第37話 木漏れ日亭
東区は、大通りの喧騒が嘘のように落ち着いた静かな区画だった。
石畳の道を少し進んだ先、温かなオレンジ色の魔石灯が入り口を照らす二階建ての立派な木造建築が見えてきた。
入り口の看板には、素朴な木の彫り込みで文字が書かれている。
「ノクス、ここじゃないですか? バルツさんが言ってた『木漏れ日亭』って」
「……あぁ、そうだな。間違いない。ようやく着いた……」
ノクスが安堵と疲労の入り混じった重い息を吐き、再び胃の辺りをさすっている。その後ろ姿を余所に、僕はさっさと重厚なオーク材の扉を押し開けた。
カラン、と心地よいベルの音が鳴る。
途端に、磨き込まれた木の香りと、食欲を強烈に刺激する肉や香草を煮込んだ匂いがふわりと全身を包み込んだ。
広々とした一階は食堂を兼ねており、暖炉の中でパチパチとはぜる薪の音が、なんとも言えない安心感を醸し出している。
「いらっしゃい! 食事かい? それともお泊まり?」
カウンターの奥から、ふくよかで愛嬌のある女性が声をかけてきた。
年齢は四十代ほどだろうか。
頭に真っ白な三角巾を被り、エプロン姿で木製のジョッキを磨いている彼女が、この宿の女将さんのようだ。
「……宿泊と、食事を頼みたい。衛兵のバルツの紹介で来た。オレは冒険者のノクス、こっちは連れのユウだ」
ノクスが名乗ると、女将さんはパッと顔を輝かせた。
「ああ、弟の! それなら大歓迎だよ。私はここの女将のマーサ。バルツの紹介なら、一番広くて日当たりのいい角部屋を安く手配してあげる。……おや?」
マーサさんは宿帳に羽ペンを走らせながら、カウンターから身を乗り出し、ノクスの隣に立つ僕をまじまじと見つめた。
「ユウ君って言ったね。随分と肌が白いけど、具合でも悪いのかい? それにその服……」
彼女の視線が、僕がマントの下に着ている『複数の魔獣の毛皮をツギハギした手作りの服』でピタリと止まり、わずかに頬を引きつらせた。
(なんだろう。僕の自作のサバイバル服がそんなに珍しいのかな。まあ、機能性重視で適当に縫い合わせただけだから、お洒落ではないことは自覚しているけど)
「具合は悪くありませんよ。服は……その、少し事情があって作った手作りの防寒着でして。明日、仕立て屋でまともなものを買う予定です」
僕が丁寧な口調で答えると、マーサさんは何度か瞬きをした後、「そうかいそうかい」と優しく微笑んでくれた。
「こんな小さいのに、いろいろと大変だったんだろうねぇ。ゆっくり休んでいきな。部屋の鍵はこれだよ。夕食はもうできるから、そこの空いてる席に座って待ってなさい」
「ありがとうございます、マーサさん」
僕たちは木札のついた鍵を受け取り、暖炉に近いテーブル席に腰を下ろした。
やがて、マーサさんが湯気を立てる大きな木のトレイを運んできた。テーブルに並べられたのは、ゴロゴロとした根菜と柔らかな肉のシチュー、ふかふかに焼き上がった白パン、そして彩り鮮やかな果実の盛り合わせ。
(……これだ。僕がずっと求めていた、文化的な食事だ)
僕はスプーンを手に取り、まずはシチューを一口掬って口に運んだ。
その瞬間、舌の上に広がったのは、塩気と香草の複雑な旨味、そしてじっくりと煮込まれた肉の甘みだった。
森でのサバイバル生活で口にしていたのは、血抜きも甘く、塩もスパイスもないただの「焼いた肉」だけだ。それに比べて、このシチューのなんと奥深く、優しいことか。
「……美味しい」
自然と声が漏れた。
僕は無言のまま、ちぎった白パンをシチューに浸し、次々と胃袋へと流し込んでいく。
「おい、そんなに急いで食わなくても誰も取らないぞ。喉に詰まらせるなよ」
向かいの席から声がして顔を上げると、ノクスがひどく同情的な目で僕を見つめていた。
(なんだその目は。まさか、僕の皿の肉まで狙っているのか?)
僕は思わず自分のシチュー皿を手元に引き寄せた。
冗談じゃない。いくら道中お世話になったとはいえ、この絶品の肉だけは絶対に譲らないぞ。
自分の分が目の前にあるだろうに、相変わらず食い意地の張った失礼な剣士だ。
「急いでなんかいませんよ。ただ、このシチューが絶品なだけです。ノクスも、自分の分が冷めないうちに早く食べた方がいいですよ」
「……あ、ああ。そうだな」
僕が牽制するように言うと、ノクスはなぜかさらに悲しそうな顔をして、ゆっくりとスプーンを動かし始めた。
他人の食事を狙うのを諦めて少し落ち込んでいるのかもしれないが、ここは心を鬼にするべきだ。僕はノクスの様子を綺麗にスルーし、最後の一滴まで皿を完璧に平らげ、深く満足の息を吐いた。
食欲が満たされると、次に気になってくるのは体の汚れだ。
これなら、食後の湯浴みとふかふかのベッドへの期待もいやが上にも高まるというものだ。
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