第4話 生存の死角
丸太のような赤黒い前脚が、僕の頭蓋骨を粉砕しようと振り下ろされる直前。
(……嘘、だよね!?……こんなの、勝てるわけないじゃないか……っ)
引き攣った悲鳴すら喉に張り付いたその瞬間――視界の横から、別の「圧倒的な暴力の質量」が弾け飛んできた。
ズガァァァンッ! と、鼓膜を破るような轟音。
僕の目の前で、軽自動車ほどもある赤熊の巨体が、真横から凄まじい勢いで吹き飛ばされた。
「……え?」
折れた大樹が地響きを立てて倒れ、湿った腐葉土が爆発したように舞い上がる。
そこに姿を現したのは、黒光りする硬質な鱗に覆われた、巨大な四つ足の獣だった。
狼の骨格に爬虫類の装甲を貼り付けたような、異質で恐ろしい造形。
(……冗談じゃない。なんだよ、これ……)
僕という矮小な獲物を巡る、捕食者同士の縄張り争い。
赤熊が怒りに満ちた咆哮を上げ、黒鱗の獣の首筋に牙を立てる。
分厚い肉が裂け、硬質な鱗が砕ける音。
生臭い血の匂いと獣特有のアンモニア臭が、突風となって僕の鼻腔を殴りつけた。
大地が揺れるほどの質量と質量の激突。
僕の狂った視界――『識の原典』は、その致命的なやり取りすらも「筋肉の収縮率」「運動エネルギーの衝突」「鱗の強度の境界線」といった過剰な情報として、強制的に読み取ろうとする。
「……がっ、あ……痛ぇ……っ!」
僕は泥まみれの地面に這いつくばり、頭を抱え込んだ。
脳の処理領域が完全に飽和し、内側から万力で締め上げられるような猛烈な頭痛と吐き気が襲う。
実際に外傷を負っているわけでも、血を流しているわけでもないのに、膨大な情報処理の負荷が、僕の精神力をゴリゴリと削り取っていく。
意識がプツリと途切れそうになるほどの、極限の疲労感。
だが、その「見えすぎる視界」が、絶望的な状況下で唯一の生存ルートを提示した。
二体の化け物が放つ、殺意と警戒のベクトル。
その激しい情報の奔流が交差する中に、ぽっかりと空いた「意識の空白地帯(死角)」が、ひとつの論理的な構造として見えたのだ。
(……今だ。ここしかない……!)
僕は震える手足に鞭を打ち、泥水に顔を突っ込むような低い姿勢のまま這いずった。
二体の魔物が互いの喉笛に食らいつき、致命的な一撃を放とうと全神経を集中させた一瞬の隙。
僕は息を殺し、視界に映る「死角」のベクトルをなぞるようにして、背後の薄暗い茂みへと身体を滑り込ませた。
そこからは、記憶が曖昧だ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
肺が千切れそうに痛い。冷たい空気が刃物のように気管を切り裂く。
枝に頬を打たれ、飛び出た木の根に足をとられて無様に転倒し、掌の皮がズルリと剥けても、立ち止まるという選択肢はなかった。
背後からは、まだ木々をなぎ倒す怪獣映画のような轟音が響いている。
ここは、僕のような人間が立ち入っていい場所じゃない。生態系の頂点にあるバケモノたちが、呼吸をするように殺し合う絶対的な死地だ。
(逃げる……とにかく、遠くへ……!)
口の中に広がる血の味を飲み込みながら、僕は極限まで摩耗した精神を引きずり、陽の当たらない森の深淵をひたすらに逃げ続けた。
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