第10話 泥の玉座
あの巨大な黒刃の甲獣を殺してから、どれだけの季節が巡ったのか。
森の景色は幾度も色を変えたが、空を覆い隠す巨大な針葉樹の天蓋だけは、常に変わらず薄暗い影を落とし続けていた。
「……ふぅ。今日も、平和なもんだ」
僕は巨木の根元にぽっかりと空いた洞穴の前で、手製の木の実の茶を啜った。
洞穴の入り口に近づいてきた四つ目の狼の群れが、僕の姿を見るなりビクッと硬直し、悲鳴のような鳴き声を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
僕が今纏っているのは、幾重にも継ぎ接ぎされた異形の獣たちの毛皮だ。
血と泥に塗れ、森の陰惨な気配を煮詰めたような悪臭を放っている。
そして何より、僕の右手には、あの甲獣から奪い取った身長ほどの『黒鎌』が握られている。
太陽の光を浴びない青白い肌と、一切の感情を削ぎ落とした黒い瞳。
この森の一般的な魔物たちにとって、今の僕は完全に「出会えば殺される理不尽な捕食者」として認識されていた。
(……まあ、無駄な戦闘を避けられるのはありがたいけど)
僕は立ち上がり、自らの住処――洞穴の中へと戻る。
そこは入口の見た目からは想像できないほどに快適に整えられた空間であった。
壁面は滑らかな石材のようにコーティングされ、冷気を完全に遮断している。
床には地面の温度を逃がさない構造の石のベッド。
そして、部屋の奥で燃える焚き火の煙は、微小な気圧の差を利用した見えない『風の道』を通って、天井の隙間から外へと完璧に排気されていた。
(……『識の原典』と、この粒子の応用。本当に便利だ)
僕は焚き火の前に座り、空間を漂う粒子を視界に捉える。
最初は苦労したが、今ではコツと慣れにより『識の原典』を常時発動し、粒子の流れを誘導する程度なら反動なしに行えるようになっている。
あの甲獣との死闘や、日々の泥臭いサバイバルを経て、僕は例の粒子の存在について徹底的に研鑽を重ねた。
その結果分かったことがある。
あれは、あらゆる物質やエネルギーの性質を極めて柔軟に『模倣・代替』できる万能の粒子であるということだ。
ただ大雑把に念じるだけではない。
僕が死に物狂いで構築した『理の方程式(術式)』の通りに粒子に役割を与えれば、自然界の物理法則に干渉できる。
大気中の粒子を束ねて土の隙間に流し込み、結合を強めて岩のように固める、あるいは摩擦係数を奪って泥濘に変える(土壌操作のベース)。
温度差のある空気に粒子を噛み合わせ、気流の向きを強制的にねじ曲げる(風向操作のベース)。
(でも……万能じゃない。絶対に越えられない『壁』がある)
僕は傍らに転がっていた、狩ったばかりの角ウサギの死骸を見つめた。
ある時、僕は恐ろしい考えに至った。
『生きた獲物の心臓の動きを直接粒子で止める』あるいは『死肉の時間を巻き戻す』ことができるのではないかと。
しかし、その試みは最悪の形で失敗した。
生きた獲物の命に直接粒子を介入させようとした瞬間。
僕の構築した『理の方程式』は、『識の原典』ですら捉えきれない強大な力――「世界の理」そのものによって弾き飛ばされたのだ。
――世界の拒絶。
生命という強固な意思を持つ領域や、不可逆の時間。
それらは、僕のような人間が直接的にいじれるほど安い構造ではなかった。
暴走した粒子が逆流し、僕は目と鼻から血を噴き出して三日間生死の境を彷徨う羽目になった。
甲獣の時は恐らく命に直接干渉するのではなく、肉体の一部に、しかも奴自身の力を使って理論的に反動を導いたことでギリギリ世界が許可してくれたんだと思う。
そう考えると本当に運が良かった。
(……僕にできるのは、あくまで『自分の外側にある誰かの意思が強く介入されてない状態の環境(物理法則)』を乗っ取り、間接的に現象を起こすことだけ。直接命を奪うには、結局こいつで斬り裂くしかない)
僕は傍らに立てかけた黒鎌の滑らかな刃を、ぼろ布で静かに磨く。
魔法による快適な空間の構築。
圧倒的な暴力を内包した黒鎌。
そして、
【世界に許容される範囲内での理の設定】
【構築した理に対する相手の防衛もしくは警戒心が弱く】
【粒子の流れを誘導できる】
という3つの条件を揃えることでのみ相手にクリティカルヒットする
『確実で残酷な攻略法』。
これらを駆使することで、僕はついにこの過酷な森で、絶対に誰にも脅かされない「安全な自分の居場所」を手に入れたのだ。
パチッ、と焚き火が爆ぜる。
暖かく、居心地の良い泥の城。
だが、そこにあるのは圧倒的な孤独だけだった。
独り言に返事をしてくれる者は誰もいない。
話し方を忘れそうになるほど、長い長い沈黙の月日。
(……ずっと、ここで生きていくのかな、僕は)
青白い顔を炎の揺らめきに照らされながら、僕はツギハギの毛皮を深く被り直した。
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