


俺は無視した。


通り過ぎる。


十歩。


二十歩。


それでも。


振り返ってしまった。


美月はまだ座っていた。


顔色が異様に白かった。


次の瞬間。


身体が傾いた。


「おい!」


反射的に走った。


倒れる寸前。


俺は美月を受け止めた。


「大丈夫か?」


返事がない。


額が熱かった。


結局。


俺は美月を病院へ運んだ。


高熱と過労。


医者に言われた。


命に別状はなかった。


二時間後。


美月が目を覚ました。


「……あなた」


俺を見た。


そして。


少し笑った。


「この前の怖い人」


「怖い人って……」


「触るな、近づくなって言った人」


「あれは……」


「でも今日は助けてくれたんですね」


「たまたまだ」


「ありがとうございます」


笑顔。


記憶と同じ笑い方だった。


胸が痛んだ。


俺は思い出す。


この女が。


十年後。


俺を殺す。


◇


俺は病室を出ようとした。


「待ってください」


美月が言った。


「名前だけ、教えてもらえませんか?」


「嫌だ」


「じゃあ私から言います」


「いらない」


「相沢美月です」


知っている。


「二十六歳です」


知っている。


「好きな食べ物はオムライスです」


知っている。


「猫派です」


それも知っている。


「あと……」


「コーヒーはブラック飲めないだろ」


美月が止まった。


「え?」


しまった。


「どうして知ってるんですか?」


「……適当だ」


「私、砂糖二つ入れます」


「知ってる」


「やっぱり知ってるじゃないですか」


美月が笑った。


俺は何も言えなかった。


「どこかで会いました?」


会った。


十年後まで一緒にいた。


お前と結婚した。


旅行もした。


喧嘩もした。


笑った。


そして。


殺された。


「知らない」


それだけ言って。


俺は病室を出た。


◇


それから。


なぜか美月とは何度も会った。


本当に偶然だった。


駅。


本屋。


喫茶店。


スーパー。


三回目くらいから、美月は笑うようになった。


「またですね」


五回目。


「これ、もう運命じゃないですか?」


俺は顔をしかめた。


「冗談でもやめろ」


「そんなに嫌ですか?」


嫌だった。


怖かった。


でも。


それ以上に。


懐かしかった。


美月の声。


美月の仕草。


何かを考えるとき、下唇を少し噛む癖。


笑うと目が細くなるところ。


全部知っている。


この十年。


俺が一番愛した人だった。


殺されたという事実さえなければ。


もう一度。


抱きしめたかった。


ある日。


美月が聞いた。


「私、何かしました?」


「何が」


「私を見るとき、時々すごく怖い顔するから」


「……」


「嫌いなら、ちゃんと言ってください」


「嫌いじゃない」


口から出た。


美月が驚いた。


俺自身も驚いた。


「じゃあ」


「怖いんだ」


「私が?」


「ああ」


美月は少し黙った。


そして。


「じゃあ、怖くなくなるまで友達でいます」


そう言った。


俺は笑ってしまった。


未来と同じだ。


美月はいつだって。


そういう女だった。


◇


友達。


その関係は二年続いた。


俺は何度も距離を取ろうとした。


だが、美月が困っていると助けた。


俺が体調を崩すと、美月が家まで来た。


仕事で落ち込んだ夜。


美月と朝まで電話した。


雨の日。


一つの傘に入った。


誕生日。


美月は手作りのケーキを持ってきた。


そして。


二十七歳の冬。


美月が言った。


「私、あなたが好きです」


知っていた。


前の人生でも。


この時期。


美月は俺を好きになった。


「ごめん」


俺は断った。


美月は笑った。


「分かりました」


強がっていた。


目は泣いていた。


その夜。


俺は一人で飲んだ。


苦しかった。


死ぬほど。


殺される未来を知っている。


なのに。


