第5話 凍える夜
息も絶え絶えに逃げ込んだのは、巨大な樹の根が複雑に絡み合ってできた、土臭い窪みの中だった。
「はぁっ、はぁっ、が、はっ……」
(もう、一歩も、動けない……っ)
肺が燃えるように痛いのに、吐き出す息は白く濁っている。
背後から聞こえていた怪獣映画のような轟音は、いつの間にか遠ざかっていた。しかし安心する暇もなく、森は底冷えのする深い闇へと沈み始めている。
薄っぺらい制服の生地では、暴力的な冷気を防ぐことなどできない。ガタガタと顎が鳴り、指先の感覚が急速に麻痺していく。
(……火だ。火がないと、このままじゃ確実に凍死する……)
震える手で周辺を這い回り、手探りで乾いていそうな落ち葉と手頃な木の枝、それに少し窪みのある木片をかき集めた。
テレビのサバイバル番組で見たうろ覚えの知識。木片に枝を立て、両手で挟んで勢いよく擦り合わせる。
「……っ、くっ、……あ、がっ……!」
滑る。芯がブレる。
摩擦熱が起きるどころか、ささくれ立った枝が手のひらの薄い皮を無情に削り、ジワリと血が滲む痛みが走るだけだ。数分も経たないうちに両手は血まみれになり、絶望的な徒労感が押し寄せてきた。
(……無理だ。どうやっても、火なんて起きない)
闇が濃くなる。冷気が体温を容赦なく奪っていく。
このまま丸くなって、意識を手放せば楽になれるのだろうか。
……いや、だめだ。死にたくない。あんな教室で怯えていただけの人生が、こんなどこのかも分からない森の泥の中で終わるなんて、絶対に嫌だ。
ふと、極限の恐怖の中で、あの少年の言葉が脳裏をよぎった。
『その視点が、あっちの世界でどう役立つか。……楽しみに観させてもらうよ、黒沢 憂』
(……魔法の火の玉なんて、出せるわけがない。でも、この狂った視界を使えば『火が点かない理由』くらいは分かるかもしれない……!)
僕は覚悟を決め、意図的に強固な蓋をしていた認識のフィルターを、恐る恐る少しだけ開いた。
「……ぐ、ああっ、う……っ!」
途端に、眼球の裏側から脳髄を直接鷲掴みにされるような、強烈な情報過多のノイズが襲いかかってきた。激しい頭痛と、胃液が逆流するような内的な吐き気。
しかし、その気が狂いそうな激痛の向こう側で、暗闇に沈んでいた世界が「情報の構造体」として浮かび上がった。
僕は手元の木片と枝、そして自分の手を、ただ「観た」。
すると、さっきまで見えなかったものが視界に飛び込んできた。
(……熱が逃げてるだけじゃない。空気が、摩擦点に届いていないんだ)
僕が枝を無闇に擦った時に生じた微かな摩擦の熱は、木の繊維の粗い隙間からスルスルと逃げている。さらに観察を続けると、もっと奇妙なことに気づいた。
空気中を漂う、微小な未知の粒子。それが、生まれたわずかな熱に触れた瞬間、微かに揺らぎ、熱そのものを一瞬だけ「模倣」し、増幅しようとしていたのだ。
(ただの粒子じゃない。周囲のエネルギーや物質の性質を真似て、成り代わる力があるんだ……!)
しかし、その恩恵は火種にはなっていない。僕の不格好な姿勢と手の動きが、空気と粒子の自然な流れを物理的に遮ってしまっていたからだ。
(ゼロから炎を生み出すような大層なことなんて、僕にできるわけがない。でも、僕が作る『ほんの少しの摩擦熱』を逃がさず、この粒子に『酸素の供給』と『熱の保持』という役割を強制的に押し付ければ……理屈の上では、現象は加速するはずだ!)
脳の処理領域が限界を告げ、猛烈な頭痛で思考が白濁していくのを必死に堪えながら、僕は行動に移した。
血の滲む両手で枝を握り直す。木の繊維が最も摩擦熱を溜め込みやすい角度に合わせ、一定のリズムで擦り合わせる。同時に『識の原典』の視界を通し、自分の地球の知識(燃焼の理屈)を当てはめながら、未知の粒子を摩擦点へと誘導し続けた。
ギリッ、ギリッ、というこれまでの軽い音とは違う、密度のある擦過音。
「……はっ、あ……っ、いけ……っ!」
意識が途切れる寸前。ツン、とした焦げ臭い匂いと共に、木片の窪みに溜まった木の粉から、細い一筋の白い煙が立ち昇った。
(……嘘。本当に、熱が生まれた……!)
僕は震える手で枝を退け、真っ赤に熾った小さな火種を、集めておいた乾燥した落ち葉の束へと慎重に移す。
そして、気流を散らさないように、そっと息を吹きかける。
パチッ、と。
小さな爆ぜる音と共に、オレンジ色の炎が生まれた。
「……あ……ははっ……」
暖かかった。
ただの小さな焚き火。魔法なんて高尚なものじゃない。見えすぎる視界から法則を発見し、僕の知識で現象の辻褄を合わせただけの、ひどく泥臭い生存の証だった。
極度の情報処理による疲労で、視界がぐらぐらと揺れている。頭蓋骨の内側が鈍く痛み、今すぐにでも気絶してしまいそうだ。
ふと視線を上げると、炎の輪の外には、光を一切通さない絶対的な漆黒が口を開けていた。遠くの闇の奥から、名も知らぬ獣の重い咆哮が響く。
――明日の朝、僕は生きているだろうか。
その想像が脳裏をよぎった瞬間、心臓が凍りつき、ガチガチと激しく奥歯が鳴った。冷気からじゃない。圧倒的な死の気配に対する、生物としての根源的な恐怖だ。
このままあの暗闇を見つめていれば、確実に心が折れる。恐怖で発狂してしまう。
僕は弾かれたように視線を落とし、パチパチと爆ぜるオレンジ色の炎だけを凝視した。
血の滲んだ両手を、火に翳す。
(……見ちゃ駄目だ。考えるな。今はただ、この『暖かさ』の対価だけを計算しろ)
教室で他人の顔色を窺い、必死に空気を読んで擦り減らした神経は、僕に何一つもたらさなかった。でも今日、この狂った視界で神経を擦り減らし、世界の法則を繋ぎ合わせたら、この確かな熱が手に入った。
ひどく理不尽で、命懸けの等価交換。けれど、誰かに気を遣って怯えるだけの時間より、ずっとシンプルで嘘がない。
ふふっ、と。
煤と泥にまみれた唇から、乾いた笑いが漏れた。
(……なんだ。周りの空気を読むより、世界の法則を読む方が、よっぽど実入りがいいじゃないか)
恐怖で震えていたはずの奥歯を、強く噛み締める。
誰かの作った『空気』や『常識』なんて、この森では何の意味も持たない。なら、こんな理不尽な泥の中でまで、行儀良く縮こまって死んでたまるか。
(僕は、僕の都合のためだけに、この思考を使ってやる)
どれだけ泥水を啜ろうが、どれだけ非常識だと言われようが知ったことか。
絶対に生き延びてやる。そしていつか、この最悪な泥濘から抜け出して、誰にも脅かされない、快適で安心できる居場所をこの手で必ず作ってやるんだ。
僕は背後に広がる絶望的な暗闇から意図的に意識を切り離し、ひたすらに身勝手で平穏な未来の計画だけを、小さな炎の中に描き続けていた。
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