2話 小さな少女と大きな呪い
小さなリリィの手を握り、俺たちは草原を抜け、木々の立ち並ぶ森へと足を踏み入れた。
「うわあ……すっごく高い木!」
隣で無邪気に声を上げるリリィを見て、胸の奥にあった緊張が、少しだけほどける。
初めての場所は、どうしても身構えてしまう。
だが、彼女の笑顔は、不思議とそれを忘れさせてくれた。
「俺も、こんな森の中を歩くのは初めてだな」
「えへへ! この世界には、もっともっと色んな場所があるんだよ! 星が咲く花畑とか、緑色の海とか!」
楽しそうに語るその横顔は、年相応の少女そのものだった。
――けれど。
その言葉の端々で、ほんの一瞬、声が詰まる。
見逃さなければ気づかないほどの、かすかな違和感。
「……リリィ。さっき言ってた“呪い”って、それと関係あるのか?」
問いかけると、彼女は一瞬だけ俯き、そしてすぐに顔を上げた。
覚悟を決めたように、真っ直ぐこちらを見る。
「私にかけられた呪いはね。“レジストラート”っていうの。人に、記憶されなくなる呪い」
胸の奥が、ひどく嫌な音を立てた。
「発動までの時間は、その人との思い出とか、気持ちで変わるけど……長くても一日。そうしたら、みんな、私のことを忘れちゃう」
静かな声。
それが、余計に痛かった。
どれほどの別れを、この小さな背中は背負ってきたのだろう。
何度、名前を呼ばれなくなったのだろう。
「……ごめん。言いたくないこと、聞いたな」
「ううん。イブには、全部知っててほしいの」
迷いのない瞳。
どうしてここまで信頼されているのか。
なぜ、俺だけが忘れないのか。
分からないことだらけなのに――その言葉は、胸の奥に、温かく沈んだ。
「呪いを解く方法は?」
「本にはね。術者が解除するか、強制解除って書いてあった」
「強制解除……」
それが意味するものを、口に出すまでもない。
問題は、術者が誰で、どれほどの力を持っているか。
自慢じゃないが、俺はミスティア・オンラインで一度も死んだことがない。
知識も経験も、誰にも負ける気はしなかった。
――だが。
あくまでここは、ゲームじゃない。
その事実が、胸の奥に、重く沈んだままだった。
―――――――――
それから、二時間ほど歩いただろうか。
じわじわと溜まっていく足の疲労が、ここが現実であることを、嫌というほど実感させる。
「リリィ、疲れてないか?」
「ぜーんぜん! すっごく楽しいもん!」
その元気さに、思わず笑ってしまう。
天真爛漫、という言葉がこれほど似合う子もいないだろう。
――その時。
ドン、と小さな衝撃。
前を歩いていたリリィが、急に立ち止まったのだ。
「いてて……どうした?」
「イブ……あれ」
指差す先には、大きな荷車と、その前で立ち尽くす青年の姿があった。
「商人かな。困ってそうだし、行ってみよう」
リリィは、ほんの一瞬だけためらった後、こくりと頷き、俺の手を握った。
――呪いのせい、か。
だが、発動条件を知るためにも、避けては通れない。
「どうしました?」
声をかけると、青年は振り返り、苦笑する。
「いやー、タイヤがパンクしちまって。非力なもんで、難儀してたんですわ」
「俺たちも手伝いますよ」
「えっ、いいんですかい?」
「困ったときはお互い様です」
荷車を傾けるだけの簡単な手伝いだったので、作業は自体はすぐに終わった。
「いやぁ、本当に助かりました!」
青年はそう言うと、荷台から袋包みを二つ取り出し、差し出してくる。
「大したもんじゃないっすけど、良かったら、これ。お嬢さんも」
「あ……このパン……」
リリィの目が、ぱっと輝いた。
思わず見惚れるほどの、無邪気な笑顔。
「ありがとうございます」
二人で礼を言うと、青年は照れくさそうに笑った。
特に、異変は起きなかった。
呪いの前兆も、違和感も、何もない。
……あ
「あっ、すみません。街の場所、教えてもらってもいいですか?」
「街ですかい? ここを北に行けば、ハーモンドって街がありまっせ。人族も多いし、歓迎されると思いますわ」
「ありがとう。助かるよ」
礼を言った、その時。
青年の視線が、ふとリリィの方へと向いた。
――そして。
「ところで旦那。この子は、いつの間に現れたんすか?」
心臓が、跳ねた。
「……え?」
「さっきまで、ここに誰もいなかったような気がして」
俺が言葉を失うより早く、リリィが俺の腕を、ぎゅっと掴む。
その指は、震えていた。
「……いや、なんでもない。道案内、ありがとう」
無理やりそう言って、その場を離れる。
しばらく歩いてから、リリィが小さく呟いた。
「あれが、私の呪い」
声が、かすれている。
「接している間は、覚えていてくれるの。でも……繋がりが切れた瞬間、忘れられちゃう。ひどい時は、話してる途中で、急に……」
言葉が、途切れる。
俺は、何も言えなかった。
ただ、その小さな手を、強く握り返すことしかできなかった。
誰が。
何のために。
こんな、残酷な呪いを。
胸の奥に、静かな怒りが灯る。
――必ず、解く。
この子が、誰かに忘れられる世界なんて。
俺が、許すはずがない。




