第7話 泥まみれの獣
胃袋が、内側から自分自身を消化しようとしている。
「……はぁっ、ふぅ……っ」
泥水を濾過して命を繋いでから、三日が過ぎていた。
その間、口にしたものといえば、苦味の強い木の根と、安全そうに見えた(情報の構造上、毒の成分が薄かった)数枚の葉っぱだけだ。
極度のカロリー不足で、手足の先から熱が失われ、常に微細な震えが止まらない。
(……限界だ。何か、まともな『肉』を腹に入れないと、今夜の寒さは越えられない)
僕は泥まみれの制服の袖で鼻水を拭い、重い頭を振って意識を覚醒させた。
正面から魔物と戦うなんて絶対に不可能だ。あの赤熊のようなバケモノに見つかれば、一瞬で消し飛ぶ。
僕が狙うべきは、生態系の底辺を這いずる、ウサギやネズミ程度の小動物だけ。
だが、そんな小動物でさえ、この暗い森では俊敏で警戒心が強い。
僕は、割れそうな頭痛を覚悟の上で『識の原典』を薄く開いた。
「……ぐっ、……っ」
眼球の裏側をヤスリで削られるような内的な痛みが走り、視界が情報過多のノイズに染まる。
僕は地面に這いつくばり、落ち葉や苔の表面を睨みつけた。
(……探せ。足跡じゃない。自然の構造が『不自然に崩れている』場所を)
見えすぎる視界が、腐葉土の微細な変化を捉える。
ある一定のラインだけ、苔の繊維が踏み潰されて千切れ、落ち葉の配置が微かに乱れている。
さらに目を凝らせば、その通り道には、獣の体毛から剥がれ落ちた脂の粒子がこびりついていた。
(ここだ。この獣道を通る奴を、罠にかける)
僕は急いで視界のフィルターを閉じ、荒い息を吐きながら準備に取り掛かった。
周囲の木に絡みつく蔓を引き剥がし、再び視界を少しだけ開いて、その『引張強度』と『しなり(弾性力)』の構造を確かめる。
すぐに切れそうな脆い蔓は捨て、最も繊維の密度が高く、強靭なものだけを選び出した。
枝と蔓を組み合わせ、獲物が輪をくぐると弾かれた枝の力で空中に吊り上げられる、古典的な括り罠を作る。
日本のテレビで見た知識だが、蔓の結び目の摩擦係数や、枝の反発力を『識の原典』で観える情報から計算し、物理的に最も効率よく作動するようミリ単位で微調整した。
指先は蔓の繊維で擦り切れ、血が滲んでいる。だが、痛みにかまう余裕なんてなかった。
罠を仕掛けると、僕は風下の藪の中に潜み、泥を顔に塗って匂いを消した。
ひたすらに、待つ。
寒さと飢えで意識が遠のきそうになるのを、自分の太ももをつねって必死に耐え続けた。
数時間後。
ガサッ、と乾いた音が鳴った。
(……来た)
息を殺して隙間から覗き込むと、丸々と太った、頭に一本の角を生やしたウサギのような獣が獣道を歩いていた。
そいつが、僕の仕掛けた蔓の輪に足を踏み入れた瞬間。
バチンッ!
反発力を溜め込んでいた枝が跳ね上がり、強靭な蔓が獣の後ろ足を空高く吊り上げた。
「ギィィィッ! ギャァァァッ!」
鼓膜を刺すような、生々しい獣の悲鳴。
罠にかかった角ウサギは、宙吊りになりながらも凄まじい力で暴れ狂い、角を振り回している。
「……はぁっ、はぁっ……!」
僕は藪から飛び出し、あらかじめ拾っておいた、頭ほどの大きさの尖った石を両手で持ち上げた。
罠にかかったとはいえ、相手は生き物だ。
そしてここはゲームじゃない。
HPゲージがゼロになってアイテムに変わるわけではないのだ。
僕がこの石で、物理的に息の根を止めなければならない。
(……ごめん。本当に、ごめん……っ!)
恐怖で腕が震える。
だが、これを殺さなければ僕が死ぬ。
僕は目を固く閉じ、暴れる獣の頭部をめがけて、全身の体重を乗せて石を振り下ろした。
ゴシャッ、という、骨と肉が砕けるひどく重たい音。
「……っ、……おぇっ……」
手に伝わった生々しい感触と、顔に飛び散った生温かい血の匂いに、胃液が猛烈に込み上げてきた。僕は地面に手をつき、胃の中の空っぽの胃液を吐き出した。
震える手で石を退けると、そこには頭部を潰され、ピクピクと痙攣しながら血の海を広げる角ウサギの死骸があった。
(……殺した。僕が、命を……)
罪悪感と吐き気。
しかし、それ以上に、僕の身体は目の前の「肉」が放つ強烈なタンパク質と血の匂いに、狂おしいほどの飢餓感を刺激されていた。
僕は震える手で、前日に作っていた焚き火の跡から火を起こした。
見よう見まねで鋭い石の破片を使い、温かい死骸の毛皮を剥ぐ。
内臓を傷つけないように慎重に筋肉の構造を切り離す作業も、『識の原典』の視界が残酷なほど正確にナイフ(石)の入れる角度を教えてくれた。
血まみれの手で肉を枝に刺し、火に翳す。
脂が落ち、ジューッという音と共に、焦げた肉の匂いが周囲に立ち込めた。
「……あ、ぐ……っ、あぐっ……」
十分に火が通るのも待てず、僕は半ば生焼けの肉にかぶりついた。
固い。
泥と血と、そして灰の味がする。
地球のどんな料理よりも野蛮で、臭くて、不味い肉だ。
けれど、咀嚼して胃に送り込んだ瞬間、暴力的なまでの「熱」と「カロリー」が、干からびた内臓を満たし、全身の細胞を歓喜させた。
「……う、……うっ、ぐすっ……」
口の周りを血と脂でドロドロにしながら、僕は泣きながら肉を噛みちぎった。
美味しいからじゃない。ただ、これでまた一日、死なずに済むという安堵からだ。
(……できた。僕は、生き延びた……っ)
自分がどんどん地球の「高校生」から、泥まみれの「獣」へと堕ちていく感覚があった。
でも、構うものか。
誰にも脅かされない安全な場所を手に入れるまで、この泥と血を啜ってでも、絶対に生き抜いてみせる。
火の爆ぜる音だけが、血まみれの小さな勝者を静かに照らしていた。
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