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第39話 背中の流し合い

 一階の奥にある共同の湯浴み場は、立ち込める白い湯気と、微かに香る薬草の匂いで満ちていた。


 脱衣所に置かれた籠はどれも空っぽで、夕食のピークを過ぎたこの時間は、僕たちの貸し切り状態のようだ。


「うわぁ……! 本当に大きなお風呂だ。魔石ってすごいですね!」


 僕は思わず声を弾ませた。


 石造りの広々とした空間の中央には、大人十人が足を伸ばして入れるほどの巨大な湯船が据えられており、滾々と温かいお湯が注ぎ込まれている。


「おいユウ、はしゃぐな。床が滑るぞ。まずは体の汚れを落としてからだ」


「わかってますよ。……あっ、この備え付けの石鹸、すごくいい匂いがする」


 ノクスの呆れたような声を背中に受けながら、僕は洗い場にしゃがみ込み、木桶でお湯を被った。


 温かいお湯が、森とスラムでこびりついた汚れを心地よく溶かしていく。


(……なんだか、すごく楽しいな)


 元の世界では親しい友達と呼べる存在はおらず、同年代の誰かと一緒にお風呂に入ったり、旅行先の宿ではしゃぐような経験は皆無だった。


 だから今、知り合ったばかりのノクスと隣同士で体を洗っているこの状況が、まるで初めての修学旅行のようで、たまらなくワクワクしている自分がいた。


「ユウ。お前、背中まで手が届いてないぞ。ちょっと貸せ」


 僕が不器用に背中を擦っていると、素早く体を洗い終えたノクスが、石鹸を泡立てた布を持って僕の後ろに回った。


「えっ、あ、ありがとうございます」


「じっとしてろよ」


 ゴシゴシと、少し強めの力で背中を擦られる。

 他人に背中を流してもらうなんて、それこそ物心ついた時以来の体験だ。


「……っ、痛気持ちいい。すごいですねノクス、背中を流すのすごく上手だ」


 僕は純粋な感動のままに、振り返って笑顔でそう伝えた。


「それに、誰かとこうやってお風呂に入って背中を流し合うのって、僕、生まれて初めての経験です。すごく効率的だし、なんだか温かいですね」


 実用面で見ても完璧に汚れが落ちるし、何よりこの「友達とのイベント感」が最高に楽しい。


 今この瞬間の充実感に、自然と声が弾んだ。

 しかし、僕の言葉を聞いたノクスの手が、ピタリと止まった。


「……初めて?」


「ええ、初めてです。こんな風に誰かとお風呂に入ったこともないですし」


 僕が頷くと、ノクスは布を持ったまま固まった。

 その顔には、まるで世界の終わりでも見たかのような、ひどく悲痛な色が浮かんでいる。


(……なんだろう。空気が急に重くなったな)


 僕は彼の手元と自分の背中を交互に見て、ふと、ある極めて重大な物理的事実に思い至った。


 よく考えれば、僕は数ヶ月間、過酷な森でまともな水浴びもせずにサバイバル生活をしていた。

 いくら自分で洗ったとはいえ、ノクスが絶句するのも無理はない。


(なるほど。この布の滑り具合と摩擦係数から推測するに、僕の背中にはまだ信じられない量の垢や泥汚れが層になってこびりついていたんだ)


 清潔感にうるさい都会の剣士からすれば、他人の数ヶ月分の汚れを直に見るのは、さぞかしトラウマものだっただろう。


「すみませんノクス、僕の汚れが酷すぎて引いちゃいましたか? あとは自分でやりますよ。代わりに、僕もノクスの背中を流しますから」


 僕は実利的な埋め合わせをするべく、彼の手から布を受け取って後ろに回った。


 引き締まったノクスの背中には、冒険者としての激しい戦いを物語るような無数の古い傷跡が刻まれていた。


(すごい筋肉密度だ。それにこの傷の形状……斬撃と打撃、それに獣の爪痕まである。これだけの致命傷スレスレのダメージを受けても平然と生存しているなんて、よほど基礎的な防御力と回復力のパラメータが高いんだろうな)


 僕はそんな無駄に高度な分析を行いつつ、彼の背中をゴシゴシと流し始めた。


 ノクスはなぜか一言も発さず、ただじっと下を向いたまま、時折

「……っ」

と小さく肩を震わせていた。


(よしよし、いい反応だ。凝り固まった筋肉がほぐれて、マッサージ効果が的確に効いている証拠だ)


 自分の完璧な恩返しに満足し、十分に汚れを落とし切った後。

 僕はいよいよ、巨大な湯船へと足を踏み入れた。


「ふぁぁぁ……っ、生き返る……!」


 肩までお湯に浸かると、全身の力が抜けていくような至福の感覚に包まれた。


 少し遅れて湯船に入ってきたノクスは、なぜか目元をごしごしと乱暴に拭い、ひどく優しい、それでいてどこか覚悟を決めたような顔で僕の隣に浸かった。


「……ユウ。明日、仕立て屋に行ったら、美味いものでも食いに行くか」


「本当ですか!? 行きます! 絶対に行きます!」


 僕は子供のようにはしゃいで頷いた。

 どうやら、僕の的確なマッサージは彼の心を完全に掴んだらしい。


 機嫌を良くして奢ってくれるというのだから、こんなに美味しい話はない。

 これからの異世界生活も、案外悪くないかもしれない。


 僕は温かいお湯の中で、明日のご飯に思いを馳せながら幸せなため息をついた。

【読者の皆様へ】

誰かがこの物語に目を留めてくださったこと、そして「面白かった」「続きが気になる」と楽しんでいただけることが、今の私にとって何よりの喜びであり、執筆の大きな力になります。

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