俺も美月が好きだった。


どうしようもないくらい。


◇


美月はその後も変わらなかった。


友人として側にいた。


俺も離れられなかった。


そして。


ある日。


美月が交通事故に遭った。


俺に会いに来る途中だった。


病院へ走った。


幸い、命に別状はなかった。


眠っている美月の手を握った。


そのとき。


初めて思った。


もし。


美月が死んだら。


俺は後悔する。


殺されるとしても。


十年一緒にいられるなら。


それでいいんじゃないか。


そんな馬鹿な考えだった。


美月が目を開けた。


「悠真……?」


前の人生で死ぬ直前。


彼女が俺を呼んだ声と重なった。


俺は泣いた。


「美月」


「どうしたの?」


「好きだ」


美月が固まった。


「俺も、お前が好きだ」


「……遅い」


美月が泣いた。


「二年待った」


「ごめん」


「本当に遅い」


俺たちは。


付き合い始めた。


◇


未来は。


少しずつ前と同じ道を進んだ。


付き合って三年。


プロポーズ。


場所まで同じだった。


海の見えるレストラン。


前の人生では。


俺が選んだ。


今回は。


避けようと思った。


しかし美月が言った。


「ここ、一度来たかったんだ」


結局。


同じ店になった。


俺は指輪を出した。


「結婚してください」


美月は泣いた。


「はい」


嬉しかった。


怖かった。


同時に。


死へのカウントダウンが始まった。


◇


結婚一年目。


何もない。


二年目。


何もない。


三年目。


俺は毎日怯えていた。


前の人生で殺された日が近づいていた。


十月十九日。


午後九時四十分。


場所は自宅キッチン。


俺は日時まで覚えている。


逃げることも考えた。


だが。


知りたかった。


なぜ俺を殺したのか。


そこから逃げ続ける限り。


何も分からない。


十月十九日。


朝。


美月はいつも通りだった。


「今日、早く帰ってきてね」


「どうして?」


「話があるの」


心臓が止まりそうになった。


前の人生。


美月は同じことを言った。


「話がある」


それが最後の会話だった。


◇


午後八時五十分。


俺は帰宅した。


美月はリビングにいた。


顔色が悪い。


「おかえり」


「ただいま」


食卓。


料理はなかった。


テーブルの上に。


一枚の封筒。


「何?」


「座って」


俺は座った。


美月も向かいに座る。


手が震えていた。


「悠真」


「ああ」


「私ね」


美月は深呼吸した。


「ずっと、隠してたことがある」


ついに来た。


俺は拳を握った。


「言って」


「子どもの頃、父親から暴力を受けてた」


予想外だった。


「え?」


「お母さんにも」


美月の声が震える。


「父は酒を飲むと暴れて。母と私を殴った」


初めて聞いた。


前の人生でも。


美月はそんな話をしなかった。


「中学生のとき、両親は離婚した。でも父はずっと私たちを探してた」


美月は封筒を開けた。


一枚の写真。


男が写っていた。


六十代くらい。


「三日前、この人から連絡が来た」


「父親?」


美月が頷く。


「私たちの住所を知ってた」


背筋が冷えた。


「警察には?」


「相談した。でも今の段階だと……」


その瞬間。


玄関で音がした。


ガチャ。


鍵。


「なんで……」


美月が青ざめた。


玄関のドアが開く。


男が入ってきた。


写真の男。


手には。


包丁。


俺は立ち上がった。


「お前が悠真か」


男が言った。


酒臭かった。


「娘を返せ」


「警察呼ぶぞ」


「美月は俺の娘だ」


「帰れ!」


男が突進した。


俺は腕を掴んだ。


揉み合い。


包丁が光る。


美月が叫ぶ。


そして。


すべてを思い出した。


前の人生。


あの夜。


俺はキッチンで刺された。


目の前には。


包丁を握る美月。


でも。


その前は?


なぜ。


何も覚えていない?


