第9話 絶望の黒刃
異変は、音もなく訪れた。
(……罠が、作動していない?)
腐葉土に身を潜めていた僕は、違和感に息を呑んだ。
獣道に張っていた強靭な蔓が、弾ける音も立てずに「消失」していたのだ。
いや、違う。
解像度の高い視界――『識の原典』を薄く開いて観察すると、蔓は引きちぎられたのではなく、刃物で撫でられたように、極めて滑らかな断面を残して両断されていた。
全身の産毛が総毛立つ。
罠を力任せに壊す獣ではない。
鋭利な「何か」を持つ、次元の違う捕食者が僕の縄張りに踏み込んだのだ。
逃げようと泥まみれの足を踏み出した、その瞬間。
頭上の巨大な樹木の枝が、ズレるように音もなく滑り落ちた。
「……っ!」
ドスゥンッ! と重い音を立てて落ちた太い枝の断面は、鏡のように平滑だった。
そして、その枝が落ちた空間のぽっかりと空いた闇の中から、黒光りする巨体がゆっくりと姿を現した。
(……虫、なのか……?)
六本足の異形。
鋼鉄のように鈍く光る黒い外殻。
カマキリとムカデを掛け合わせたようなおぞましい頭部。
だが、最も絶望的なのは、その前肢だった。
僕の身長ほどもある、異常に発達した黒い鎌。
その刃の部分には、空間を漂う『未知の粒子』――僕が初めて火を起こした時に観た、熱やエネルギーを増幅させるあの光の粒――が高密度に圧縮されて纏わりつき、触れるものすべてを物理法則ごと切断する凶悪な構造を形成していた。
カチ、カチ、と大顎を鳴らし、複眼が僕を捉える。
(無理だ。勝てない。僕の石槍なんかじゃ、あの外殻に傷一つ――)
思考が完了するより早く、黒刃の甲獣が視界から消えた。
いや、速すぎたのだ。
「――っ!」
本能だけで泥の地面に横へ転がる。
直後、僕がさっきまでいた場所を、黒い鎌が音もなく薙ぎ払った。
風圧すら遅れてやってくるほどの速度。
背後にあった大岩が、豆腐のように斜めに両断され、ズズ……と嫌な音を立てて滑り落ちる。
(……バケモノが。掠っただけで、身体が真っ二つになる……っ!)
心臓が早鐘のように打ち鳴り、冷や汗が全身から噴き出す。
逃げられない。
罠もない。
石槍も通じない。
なら、どうする。
(……観るしかない。この理不尽な死の構造を、暴くんだ!)
僕は血が滲むほど唇を噛み、意図的に絞っていた『識の原典』のフィルターを、限界まで強引に引き剥がした。
「ガ、ァァッ……!!」
眼球の裏側で爆弾が破裂したかのような、凄まじい激痛。
致死量とも言える情報のノイズが脳髄を直接削り取り、内的な負荷で鼻の奥からツーッと温かい血が流れ落ちる。
だが、白濁しかける意識の向こう側で、世界は極限まで解像度を上げ、完璧な「構造と力のベクトル」の網目となって可視化された。
甲獣が再び鎌を振り上げる。
その筋肉の収縮率。
関節の滑り。
鎌に乗せられた莫大な運動エネルギーの奔流。
どんなに強固な外殻と圧倒的な力を持っていようと、物理的な質量を動かしている以上、そこには必ず「力の支点」が存在する。
見えた。
あの巨大な鎌腕を振り下ろす瞬間、すべての負荷が一点に集中する、関節内部の極小の隙間。
(……火を起こした時、あの『未知の粒子』は木の摩擦エネルギーに干渉して、熱を爆発的に増幅させた)
『識の原典』を極限まで解放したことに伴い加速した思考の中で、僕の脳が二つの現象を理屈で結びつける。
(なら……何トンもの力が掛かっているあの関節の隙間に、大気中の粒子を集めて流し込んだらどうなる? 粒子が『摩擦の抵抗』を爆発的に増幅させて、関節が完全に焼き付くんじゃないか……?)
