第5話:雪の村クルナ
谷底の集落――クルナ村。
かつて魔素を産出した鉱山の村は、今では黒い煙と沈黙に包まれている。
炭鉱跡からはまだ煤が上がるが、それは熱を持たぬ灰の息。
村人たちは顔を伏せ、擦り切れた外套に身を沈めて歩いていた。
誰も笑わない。誰も語らない。
家々の窓には灯ひとつなく、夜と雪が見分けのつかない世界。
アレッサは、旅の果てにそこへたどり着いた。
靴底は泥と氷で重く、背の薬瓶は空に近い。
それでも、彼女の目は凍えた世界を確かめるようにゆっくりと動く。
息を吐くたび、白い靄が形を変えて消えた。
彼女は立ち止まり、空を仰ぐ。
厚い雲の隙間から、淡い月がわずかに顔をのぞかせる。
その光は弱く、けれどどこか温かだった。
> 「沈黙のあとに、発酵が始まる……。
なら、ここが“始まり”かもしれない。」
声は風に消え、雪の粒が頬を打った。
アレッサの瞳に、その冷たさよりも――わずかなぬくもりが宿る。
背後で、小さな靴音がした。
振り返ると、煤にまみれた少年が立っている。
腕に炭袋を抱え、指先はひび割れていた。
> 「……酒なんて、もう誰も造らないよ。」
それだけ言うと、少年は目を伏せ、吹雪の中へ消えた。
アレッサはその背中を見送りながら、静かに微笑む。
> 「そう。なら――私がもう一度、泡を起こそう。」
雪の下で、見えぬどこかに、
ほんの一瞬だけ“ぽつり”と泡のような音が響いた気がした。
鍛冶工房の扉を開けると、焦げた鉄と煤の匂いが押し寄せた。
外の雪よりも重たい空気。
奥では、赤々と燃える炉の光が、薄闇の中で脈を打っている。
鉄槌の音がひとつ。
それがやんで、またひとつ。
まるで心臓の鼓動のように、規則的に響いていた。
アレッサは壊れた鍋を両腕で抱え、慎重に声をかけた。
> 「すみません、この鍋……底が割れてしまって。」
火の粉の向こうで、無骨な男が顔を上げる。
煤にまみれた頬、白く混じった髭。
ランバルト――村で唯一の鍛冶職人。
彼は無言のまま鍋を受け取り、裏側を眺め、鼻を鳴らした。
> 「古いな。王都の鍋か?」
「ええ。旅の途中で拾ったんです。」
再び鉄槌が振り下ろされる。
金属の打撃音が、静かな空間に溶けていった。
やがて、ランバルトが低く呟く。
> 「……酒の匂いがする。」
アレッサは一瞬息を呑み、思わず微笑む。
> 「まだ残ってたのね。あの子たちの泡の香り。」
ランバルトは顔をしかめ、火花の向こうで目を細めた。
> 「……酒の匂いなんざ、もう嗅ぎたくねぇ。」
その声には、遠い痛みが混じっていた。
アレッサは、炉の光に照らされた鉄槌を見つめる。
> 「それでも、鉄は打ち続けてるのね。」
ランバルトは黙って鍋を返しながら、低く答える。
> 「鉄は裏切らねぇ。人は、腐る。」
アレッサはその言葉を静かに受け止め、
小さく息を吐いて微笑んだ。
> 「腐るからこそ、変われるのよ。」
炉の火が、彼女の横顔を一瞬照らす。
その光の揺らめきの中で、ランバルトはわずかに目を見開いた。
鉄の音が止まり、雪の降る音だけが遠くで響く。
> 「……あんた、変な女だな。」
アレッサは肩をすくめる。
> 「よく言われます。」
鍛冶場の奥で、火がぱちりと弾けた。
その小さな火花が、まるで泡のように瞬いて消えた。
夜の帳が下り、雪が静かに降り積もる。
村外れの坂道を、アレッサとランバルトは黙って歩いていた。
手にしたランタンの光が、吹雪の中で小さく揺れる。
> 「……ここだ。」
ランバルトが立ち止まった。
指先で雪を払うと、古びた木札に“蔵”の文字がかすかに残っている。
扉は半ば朽ち、氷に閉ざされていた。
彼が肩で押すと、重い音を立てて扉が開く。
中からは冷気とともに、どこか懐かしい――しかし忘れ去られた香りが漏れ出した。
鉄と木と、そして微かに残る酒の匂い。
> 「ここは……?」
「俺が若い頃に金具を納めた蔵だ。
主が死んでから放置されてな。今じゃ雪の墓みてぇなもんだ。」
床板は腐り、壁には黒いカビが這う。
だが奥には、崩れかけた階段があり、そこから淡い冷気が吹き上がっていた。
アレッサは息を呑み、ランタンを掲げる。
> 「……下に、何かある。」
二人は慎重に階段を降りた。
しんとした地下には、氷に覆われた円形の泉があった。
表面は凍結しているが、その奥に青白く揺れる光が見える。
> 「魔素泉だ。」ランバルトが低く呟く。
「昔はこの泉で酒を仕込んだ。だが魔素が枯れてからは、誰も近づかねぇ。」
アレッサはそっと膝をつき、旅の途中で受け取った“酵母石”を取り出した。
掌の中で、石は冷たくも、どこか息をしているように感じられた。
彼女は、迷いのない動作でそれを泉の中央に落とす。
――チリ、チリ……。
氷の表面がひび割れ、淡い光が広がる。