俺の記憶は。


刺された瞬間から始まっていた。


男が俺を押し倒す。


包丁が胸へ向く。


「悠真!」


美月が男に飛びついた。


男が振り払う。


美月が壁に叩きつけられる。


俺は男の腕を押さえる。


だが力が強い。


刃先が。


胸に近づく。


そのとき。


美月が包丁を掴んだ。


刃を素手で。


血が出る。


「離せ!」


男が美月を蹴った。


包丁が床に落ちた。


美月が拾う。


男が俺の首を絞める。


息ができない。


視界が暗くなる。


そして。


美月が。


包丁を振った。


男に向かって。


俺は男を押し退けようとして。


身体を起こした。


刃の軌道に。


俺の胸が入った。


ズブッ。


音がした。


時間が止まった。


美月の目が見開かれる。


包丁は。


俺の胸に刺さっていた。


「……あ」


全部。


思い出した。


そうだった。


美月は。


俺を殺そうとしたんじゃない。


俺を助けようとしていた。


倒れながら。


俺は笑った。


「そういうことか……」


美月が泣き叫ぶ。


「悠真!」


男は逃げた。


美月が俺を抱える。


前の人生と同じ。


血だらけの手。


泣き顔。


「ごめんなさい」


何度も。


何度も。


謝る。


「美月」


「喋らないで!」


「違ったんだな」


「え?」


「お前じゃ……なかった」


意識が遠くなる。


同じだ。


また。


死ぬ。


結局。


未来は変わらなかった。


そう思った。


でも。


今回は。


美月が何を言ったのか。


最後まで聞こえた。


「死なないで」


美月が泣いている。


「お願い」


俺は目を閉じる。


「次は絶対に、あなたを助けるから」


違う。


あの言葉は。


タイムリープのことじゃなかった。


美月はただ。


次に何かあったら。


絶対に俺を守る。


そう言っていただけだった。


俺は。


十年間。


その言葉を勘違いしていた。


◇


目を覚ました。


白い天井。


また。


十年前かと思った。


「……悠真?」


横を見る。


美月。


髪は乱れている。


目は腫れている。


「ここ……」


「病院」


胸が痛い。


でも。


生きている。


「俺……」


「手術成功したって」


美月が泣いた。


「生きてる?」


「生きてるよ!」


抱きつかれた。


痛かった。


でも。


俺は笑った。


前の人生では。


救急車が来る前に俺は死んだ。


今回は。


少しだけ違った。


なぜ?


