第8話 ツギハギ衣の狩人
森に落ちてから、何度目の月を見たのか、もう数えるのはやめた。
「……ふぅっ、……っ」
僕は湿った腐葉土の上に身を潜め、息を殺していた。
今の僕の姿を地球の人間が見たら、間違いなく悲鳴を上げて逃げ出すだろう。
元の制服はとうの昔に擦り切れ、今は罠で仕留めた角ウサギや、死肉を漁りに来た小型の狼などの毛皮を、蔓と乾いた腸で無造作に繋ぎ合わせた「ツギハギの衣服」を被っている。
血抜きも鞣しも不完全なせいで、常に生臭い獣の匂いが染み付いているが、この強烈な悪臭のおかげで他の捕食者から「得体の知れない獣」として警戒され、無用な遭遇を避けられている。
太陽の光を浴びない生活と、常に『識の原典』を薄く開き続けている莫大な精神的負荷のせいで、僕の肌は病的に青白く変色し、頬は痩せこけていた。
(……来た。足音、一つ。重量は角ウサギより上……硬い蹄の音)
生きるという目的以外の一切を削ぎ落とした僕の聴覚が、枯れ葉を踏む音を捉える。
僕は割れそうな頭痛を堪えながら、意図的に絞っている『識の原典』の認識フィルターを、ほんの数ミリだけ開いた。
「……ぐ、っ……」
眼球の裏側をヤスリで削られるような内的な痛みが走り、視界が情報過多のノイズに染まる。
そのノイズの向こう側、薄暗い獣道を歩いてくるのは、分厚い泥の鎧を纏ったイノシシのような魔物だった。丸太のような胴体に、岩のように硬そうな頭部。
正面からぶつかれば、ただの高校生である僕の骨など一瞬で粉砕されるだろう。
(……だが、構造には必ず穴がある)
僕は視界に映るイノシシの「筋肉の密度」と、あらかじめ仕掛けておいた罠の「引張強度」の情報をすり合わせる。
僕の武器は、先端を無理やり鋭く砕いただけの不格好な石槍一本。
まともな筋肉もない僕の腕力では、あの泥の鎧を貫通することなど絶対に不可能だ。
だから、僕の狩りは常に「点」を突く作業でしかない。
バチンッ!!
イノシシが落ち葉の下に隠した蔓の輪を踏み抜いた瞬間、弾力を限界まで溜め込んでいたしなり木が跳ね上がった。
「ブギィィッ!?」
凄まじい反発力が、巨体を一瞬だけ宙に浮かせ、太い木の幹へと激突させる。
だが、あの質量だ。
蔓はギリギリと悲鳴を上げ、数秒もすれば引きちぎられてしまうだろう。
(……今だっ!)
僕は藪の中から泥まみれの身体を弾き出した。
暴れるイノシシに向かって、石槍を構えて真っ直ぐに踏み込む。
狙うのは、分厚い泥の鎧も筋肉も存在しない、ただ一つの「構造の隙間」だ。
『識の原典』を通した視界が、激しく暴れる獣の首元――第一頸椎と第二頸椎の間にある、わずか数ミリの骨の隙間を、明確な情報として捉えていた。
(……ここだっ!)
僕は躊躇なく、全身の体重を乗せて石槍の先端をその「点」へと突き入れた。
ゴリッ、という、骨の隙間に石の刃が割り込む嫌な感触。
そのまま神経の束を物理的に断ち切る。
「ガ、ブ……ッ」
声にならない痙攣を一度だけ起こし、泥のイノシシは白目を剥いてドサリと地面に崩れ落ちた。
完全に息の根が止まった。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……っ」
僕はその場にへたり込み、石槍を手放した。
激しい頭痛と吐き気に襲われ、その場で胃液だけを吐き出す。
全身の筋肉が震え、たった一撃の突きのために消費した極度の集中力が、精神をゴリゴリと削り取っていた。
(……殺せた。でも、これが限界だ……)
ドクドクと脈打つこめかみを押さえながら、倒れた獲物を見つめる。
魔法のように炎を出して焼き払うことも、念動力で吹き飛ばすこともできない。
僕にできるのは、ただ無数の情報が散乱する視界で「致命的な急所(構造の隙間)」を見つけ出し、罠で動きを止めた相手に、物理的に武器をねじ込むことだけだ。
もし、罠が通じないような巨大な魔物に出くわしたら。
もし、群れで囲まれて、急所を突く暇すら与えられなかったら。
(……僕は、確実に死ぬ。何の手立てもない)
石槍では、一対多の状況や、硬い鱗を持つバケモノには絶対に通用しない。
生き残るためには、もっと確実で、もっと致命的な「手段」が必要だった。
物理的な腕力に依存しない、世界の構造そのものを断ち切るような何かが。
僕は震える手で腰に下げた手製の石刃を抜き、獲物の解体を始めた。
血と泥と内臓の臭いが鼻を突く。
いつか来るであろう「どうしようもない死の危機」の予感に怯えながら、僕はただ黙々と、泥臭い命のやり取りを繰り返していた。
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