第19話 言葉
連続投稿3話目
灰髪の青年がこの洞穴に来てから、数日が過ぎた。
彼の回復力は、僕の予想を遥かに……いや、生物学的な常識を上回っていた。
僕の素人看病や薬草の効果もあっただろうけど、やはり極限まで鍛え抜かれた肉体そのものが持つ「生命の理」が狂っているとしか思えない。
最初は寝たきりだった青年も、今では洞穴の中をゆっくりと歩き回れるまでになっていた。
……それはいい。早く治って出て行ってくれる分には大歓迎だ。問題はその「回復したエネルギー」の矛先が、すべて僕に向けられていることだ。
「ーーー」
焚き火のそばで、青年が僕を呼んだ。
いや、名前も知らないから呼ばれたのかどうかも怪しいけれど、明らかに僕の方を見ている。
僕が渋々視線を向けると、青年は自分の分厚い胸板を指差し、はっきりとした口調で言った。
「ノクス」
(……あ、それ自分の名前だったんだ。知ってるよ、前も熱にうなされながら連発してたし)
僕は心の中で毒づきながら、適当に頷いた。
するとノクスと名乗った青年は、今度は僕を指差して、期待に満ちた熱い目でこちらを見つめてくる。
(……え、何? 僕の名前を言えってこと? 教えるわけないでしょ。異世界で不用意に本名を名乗ると、呪いをかけられたり奴隷契約させられたりするって相場が決まってるんだ。個人情報は大事だよ)
僕は無言で焚き火を弄った。
するとノクスは、僕が「自分の名前すら忘れてしまった可哀想な野生児」だとでも思ったのか、さらに悲しげな……いや、慈愛に満ちたような、ひどくお節介な顔をして身を乗り出してきた。
「ーーー。ーーー」
ノクスは僕のすぐ側で燃える、焚き火を指差す。
「ヒィ、ト」
(……火。だよね。見ればわかるよ)
「ヒィ、ト」
ノクスは何度も繰り返す。どうやら僕に復唱させたいらしい。
(……何これ。もしかして、言葉を教えてるつもり? 僕に?)
凄まじい衝撃だった。
この野蛮な世界の住人は、僕のことを「言葉も喋れない哀れなバカ(あるいは獣)」だと思っているらしい。
僕はこれでも日本の進学校に通っていたし、今だって世界の構造を読み解く『識の原典』を駆使してこの理不尽な森を支配している。そんな僕に、一歳児に言葉を教えるような真似を……!
僕は呆れ果てて、深々と溜息をついた。
それを見たノクスは、僕が「難しい発音に悩んで苦しんでいる」と都合よく解釈したのか、さらにゆっくりと、噛み締めるように言った。
「ヒィ……ト……」
(しつこい! 分かったよ、言えば満足なんでしょ!)
あまりにしつこいので、僕は適当にあしらうために投げやりに応じた。
「ヒィト」
「ーーーッ!! ーーー、ーーー!!」
その瞬間、ノクスは弾かれたように立ち上がった。
(直後、折れた肋骨に響いたのか「ぐふっ」と悶絶してうずくまっていたが)。
ノクスは涙ぐみながら、自分のことのように大喜びして、何度も何度も僕の肩を叩こうとして――僕が「殴られる!」と咄嗟に避けると、空振った手を気まずそうに引っ込め、それでも親指を立てて満面の笑みを浮かべた。
(……うわぁ、引く。そんなに喜ぶこと? 痛めつけながら笑うなんて、サイコパスすぎて怖すぎるんだけど……)
さらにノクスの「教育」はエスカレートした。
次は水。次は干し肉。次は毛皮。
ノクスは洞穴にあるあらゆる物を指差し、そのたびに僕に復唱を求めてくる。
「ア、ヴァ」
「アヴァ(水、だろ。もういいよ……)」
「ーーーッ! ーーー!!」
(……何なんだろう、この過剰な反応。もしかして、この男は『言葉の教育』を施すことで、僕を洗脳して手なずけようとしてるんじゃ……?)
「餌」を与えられ、名前(言葉)を教え込まれる。
それはまさに、野生動物をペットや家畜へと調教していくプロセスそのものに思えた。
この青年は、力で僕を屈服させるのではなく、もっと狡猾な手段――「親切な保護者」という仮面を被って、僕の精神を支配しようとしているのかもしれない。
(……恐ろしい人だ。野蛮な戦闘民族なだけじゃなく、こんな高度な心理戦まで仕掛けてくるなんて)
僕はノクスの笑顔の裏にある(と僕が勝手に想定した)深謀遠慮に戦慄しながら、彼が差し出す「アヴァ(水)」を、これでもかと警戒しながら受け取った。
ノクスは僕が言葉を覚えるたびに、誇らしげに、そしてどこか不憫なものを見るような熱い目で僕を見つめてくる。
その視線が、今の僕にはどんな魔物の牙よりも不気味で恐ろしく感じられた。
(……適当に合わせて、油断させなきゃ。でも、あんまり懐いたふりをして、街に連れて行かれて奴隷として売られたりしたらおしまいだ。……絶対に、こいつにだけは本性を見せないぞ)
僕は心の中で固く決意し、ノクスの「ヒィト」という声に合わせて、最高にやる気のない声で復唱を繰り返すのだった。
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