美月が言った。


「あなたが前に言ったから」


「何を?」


「もし何かあったら、すぐ救急車呼べって。救急セットも置いて。止血のやり方まで教えてくれたでしょ」


思い出した。


未来を恐れて。


俺は何年も前から準備していた。


避難経路。


救急用品。


近所の病院。


防犯カメラ。


全部。


自分が殺される未来から逃げるためだった。


その準備が。


俺を救った。


運命は。


完全には変えられなかった。


だけど。


結末は変えられた。


◇


美月の父親は逮捕された。


殺人未遂。


住居侵入。


過去の暴力も含めて。


長い裁判になった。


俺は退院した。


美月は。


しばらく俺に触れられなくなった。


自分の手で俺を刺したことが。


トラウマになっていた。


夜中。


時々泣いていた。


俺は何度も言った。


「美月は悪くない」


でも。


簡単に消える傷じゃない。


だから。


急がなかった。


時間をかけた。


半年後。


美月が初めて。


自分から俺の手を握った。


「ねえ」


「ん?」


「どうして昔、私のこと怖がってたの?」


ついに聞かれた。


俺は少し考えた。


本当のことを言っても。


信じないだろう。


でも。


嘘もつきたくなかった。


「夢を見たんだ」


「夢?」


「お前に殺される夢」


美月が黙った。


「すごくリアルな夢だった」


「だから?」


「だから最初、お前から逃げてた」


美月はしばらく俺を見た。


「バカ」


「ああ」


「夢で人を嫌わないでよ」


「悪かった」


「それで?」


「それで、結局好きになった」


「もっとバカ」


美月が笑った。


俺も笑った。


◇


一年後。


俺たちは小さな結婚式をやり直した。


最初の結婚式も本物だった。


でも。


俺にとっては。


これが二度目の人生で初めて。


心から未来を怖がらずに迎えられる日だった。


式が終わった夜。


ホテルの部屋。


美月が窓辺に立っていた。


「悠真」


「ん?」


「聞いていい?」


「何?」


「もし」


美月が振り向く。


「未来が分かるとして」


心臓が止まりそうになった。


「その未来で、私があなたを不幸にするって分かってたら」


美月は笑った。


「それでも、私と結婚する?」


俺は答えた。


今度は。


迷わなかった。


「する」


「即答?」


「ああ」


「どうして?」


俺は美月の隣に立った。


「未来を知ってても、人間は間違えるから」


「何それ」


「大事なのは、未来に何が起きるかじゃない」


美月を見る。


「そのとき、誰といるかだと思う」


美月は。


少し泣いた。


「クサい」


「うるさい」


「でも」


美月が俺の手を握った。


「嬉しい」


◇


それから七年。


俺は四十一歳になった。


前の人生では。


とっくに死んでいた年齢。


美月との間には。


娘が一人いる。


名前は陽菜。


六歳。


口が達者で。


美月にそっくりだ。


ある日。


娘がアルバムを見ながら聞いた。


「パパとママ、どうやって結婚したの?」


美月が笑う。


「パパがね、ママに一目惚れしたの」


「嘘つけ」


「違うの?」


「最初は逃げた」


娘が笑う。


「なんで逃げたの?」


俺は少し考えた。


「ママが怖かったから」


「ママ怖くないよ?」


「そうなんだよ」


俺は美月を見る。


美月も俺を見る。


十年前。


俺は未来を知っているつもりだった。


美月が俺を殺す。


それが真実だと思っていた。


でも。


人間は。


一つの場面だけを見て。


すべてを分かったつもりになる。


泣きながら包丁を握っている女。


血まみれで倒れている男。


そこだけを切り取れば。


犯人と被害者にしか見えない。


でも。


その一秒前に何があったのか。


その十年前に何があったのか。


知らなければ。


真実なんて。


何も分からない。


俺は一度。


美月から逃げた。


未来から逃げた。


死から逃げた。


でも。


結局。


一番怖かった女が。


俺を一番愛してくれた。


そして。


一度俺を殺したその人が。


二度目の人生では。


俺を生かしてくれた。


夜。


娘が寝たあと。


俺と美月はベランダに出た。


「ねえ」


美月が言う。


「ん?」


「もし人生やり直せたら」


俺は笑った。


「また私と結婚する?」


少しだけ。


十年前の自分を思い出した。


美月から必死に逃げていた。


俺はその頃の自分に。


教えてやりたい。


その女から逃げるな。


確かに。


お前はその女に刺される。


一度死ぬ。


怖い目にも遭う。


泣く。


後悔する。


でも。


それでも。


その女を好きになる。


俺は美月の手を握った。


「するよ」


「本当に?」


「ああ」


「次も?」


「次も」


「その次も?」


「何回でも」


美月が笑った。


「じゃあ、来世でも?」


「来世は勘弁してくれ」


「なんで!」


「一回くらい別の人生も経験したい」


「最低」


美月が肩を叩く。


俺は笑った。


その瞬間。


胸の古傷が少し痛んだ。


あの日。


包丁が刺さった場所。


俺は傷に触れた。


美月が気づく。


「痛い?」


「少しだけ」


「ごめん」


「またそれ言う」


「だって」


俺は美月の額に軽くキスをした。


「もう謝らなくていい」


「……うん」


「それに」


「何?」


俺は夜空を見上げた。


「この傷のおかげで分かったこともあるから」


「何が?」


俺は笑った。


「人生って」


一度。


言葉を切った。


「結末を知ってても、途中までは分からないんだなって」


未来を知っていた俺ですら。


美月を誤解した。


死を避けようとして。


逆に美月と出会った。


逃げようとして。


好きになった。


殺されると知りながら。


結婚した。


そして。


死ぬはずだった日に。


生き残った。


もしかすると。


未来なんて。


最初から決まっていなかったのかもしれない。


決まっているのは。


いつか必ず。


終わるということだけ。


だから。


それまで。


誰と笑うか。


誰を愛するか。


何を信じるか。


それを選び続けるしかない。


美月が俺の肩にもたれた。


部屋の中から。


娘の寝言が聞こえる。


「ママぁ……」


美月が笑う。


「呼ばれた」


「行ってこい」


「一緒に来て」


「はいはい」


俺たちは手を繋いで。


部屋へ戻った。


一度目の人生。


俺は妻に殺された。


二度目の人生。


俺は。


俺を殺した犯人と。


もう一度結婚した。


そして今度は。


死ぬまで。


一緒に生きていく。


――完――

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