星酔の香
蔵の中には、静寂が満ちていた。
外の雪が音を吸い込み、壁のひび割れからは冷気が細く流れ込む。
その冷たさすら、今は神聖な気配に思えるほどだった。
アレッサは袖をまくり、甕の表面を布で磨いていた。
灰を落とし、凍りついた木樽を起こす。
かつて命を醸していた器たちが、ひとつひとつ呼吸を取り戻していくようだった。
隣ではランバルトが黙々と手を動かしている。
手にした鉄箍を慎重に締め直し、樽の歪みを矯正していく。
その手つきには、長い年月を経ても消えぬ職人の精度があった。
やがて氷を溶かして得た澄んだ水が、甕へと注がれる。
アレッサは懐から小さな布包みを取り出し、そっと中の“酵母石”を掌に載せた。
淡く乳白色に輝くそれは、沈黙を破る息吹を待っているように見えた。
石を水に沈めると、ほんの一瞬、泡が浮かぶ。
ランタンの光が泡に反射し、黄金の粒がゆらゆらと踊った。
鉄と木の香、湿った空気、微かな酸の匂い――すべてが混ざり合い、
蔵そのものがひとつの生き物のように、静かに息をしはじめる。
ランバルト:「……これで本当に発つのか?」
アレッサ:「ええ。沈黙は終わった。あとは、泡が語る番よ。」
二人の声は、音もなく夜気に溶けていった。
泡の音だけが、確かにそこに生の鼓動を刻んでいた。
樽の中で、静かに音が生まれた。
最初はかすかな“泡の息”――水面の震えが、やがて小さな波紋を描く。
魔素泉の水と酵母石が混ざり合い、内側から淡い光が滲み出していった。
その光は呼吸のように膨らみ、また縮む。
まるで樽の中に、小さな星が芽吹いたかのようだった。
橙の炎に照らされた蔵の天井に、泡の反射が瞬く。
それは静かな夜空に散る星々のように、命の粒が輝いているようだった。
アレッサは手を止め、その光景を見つめながら微笑む。
指先には微かに泡の弾ける温もり。
彼女の声は、祈るように静かだった。
「酵母はね、光を食べるの。
だから、暗闇でも育つのよ。」
ランバルトは手にしていた鉄の棒を置き、
しばらく黙って光の揺らめきを見つめた。
彼の顔に、炎と泡の光が交互に映り込む。
「……まるで、あんたみてぇだな。」
アレッサは思わず笑った。
笑いというより、泡が立つような微かな音を立てて――。
火と泡。
鉄と発酵。
冷たく凍えた蔵の中で、二つの異なる熱が、そっと共鳴し始めていた。
ほどなくして――蔵の奥から、かすかに甘い香りが立ちのぼった。
最初は、冷たい空気の中に混じる一筋の湯気のような香気。
だが、それはすぐに形を変え、雪と煤の村を包み込むように広がっていった。
焦げた木の匂いと混ざり、どこか懐かしい甘さを帯びていく。
発酵の香――かつてこの村がまだ笑っていた頃の、冬の夜の匂い。
蔵の外。
家々の戸口が開く音が、ひとつ、またひとつと続く。
煤にまみれた村人たちが、鼻をくすぐる香りに導かれるように外へ出てきた。
「……なんだ、この香り……」
「懐かしい……。腹の底が、あったかくなる……」
誰かが呟くと、雪の夜に白い息がふわりと漂った。
それはまるで、村全体がひとつの大きな息をつき始めたようだった。
やがて数人の村人が、おそるおそる蔵の扉を押し開けた。
中から溢れる光と香りに目を細め、樽の縁に手をかける。
アレッサは静かに頷いた。
「少しだけ」と言わんばかりに、柄杓を差し出す。
一人の老女が震える手で液を口に含む。
その瞬間、頬に淡い紅が差し、乾いた唇がゆるやかにほころぶ。
「……ああ、こんな味、何十年ぶりだろう……」
次々に人々が樽を囲み、慎重に、けれどどこか切実に杯を口へ運んでいく。
凍えた心に染みるような温もりが、村人たちの顔を照らした。
頬が赤くなり、肩がほぐれ、笑い声がぽつり、ぽつりとこぼれ落ちる。
長い冬に閉ざされていた村が、泡立つ音とともに少しずつ息を吹き返していく。
それは――星が酔うように、静かで、幸福な夜だった。
村人の手の中で、杯がかすかに震えた。
老女がゆっくりと唇を濡らし、そして、震える声で呟く。
「……これが、神に背く味?」
蔵の中に、静寂が落ちる。
火の揺らめきが泡の表面に映り、光が微かに踊った。
アレッサはその光を見つめながら、穏やかに微笑む。
雪に焼けた頬に、やわらかな橙の影が宿っている。
「いいえ。」
「神が見放した命の味です。」
その言葉は、どこか祈りにも似ていた。
蔵の奥で火がぱちりと弾け、泡のはぜる音がそれに応える。
ランバルトは黙ってその様子を見ていたが、やがて鼻で笑った。
低く、だが確かに笑っていた。
「は……。あんた、やっぱり正気じゃねぇ。」
アレッサも笑う。
蔵の中に、鉄と泡の音、そして二人の笑いが溶け合った。
――火と発酵が共鳴する音。
それは、凍っていた村にひとすじの温もりを流し込んでいった。
やがて、蔵の扉が開かれる。
村人たちの笑い声が夜気に乗って広がり、雪の闇を溶かしていく。
その笑いは、久しく聞かれなかった“人の音”だった。
白い息がいくつも空へと昇る。
屋根の上には白い蒸気が立ちのぼり、星の光を反射して淡く輝いた。
ランバルトが空を見上げ、口の端を上げる。
「……星が、酔ってやがる。」
アレッサはその言葉に微笑みを返し、泡立つ樽を見下ろした。
「ええ。“星酔の香”。
新しい命の匂いよ。」
夜空は澄み、雪はやんでいた。
カメラはゆっくりと上昇する。
蔵の屋根から立ちのぼる白い蒸気が、星の瞬きと混ざり合う。
地上の発酵が、天の泡とひとつに溶けていくように――。
「腐敗と再生のあわいに、光が生まれる。
それを人は、“星酔”と呼んだ。」
静かに、泡がひとつ――夜空に弾けた。




