第3話 血濡れた毛皮
地面に突っ伏したまま、僕は激しい目眩と戦っていた。
「……うっ、……はぁ、はぁ……っ」
視界に飛び込んでくる情報量が、常軌を逸している。
鼻をつく腐葉土の匂いは、ただの悪臭ではなく「微生物による分解と発酵のプロセス」として。肌を刺す冷気は「大気中の熱量の著しい欠如」として。
僕の意図とは無関係に、世界のあらゆる構造が過剰な解像度をもって脳に叩き込まれてくる。
実際に頭から血を流しているわけでも、脳髄が物理的に焼けているわけでもない。
しかし、巨大な図書館の蔵書を一度に無理やり読み込まされているような、致命的な処理能力の飽和。
凄まじい精神的疲労と内的な頭痛が、僕の思考力をゴリゴリと削り取っていく。
(……冗談じゃない。なんだよ、これ……)
僕は両手で頭を抱え込んだ。
あの少年に触れられてから、僕の「世界を観る視点」は完全おかしくなってしまった。
人間が生きていく上で無意識に切り捨てている背景情報が、すべて主役級のデータとして脳を埋め尽くそうとする。
(見ちゃ駄目だ。……これは、ただの土。あれは、ただの木。それ以上でも以下でもない……!)
震える唇で、自分に言い聞かせるように念じる。
地球で十数年培ってきた「常識」という名の強固な概念を無理やり被せ、見えすぎる視界のピントを意図的にぼかしていく。
凄まじい集中力と精神力を消費する作業だった。
内的な疲労で意識が白濁しそうになるのを必死に堪えていると、やがてチカチカと明滅していた過剰な情報群が後退し、ようやく「薄暗い森の景色」という最低限の認識へと落ち着いた。
「……はぁっ、……なんとか、なった……?」
荒い息を吐きながら、ゆっくりと顔を上げる。
見上げるほど巨大な針葉樹。陽の光さえ届かない、深い森の底。
ただの高校生である僕が、制服一枚で放り出されていい安全な場所ではないことだけは、情報として読み取らなくても理解できた。
その時だった。
――ズシン、ズシン。
背後の茂みの奥で、重い質量が落ち葉を踏み砕く音が響いた。
(……えっ?)
息が止まる。
振り返るべきではないと防衛本能が全力で警告しているのに、恐怖で首が勝手に動いてしまった。
薄暗い木立の向こうから現れたのは、巨大な獣だった。
見上げるような巨体に、まるでたっぷりと血を吸ったかのように赤黒い体毛。
熊に似ているが、地球の動物園で見たそれとは明らかに骨格の構造が違う。
かろうじてピントをぼかしていたはずの僕の視界が、相手の持つ圧倒的な『暴力の構造』を勝手に読み取ろうとしてしまう。
分厚い筋肉の繊維。呼吸と共に吐き出される、むせ返るような獣の熱量。そして、僕という存在を明確な「獲物」として認識した、捕食者としての冷酷な論理。
(……嘘、だよね!?……あんなの、勝てるわけないじゃないか……っ)
どうして初期地点(スタート地点)が、こんな生態系の頂点みたいなボスの目の前なんだよ。どうせなら、『無敵バリア』とか『一撃必殺』みたいな、分かりやすくて痛快なチートスキルをくれよ!
この『識の原典』とかいう見えすぎる視点は、僕の精神力をゴリゴリ削り取るだけで、物理的な防御力なんて一ミリも上げてくれない。序盤から外せない『呪いの装備』を押し付けられたようなものじゃないか。
目が合った瞬間。赤い熊が低く唸り、丸太のような前足を振り上げた。
「あ、あの! なんだかすごくご機嫌斜めみたいなので、お邪魔な僕はこれで失礼しま――」
ドォォォンッ!
挨拶もそこそこに、僕が数秒前までいた場所の地面が、丸太のような腕で粉々にえぐり取られた。
「ひっ、あ……!? 無理無理無理無理っ!」
喉から引き攣った悲鳴が漏れる。
僕は這いつくばるようにして立ち上がり、泥まみれのローファーで、道すらない森の奥へと無我夢中で駆け出した。
「お邪魔しましたぁぁぁっ! 追ってこないで、僕絶対美味しくないからぁぁぁーーっ!」
息が続かない。飛び出た木の根に足をとられ、無様に転んでは起き上がる。
ただひたすらに、背後に迫る理不尽な死から逃げるため、僕は涙目で情けないセリフを撒き散らしながら、薄暗い森を逃げ続けた。
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