水面が揺れ、ぽつりと泡がひとつ――そして、またひとつ。
> 「……生きてる。」アレッサの声は震えていた。
「まだ、泡立てる気だわ。」
ランバルトは腕を組んで、呆れたように息を吐く。
> 「本気でやる気か、こんな地の果てで。」
アレッサは振り向き、ほのかに笑った。
> 「ええ。ここが、私の“再発酵槽”よ。」
その笑みは、雪明かりに照らされて柔らかく光る。
ランバルトは短く鼻を鳴らし、炉の火のような声で答えた。
> 「……勝手にしな。だが、手伝ってやる。」
静かな蔵の奥で、泡が弾ける音がした。
それはまるで、凍りついた世界に小さな命が息を吹き返す音のようだった。
アレッサは袖をまくり、木の杓子でゆっくりと醪を混ぜる。
淡く光る泡が、彼女の指先を照らした。
その光はまるで星屑のようで――暗闇の蔵に、小さな天の川が浮かんでいるようだった。
> 「酵母はね、光を食べるの。」
アレッサは微笑みながら呟いた。
「だから、暗闇でも育つのよ。」
ランバルトは腕を組んで、その横顔をじっと見つめる。
焚き火の明かりに照らされたその瞳には、強さと柔らかさが同居していた。
> 「……まるで、あんたみてぇだな。」
アレッサは手を止め、少しだけ頬を染めた。
> 「ふふ、発酵するのは酒だけじゃないみたいね。」
ふと、蔵の外からかすかな足音がした。
戸口の隙間から、数人の村人が覗き込んでいる。
彼らの鼻をくすぐったのは――甘くも切ない香り。
“星酔の香”。
魔素をわずかに含む発酵の香気が、夜気と混じって漂っていた。
疲れ切った人々の胸の奥を、やわらかく撫でていく。
> 「……なんだ、この匂い。」
「懐かしい……昔、祭りの夜に嗅いだような……。」
ランバルトが無言で木椀を差し出した。
恐る恐る口をつけた老人の目が、驚きで大きく見開かれる。
次の瞬間、その頬にほんのりと赤みが差した。
> 「……あったけぇ……」
「体の奥が、動き出すみてぇだ。」
ひとり、またひとりと人が集まり、木椀を交わす。
凍りついていた笑みが、少しずつほぐれていく。
アレッサは静かに見つめながら、呟いた。
> 「これは、神に背く味なんかじゃない。」
夜風が蔵を抜け、光の泡が舞い上がる。
> 「神が見放した命の味よ。……でも、見放されたって、生きることはできる。」
ランバルトは深く息を吸い込み、目を細めた。
> 「いい香りだ……まるで、生き返ったみてぇだな。」
外では、子どもたちの笑い声が響き始める。
凍てついた村に、泡立つような笑いと光が広がっていく。
――それは、長い冬を破る“発酵の音”。
クルナ村に、再び人の温もりが灯り始めた夜だった。
王都ヴァレンティヌスの夜は、いつも静かだった。
だが、その静寂を破るように――魔導観測塔の最上階で、結晶盤が“泡立った”。
青白い光を放つ魔素観測結晶が、突如として内部から微細な気泡を放出する。
塔を満たす冷たい空気が、ぴしりと張り詰めた。
> 「観測異常です! 北方セクター、辺境クルナ方面より――魔素の乱流を検知!」
「波形が……泡立っています、まるで発酵反応のような……」
研究官たちは顔を見合わせ、動揺の中で報告書を束ねた。
この反応――“禁忌の香気”と呼ばれる現象。
かつて神の定めた“魔素循環の秩序”を乱すとして、すべての酵造術が封印された理由そのものだった。
報告が、王城中央塔へと届けられる。
玉座の奥、王太子エルドは静かに書を閉じた。
> 「……辺境、クルナか。」
彼の声は低く、しかしどこか懐かしげでもあった。
研究官が膝をつく。
> 「殿下、これは“彼女”が関わっている可能性が――」
> 「構わぬ。」
エルドは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
夜空に淡く浮かぶ魔素の光――その中に、ひと筋、泡のような揺らめきが混じっていた。
> 「……彼女か。」
唇に浮かんだ微笑は、怒りとも、哀しみともつかぬ。
それは、かつて自らが封じた“命の香”への記憶の残滓だった。
手の中のグラスに、未だ香りが残っている。
あの夜、神殿で味わった――泡立つ酒の記憶。
失われたものが、再び息を吹き返した証。
> 「泡は止まらぬ……か。」
彼の瞳に、泡のような光が揺れた。
***
遠く離れた北方――クルナ村の空。
雪を溶かすように、古い蔵の煙突から白い蒸気が立ち上る。
それは夜風に舞い、やがて無数の泡となって空へ昇っていった。
王都の上空へ、同じ泡が、同じ光が届く。
見えない糸のように、命が再び巡りはじめる。
――発酵は、沈黙を越えて広がる。
禁忌の香気は、やがて祈りへと変わる。
そして、世界のどこかで新たな泡が生まれた。
命の炎は、再び灯る。




