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悪役令嬢、追放後の酒造り。──その一滴、世界を救う。  作者: 南蛇井


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8/22

星酔の香



蔵の中には、静寂が満ちていた。

外の雪が音を吸い込み、壁のひび割れからは冷気が細く流れ込む。

その冷たさすら、今は神聖な気配に思えるほどだった。


アレッサは袖をまくり、甕の表面を布で磨いていた。

灰を落とし、凍りついた木樽を起こす。

かつて命を醸していた器たちが、ひとつひとつ呼吸を取り戻していくようだった。


隣ではランバルトが黙々と手を動かしている。

手にした鉄箍たがを慎重に締め直し、樽の歪みを矯正していく。

その手つきには、長い年月を経ても消えぬ職人の精度があった。


やがて氷を溶かして得た澄んだ水が、甕へと注がれる。

アレッサは懐から小さな布包みを取り出し、そっと中の“酵母石”を掌に載せた。

淡く乳白色に輝くそれは、沈黙を破る息吹を待っているように見えた。


石を水に沈めると、ほんの一瞬、泡が浮かぶ。

ランタンの光が泡に反射し、黄金の粒がゆらゆらと踊った。

鉄と木の香、湿った空気、微かな酸の匂い――すべてが混ざり合い、

蔵そのものがひとつの生き物のように、静かに息をしはじめる。


ランバルト:「……これで本当に発つのか?」

アレッサ:「ええ。沈黙は終わった。あとは、泡が語る番よ。」


二人の声は、音もなく夜気に溶けていった。

泡の音だけが、確かにそこに生の鼓動を刻んでいた。



樽の中で、静かに音が生まれた。


最初はかすかな“泡の息”――水面の震えが、やがて小さな波紋を描く。

魔素泉の水と酵母石が混ざり合い、内側から淡い光が滲み出していった。


その光は呼吸のように膨らみ、また縮む。

まるで樽の中に、小さな星が芽吹いたかのようだった。

橙の炎に照らされた蔵の天井に、泡の反射が瞬く。

それは静かな夜空に散る星々のように、命の粒が輝いているようだった。


アレッサは手を止め、その光景を見つめながら微笑む。

指先には微かに泡の弾ける温もり。

彼女の声は、祈るように静かだった。


「酵母はね、光を食べるの。

だから、暗闇でも育つのよ。」


ランバルトは手にしていた鉄の棒を置き、

しばらく黙って光の揺らめきを見つめた。

彼の顔に、炎と泡の光が交互に映り込む。


「……まるで、あんたみてぇだな。」


アレッサは思わず笑った。

笑いというより、泡が立つような微かな音を立てて――。


火と泡。

鉄と発酵。

冷たく凍えた蔵の中で、二つの異なる熱が、そっと共鳴し始めていた。


ほどなくして――蔵の奥から、かすかに甘い香りが立ちのぼった。


最初は、冷たい空気の中に混じる一筋の湯気のような香気。

だが、それはすぐに形を変え、雪と煤の村を包み込むように広がっていった。


焦げた木の匂いと混ざり、どこか懐かしい甘さを帯びていく。

発酵の香――かつてこの村がまだ笑っていた頃の、冬の夜の匂い。


蔵の外。

家々の戸口が開く音が、ひとつ、またひとつと続く。

煤にまみれた村人たちが、鼻をくすぐる香りに導かれるように外へ出てきた。


「……なんだ、この香り……」

「懐かしい……。腹の底が、あったかくなる……」


誰かが呟くと、雪の夜に白い息がふわりと漂った。

それはまるで、村全体がひとつの大きな息をつき始めたようだった。


やがて数人の村人が、おそるおそる蔵の扉を押し開けた。

中から溢れる光と香りに目を細め、樽の縁に手をかける。


アレッサは静かに頷いた。

「少しだけ」と言わんばかりに、柄杓を差し出す。


一人の老女が震える手で液を口に含む。

その瞬間、頬に淡い紅が差し、乾いた唇がゆるやかにほころぶ。


「……ああ、こんな味、何十年ぶりだろう……」


次々に人々が樽を囲み、慎重に、けれどどこか切実に杯を口へ運んでいく。

凍えた心に染みるような温もりが、村人たちの顔を照らした。

頬が赤くなり、肩がほぐれ、笑い声がぽつり、ぽつりとこぼれ落ちる。


長い冬に閉ざされていた村が、泡立つ音とともに少しずつ息を吹き返していく。

それは――星が酔うように、静かで、幸福な夜だった。


村人の手の中で、杯がかすかに震えた。

老女がゆっくりと唇を濡らし、そして、震える声で呟く。


「……これが、神に背く味?」


蔵の中に、静寂が落ちる。

火の揺らめきが泡の表面に映り、光が微かに踊った。


アレッサはその光を見つめながら、穏やかに微笑む。

雪に焼けた頬に、やわらかな橙の影が宿っている。


「いいえ。」

「神が見放した命の味です。」


その言葉は、どこか祈りにも似ていた。

蔵の奥で火がぱちりと弾け、泡のはぜる音がそれに応える。


ランバルトは黙ってその様子を見ていたが、やがて鼻で笑った。

低く、だが確かに笑っていた。


「は……。あんた、やっぱり正気じゃねぇ。」


アレッサも笑う。

蔵の中に、鉄と泡の音、そして二人の笑いが溶け合った。


――火と発酵が共鳴する音。

それは、凍っていた村にひとすじの温もりを流し込んでいった。


やがて、蔵の扉が開かれる。

村人たちの笑い声が夜気に乗って広がり、雪の闇を溶かしていく。

その笑いは、久しく聞かれなかった“人の音”だった。


白い息がいくつも空へと昇る。

屋根の上には白い蒸気が立ちのぼり、星の光を反射して淡く輝いた。


ランバルトが空を見上げ、口の端を上げる。


「……星が、酔ってやがる。」


アレッサはその言葉に微笑みを返し、泡立つ樽を見下ろした。


「ええ。“星酔の香”。

 新しい命の匂いよ。」


夜空は澄み、雪はやんでいた。

カメラはゆっくりと上昇する。


蔵の屋根から立ちのぼる白い蒸気が、星の瞬きと混ざり合う。

地上の発酵が、天の泡とひとつに溶けていくように――。


「腐敗と再生のあわいに、光が生まれる。

 それを人は、“星酔”と呼んだ。」


静かに、泡がひとつ――夜空に弾けた。




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