魔法のように炎を出すことも、光の矢を放つことも僕にはできない。
けれど、『識の原典』を発動中に限るのであれば、大気中の粒子の自然な流れを視界で読み取り、特定の場所へ誘導することはできる。
甲獣が、僕の頭蓋骨を両断しようと黒鎌を振り下ろす。
僕は一切の回避行動を捨て、脳の処理能力のすべてを注ぎ込み、大気中の粒子の流れを視線で編み上げるように束ねた。
そして、振り下ろされる黒鎌の関節の隙間へ、その粒子の束を強制的に流し込んだ。
――事象の、矛盾。
流し込まれた粒子が関節の滑りを奪い、摩擦抵抗を爆発的に増幅させる。
結果、数トンの破壊力を持つ運動エネルギーが、関節という「逃げ場」を完全に失い、急ブレーキをかけられたようにロックされた。
その行き場を失った巨大な力は、他でもない甲獣自身の腕の構造へ、内側から牙を剥く。
ガキィィィィィンッ!!!!
森中に響き渡る、金属が破断するような絶響。
僕を切り裂くはずだった黒鎌は、甲獣自身が振り下ろした圧倒的な力に耐えきれず、関節の根元から爆発するように砕け散った。
「ギィ、シャァァァァッ!?」
自らの力で自らの腕をへし折った甲獣が、バランスを崩して苦悶の絶叫を上げる。
宙を舞った巨大な黒鎌の先端部分が、僕の目の前の腐葉土に、ドスッ! と深く突き刺さった。
(……今、これを逃せば、確実に殺される!)
激しい頭痛と吐き気で視界がぐらぐらと揺れる中、僕は泥まみれの手で、地面に突き刺さった『黒鎌』の柄(関節の破片部分)を握りしめた。
僕はふらつく足で地面を蹴り、自壊のショックで体勢を崩し、外殻の隙間(首の関節)を無防備に晒している甲獣へと肉薄した。
「ああああぁぁぁっ!!」
喉が裂けるほどの叫び声を上げながら、奪い取った黒鎌を、甲獣の首の隙間へと全力で振り抜く。
鉈のような、あるいは死神の鎌のような滑らかな曲線を描いたその刃は、まるで空気を切るような抵抗のなさで、鋼鉄の甲獣の首を断ち斬った。
ドスゥン、と。
嫌な音を立てて、醜悪な頭部が泥の上に転がる。
痙攣を続ける巨大な胴体から、生臭い体液が噴水のように吹き出した。
「……はぁっ、……はぁっ、……が、はっ、おぇっ……」
僕は黒鎌を杖のようにして身体を支えながら、その場に膝をつき、胃液をぶちまけた。
鼻からは血が滴り、限界を超えた情報処理の代償として、脳が焼き切れるような猛烈な頭痛が僕の意識を刈り取ろうとしている。
(……勝った。僕が、あのバケモノを……)
強大な敵の構造を読み切り、大気中の粒子を利用して関節の摩擦を増幅させる。
たったそれだけの条件を整えることで、敵自身の力で構造崩落を引き起こす。
腕力も魔法の才能もない僕が、どんな強者をも殺し得る、確実で残酷な攻略法。
条件さえ揃えてしまえば、対象に絶対に抗えない「死」を突きつけることができるのだ。
(……これで、生き残れる。『識の原典』と、この攻略法を駆使すれば)
自分の手で握りしめている、黒光りする鎌腕の重み。
僕は泥だらけの顔を上げ、この狂った世界で生き残るための新しい相棒となったその美しくも恐ろしい刃を、ただ静かに見つめていた。
【読者の皆様へ】
誰かがこの物語に目を留めてくださったこと、そして「面白かった」「続きが気になる」と楽しんでいただけることが、今の私にとって何よりの喜びであり、執筆の大きな力になります。
もしよろしければ、ページ下部にある星マーク(☆☆☆☆☆)から評価をつけていただいたり、ブックマークで応援していただけると本当に嬉しいです!




