禁忌の香気:魔導観測塔の夜
夜が、静かに泡立ちはじめていた。
王都ヴァレンティヌスの中心にそびえる魔導観測塔――その最上階。
白磁の壁に囲まれた部屋の中央には、直径十メートルほどの結晶盤が据えられている。
普段ならば、淡く脈打つだけの冷たい光。
だが今宵、その光は不気味に震えていた。
結晶の表面に、泡が――湧いている。
微細な、呼吸のような泡。
それが次々と生まれては弾け、まるで何かが“生き返る”ように盤面を脈動させていた。
研究官たちは息を呑む。
記録水晶が異常な速さで点滅し、室内のランプが不規則に明滅する。
冷え切っていたはずの空気が、じわりと温もりを帯びはじめた。
誰かが小さく呟く。
「……甘い匂いが、する。」
香りなど、あるはずがない。
魔素は目に見えぬ流れであり、匂いを持たぬものだ。
だが確かに、鼻腔をくすぐるのは――
かすかに果実を潰したような、懐かしい“発酵の気配”。
研究官A:「……記録異常!? 魔素反応が発酵波形を示しています!」
研究官B:「そんなはずは……! 発酵魔法は百年前に封印されたはずだ!」
声が重なり、塔の空気がざわめく。
誰もが理解していた。
これは、ただの異常ではない。
封印の向こう――死んだはずの“命の循環”が、再び息を吹き返している。
窓の外では、雪が静かに舞っていた。
白い夜の底、王都はまだ眠っている。
だがその静寂の奥で、世界がひとつ、泡立ちを始めていた。
主任研究官の指が、震えていた。
観測装置の脇に並ぶ符号盤が次々と点滅し、白い光が絡み合う。
結晶盤に刻まれた魔素流の線が、複雑に交錯し――やがて、一点で止まった。
淡い赤が、じわりと広がる。
それはまるで、血管を逆流するように地図を染め、北部の果て――雪深き辺境に辿り着く。
主任研究官は息を飲み、低く呟いた。
「……反応源、特定。」
沈黙。
周囲の研究官たちが息を止める。
塔の空気が、どこか発酵するようにふつふつと膨張していく。
暖かく、しかし異様に重い。
研究官Cが震える声で報告を読み上げた。
「……辺境の北部より、“禁忌の香気”を検知しました。」
その言葉が落ちると、室内の光が一斉に明滅した。
泡立つような音が耳の奥で鳴り、結晶盤の表面に再び小さな波紋が走る。
誰もが言葉を失っていた。
百年前、封印されたはずの“発酵魔法”。
命を造り、神の秩序を歪めるとされた“再生の術”。
それが――再び、この世界に芽吹いたのだ。
塔の外では雪が静かに降り続けている。
しかしこの夜、王都の空には、目に見えぬ泡がゆっくりと立ちのぼっていた。
王都ヴァレンティヌス城――その中心にそびえる黒曜の塔。
夜の帳の中、最上階の執務室だけが淡く青く光っていた。
冷たい魔導ランプの灯が、書類の山に静かに影を落とす。
王太子エルドは、羽根ペンを走らせながら、ひとつひとつの署名を終えていく。
外では雪の風が塔の壁を叩き、遠く鐘の音が夜を刻んでいた。
ふと、扉が叩かれた。
短く、震えるような音。
「……入れ。」
扉が開く。
白衣の研究官が一歩踏み出し、報告書を胸に抱えたまま深く頭を下げた。
肩には、長時間の観測で積もった結晶の粉が淡く光っている。
「閣下。魔導観測塔より報告が――
“発酵性魔素”の大規模波動を確認。位置は……クルナ村です。」
エルドの手が止まる。
羽根ペンの先から、一滴のインクが音もなく垂れ、書類に黒い染みを作った。
しばし、沈黙。
青い光が、彼の横顔を冷たく照らす。
報告書を受け取ると、彼はわずかに目を細めた。
ページの上を視線がゆっくりと滑り――ある一行で止まる。
「……彼女か。」
その声は、吐息とも呟きともつかぬほど低く、
しかし確かに、怒りと懐かしさが入り混じっていた。
エルドの瞳に、泡のような光が瞬く。
それは、遠い記憶――ひとりの“造り手”の笑顔を映していた。
そして、指先で報告書を閉じると、静かに命じた。
「――クルナ村の動向を、すべて監視しろ。」
外の雪が、塔の窓をかすめて流れ落ちる。
夜は深まり、王都の空にも、微かに“泡立つ光”が見え始めていた。
エルドは報告書を机の上に静かに置いた。
長い指が紙の縁をなぞる――まるでその感触の奥に、過ぎ去った時を探るように。
瞳の奥で、淡い泡のような光が揺れていた。
それは怒りか、それとも懐かしさか。
どちらとも判別のつかない、揺らめく感情の色。
彼はゆっくりと椅子を離れ、窓辺へと歩む。
高窓の外には、氷のように澄んだ王都の夜。
無数の灯が、冷たい星々のように瞬いている。
「……星が、また発酵を始めたか。」
低く、独りごちる声。
それは誰に向けられた言葉でもなく――
ただ、夜空の泡立ちに応えるように滲んだ。
窓の外では、雪が光を含みながら舞い落ちる。
その白の流れの中、彼の背後のガラスに――
魔導観測塔の結晶盤が、幻のように映り込んでいた。
そこではなお、微細な泡がゆらめき、
まるで“世界そのもの”が再び呼吸を始めたかのように膨らんでいく。
エルドの瞳が、その泡の残光を捉える。
そして、静かに目を伏せた。
「……また、命が動き出すのか。」
その呟きは、雪とともに夜に溶け――
王都の灯の彼方で、確かに何かが“再び泡立つ音”を立てていた。
夜のクルナ村。
静まり返った雪原の中央で、ひと筋の白い蒸気が立ちのぼっていた。
蔵の煙突から吐き出されたその蒸気は、泡のように膨らみ、
月明かりと星明かりをまといながら、ゆっくりと天へと昇っていく。
雪の結晶が光を返し、蒸気の中に舞い散る。
それはまるで、空へ還ろうとする命の粒――
静かで、確かな再生の息づかいだった。
やがて視点は空へ。
蒸気の筋が細く、遠くへ、遠くへとのびていく。
その先で、王都ヴァレンティヌスの空とひとつに溶け合った。
泡立つような光が、夜空の高みで瞬き、
見えない風の流れが二つの世界を結ぶ。
「命は巡る。
腐敗も、再生も――ひとつの流れ。
発酵の炎は、また誰かの胸に灯る。」
その声は誰のものでもなく、
ただ、この世界に息づく“生命の法則”そのものの響きだった。
静寂の夜、雪は音もなく降り続け、
その下で、泡のように揺れる命が確かに息をしていた。
王都ヴァレンティヌスの夜空。
冬の星々が冴えわたるその片隅で――一瞬、“泡のような光”がまたたいた。
まるで遠い辺境の息吹が、風に乗ってここまで届いたかのように。
執務室の窓辺で、王太子エルド・ヴァレンティヌスはその光を見上げていた。
瞳に淡く反射する光が、泡のごとく揺れ、
その端に、抑えきれぬ笑みが浮かぶ。
エルド:「ああ……また、面倒な季節が来た。」
彼の声は静かで、どこか嬉しげだった。
長い沈黙の季節を破る、わずかな波紋を知っている者の声。
外の風がカーテンを揺らし、蝋燭の炎がひとつ、泡のように弾ける。
その瞬間、光は消え、部屋は再び静寂の闇に包まれた。
――だがその闇の奥では、確かに何かが“再発酵”を始めていた。




