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第36話 宿の宛て

 詰所の小さな窓から差し込む光が、いつの間にか濃い茜色に変わっていた。


 外の通りからは、家路を急ぐ人々の足音や、夕食の準備をする香ばしい匂いが微かに漂ってくる。どうやら、すっかり夕暮れ時になってしまったようだ。


 僕は空になった陶器のカップを机に置き、長椅子でぐったりしている灰色の髪の剣士に声をかけた。


 「そういえば、今夜の宿の宛てはあるんですか、ノクス?」


 ノクスは深い疲労を滲ませながら、重いため息を吐いた。


 「……オレが普段使っている定宿は、血の匂いが染み付いた荒くれ者ばかりで治安が悪い。お前を連れて行くわけにはいかないだろう。だが、この時間からまともで安全な宿を探すとなると、どこも満室で厳しいかもしれないな……」


 「おや、そういう事情なら、俺の紹介でどうだ?」


 僕らの会話を聞いていた恰幅の良い衛兵が、人の良さそうな笑顔で会話に加わってきた。


 「東区にある『木漏れ日亭(こもれびてい)』という宿に行くといい。俺の姉が女将をやっているんだ。俺の名前……バルツの紹介だと言えば、一番良い部屋を安く手配してくれるはずだ。飯も美味いし、治安も俺が保証するぞ」


 (迷子の手配をしてくれた上に、優良な宿のコネまで提供してくれるなんて。なんて手厚いサポートなんだ)


 僕は内心でバルツさんのホスピタリティに深く感心した。


 ここは一つ、気の利いた大人としてスマートにチップを渡すべきだろう。そう思い、懐に手をやろうとして――僕はハッと気がついた。


 (……僕、一文無しじゃないか)


 よく考えれば、森から帰る道中で僕たちが協力して狩った魔獣の素材――その売却金は、この世界の通貨の価値がよく分からないからという理由で、全部ノクスに預けっぱなしだった。


 僕は異世界に来てから、硬貨の一枚すらこの手で触ったことがない。


 このままうやむやにされれば、僕の取り分が、いつの間にかノクスの「保護者としての共通財布」に吸収されてしまうかもしれない。僕の今後の美味しいご飯とふかふかのベッドの資金が危ない。


 僕はコホンと小さく咳払いをして、ノクスに向かって少しばかり恩着せがましいトーンで言った。


 「ノクス。バルツさんには僕の顔を立てて、チップを多めに渡しておいてください。支払いは、僕の分の素材の売上から引いておいて構いませんから」


 よし。これで僕がお金の権利を持っていることを周囲にアピールできた。さらに念押しだ。


 「……あ、もちろん、僕の取り分はちゃんと計算して残してありますよね?」


 「は……?」


 ノクスが、信じられないものを見るような顔で僕を凝視した。


 その直後、バルツさんの目の色がスッと冷たいものに変わった。


 「おい、ノクス……。お前まさか、この子が森で命がけで手に入れた素材の金を、自分が管理しているのか?」


 「えっ、いや、それは……」


 「まさかとは思うが。保護したばかりの子供の稼ぎを、自分の懐に入れて搾取しているわけじゃあないだろうな?」


 バルツさんの声が、先ほどの親切なおじさんのそれから、街の治安を守る厳しい法の番人のトーンへと一段階下がった。


 他の衛兵たちも、一斉にノクスへ疑惑の目を向ける。


 「ち、違う! 誤解だバルツ! 森から帰る道中、二人で協力して狩った魔獣の金だぞ! こいつがまだこの街の通貨に慣れてないって言うから、こいつの取り分もきっちり分けて預かっているだけだ! オレは一銭もかすめ取ったりしてない!」


 「ほう? なら、なぜこの子は『自分の取り分が残っているか』などと不安そうに尋ねたんだ?」


 「知るか! オレが聞きたいくらいだ!!」


 ノクスが悲鳴のような声を上げ、深い疲労と頭痛を堪えるように、眉間を指で強く揉みほぐした。


 「なら安心です。今後の生活費は大事ですからね」


 「お前はもう喋るな……!」


 僕は満足げに頷き、ノクスは心底げっそりとした顔で僕を睨みつけた。


 結局、バルツさんは「もし金をごまかされたら、すぐに俺たちのところへ言いに来なさい」と僕に優しく声をかけ、ノクスにはねっとりとした監視の目を向けながら、宿への簡単な地図を書いて渡してくれた。


 詰所の扉を開けると、街はすっかり夜の帳が下りようとしていた。


 冷たい夜風が頬を撫でる中、僕は足取りも軽く、大きなため息をつきながら重い足取りを引きずるノクスの背中を追って、東区の宿屋へと向かった。



【読者の皆様へ】

誰かがこの物語に目を留めてくださったこと、そして「面白かった」「続きが気になる」と楽しんでいただけることが、今の私にとって何よりの喜びであり、執筆の大きな力になります。

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