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第32話 リオンの頼み事

 氷のように冷たい天然水を一気に飲み干した僕に対し、灰茶色の髪の少年は、欠けた木製のコップと僕の顔を何度も交互に見比べていた。


 「俺は、リオン。リオン・ハーベルだ」


 やがて、彼は路地裏で見せたようなギラギラとした、それでいて腹を括ったような強い視線を僕に向けて名乗った。


 没落したとはいえ、その背筋の伸び方や言葉の響きには、かつての貴族としての矜持の欠片が残っているように見えた。


 「あんた……名前は?」


 「ユウです。しがない旅の者ですよ」


 「しがない旅の者が、無詠唱であんなデタラメな魔法を使えるかよ。なあ、ユウ。俺に魔法を教えてくれ」


 リオンは身を乗り出し、机の上に両手をついた。


 神にすがるような弱々しい態度ではない。泥水の中から這い上がり、二度と誰にも踏みにじられないための力を渇望する、強かな目だ。


 「さっきの連中みたいに、権力も力もない奴はやられっぱなしだ。俺はあいつらを見返してやりたい。理不尽に虐げられないための力が欲しいんだ! この街の裏道でも、安い情報屋でも、あんたの手足になってなんでもやる。だから……!」


 (……手足になってなんでもやる。それは、少し魅力的な提案だな)


 僕は内心で少しだけ心が揺れた。


 この入り組んだ街で「専属の現地ガイド」が手に入るなら、今後美味しいお店を探すのにも苦労しないし、これ以上ノクスが迷子になって僕が探し回る手間も省ける。非常にコスパがいい。


 だが、問題は『対価』だ。


 (魔法を教える? 無理に決まっている)


 僕は極めて冷静に自分の手札を評価した。


 現状、僕が魔法を使えるのは『識の原典(アーキタイプ)』を使って、世界の構造を情報として捉えられているからだ。


 マナに理屈を模倣させるための『方程式』を頭の中で組み上げること自体は、別に『識の原典(アーキタイプ)』がなくてもできる。


 だが、その構築過程において、実際に方程式がどう機能しているか、マナがどう干渉しているかを正確に読み取ることができなければ、何が「正解」なのか分からないまま、構築の途中で行き詰まってしまうだろう。


 その正解を確認するための観測ツールとして、僕には『識の原典(アーキタイプ)』が不可欠なのだ。


 ノクスのように、この世界の住人の中にも体内のマナの流れを感覚で読み取れる人間はいるらしいが、その正確性は『識の原典(アーキタイプ)』には到底及ばないだろう。


 そもそもこれ自体、究極的に言えば特殊な魔法の能力などではなく、単に「固定観念のフィルターを外し、極めて高い抽象度で物事を捉える」というだけのことだ。


 だが、そんな極致とも言える感覚的な精神論を他人に教えて、ホイホイできるようになるわけがない。


 「……悪いですが、お断りします」


 僕は努めて冷静な、底知れない魔導師を装った静かな声で答えた。


 「僕の魔法は、人に教えられて身につくような安い構造をしていないんです。あなたにはあなたの、別のやり方があるはずだ」


 「っ……! そ、そこをなんとか! 俺にはあんたしか……」


 リオンが食い下がる。その必死な顔を見ていると、少しだけ居心地が悪くなってきた。


 このまま断り続けても時間が無駄になるだけだ。早く宿を決めて、ふかふかのベッドで横になりたい。


 その時、僕の脳裏にある人物の整った顔立ちが閃いた。


 (……そうだ。適任者がいるじゃないか)


 面倒見が良くて、実力があって、今ちょうど僕が探さなければならない迷子の大人が。


 「リオン。僕が直接教えることは絶対に不可能です。……ですが、僕よりも遥かに『凄い人』を紹介することならできますよ」


 「えっ……? あんたより、凄い人?」


 リオンの目が、驚きに大きく見開かれる。


 「ええ。僕なんかよりずっと経験豊富で、過酷な森を生き抜く“基礎”を完璧に修めている、本物のプロフェッショナルです。彼は『Bランク』の冒険者なんですが、とても面倒見のいい人でしてね」


 嘘は一つも言っていない。


 ノクスは間違いなく僕よりこの世界に詳しいし、実力派の『Bランク』冒険者だ。魔法のことは分からないが、彼なら「冒険者としての生き方」や「戦いの基礎」くらいは、この強かな少年に叩き込んでくれるかもしれない。


 何より、僕の肩から「リオンの相手をする」という面倒なタスクが完全に降りる。まさに完璧な采配だ。


 「『Bランク』冒険者……あんたほどの人がそこまで言うなら、一体どれだけの……」


 リオンはごくりと唾を飲み込み、何か途方もない存在を想像しているのか、少しだけ顔を青ざめさせて震えていた。


 「そういうわけなので、少しここで待っていてください。後日また、僕がその人を連れてきますから」


 「あ、ああ……! 恩に着る、ユウ!」


 目を輝かせるリオンに軽く手を上げ、僕はボロ小屋の扉を開けた。


 さて、あの迷子の戦士は、どの辺りを彷徨っているのだろうか。


 早く見つけて、この厄介事――いや、未来の弟子をプレゼントしてあげよう。


 僕は足取りも軽く、再び街の喧騒の中へと戻っていった。


【読者の皆様へ】

誰かがこの物語に目を留めてくださったこと、そして「面白かった」「続きが気になる」と楽しんでいただけることが、今の私にとって何よりの喜びであり、執筆の大きな力になります。

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