第4話:追放の夜(静寂の余韻)
夜の王都は、まるで息を潜めたかのように沈黙していた。
月は厚い雲に覆われ、街灯の灯も風に揺れては消えかけている。
神殿の裏手にある馬車留め場では、冷たい泥が車輪の跡を何重にも刻んでいた。
昼の喧騒を知る者が見れば、それがどれほど寂しい場所か一目でわかるだろう。
アレッサは、そこに立っていた。
白衣を脱ぎ、簡素な灰色の旅装に身を包み、荷物は小さな袋ひとつだけ。
腰に吊るされた薬瓶と、手に抱えた一冊のノート──
それが彼女の全財産であり、過去を証す唯一の遺物だった。
王都グランセルで培ってきた研究のすべては、神殿に没収された。
発酵の樽も、香りの記録も、あの泡の観察日誌も。
それでも、彼女の顔には不思議な穏やかさがあった。
遠くで、神殿の鐘が鳴る。
一度、二度──ゆっくりと、追放の刻を告げる音。
アレッサは目を閉じた。
冷たい夜気が頬を撫で、髪を揺らす。
それはまるで、神ではなく「風」だけが彼女を見送っているようだった。
「発酵は、いつも沈黙から始まる。」
唇がわずかに動き、音にもならぬ言葉が宙に溶けた。
「だから、これは終わりではない。」
その呟きは、凍える空気の中でほのかな温もりを残す。
彼女の瞳には、もう恐れはなかった。
あるのは、ただ静かな確信──
命は滅びず、形を変えて息づくという、誰にも奪えない信念。
馬車の影が、ゆっくりと近づいてくる。
その音が、泥の上で静かに泡立つように響いた。
闇の中に、かすかな足音が響いた。
湿った石畳を踏みしめる音が、静まり返った夜気を切り裂いていく。
アレッサが顔を上げると、遠くにぼんやりとランタンの灯が揺れていた。
風に揺られながら、それはゆっくりと近づいてくる。
光の中に現れたのは、一人の少女だった。
白い法衣の裾を泥に汚し、肩で息をしている。
まだ十代半ばの幼さが残るその顔を、揺れる光が照らした。
「……コーデリア?」
アレッサが思わず名を呼ぶと、少女はびくりと肩を震わせた。
それでも逃げずに、胸に抱えた何かを大切そうに握りしめたまま、彼女の前まで歩み寄る。
「……こんな時間に、何をしているの?」
問う声には、叱責よりも驚きと優しさが混じっていた。
コーデリアは唇を噛み、震える手で小さな布包みを差し出す。
包みを解くと、中から乳白色に光を宿す小石が転がり出た。
それはまるで、静かな呼吸をしているように淡く明滅している。
「これ……“ルヴァインの涙”の欠片です。」
少女の声はかすれていた。
しかし、その目だけは真っすぐで、闇を恐れていなかった。
「古文書で読みました。酵母が……最後に眠る場所だって。」
アレッサは、そっと息をのんだ。
月も隠れた夜の下で、その石だけが命のように微かに脈打っている。
彼女は両手でその小石を受け取り、掌に乗せる。
温かい。
まるで、どこかで眠っていた“命”が目を覚ますような感触。
アレッサは目を細めて微笑んだ。
「あなた……なぜ、これを?」
問いかける声は静かで、涙を含んでいた。
コーデリアは俯いたまま、かすかに笑う。
「あなたが造った酒を……私の母が、最後に飲んだんです。
笑って逝きました。
だから、私も信じたいのです。
あなたの“酵母”が、まだ生きているって。」
アレッサの指が、そっと震えた。
手の中の“酵母石”が、静かに光を増していく。
アレッサは息をのんだ。
手の中の小石が、ほんのりと温もりを帯びている。
冷たい夜気の中、その温度だけが確かに“生きている”と告げていた。
「……あなた、なぜこんなことを?」
声は震えていたが、そこには怒りも疑いもなかった。
ただ、あまりに人の心に近い優しさが、彼女を揺らしていた。
コーデリアは俯いたまま、小さく息を吸い込む。
その白い指が、まだ泥の跡を残した裾を握りしめている。
「あなたが造ったお酒を……母が飲んだんです。」
言葉は夜の空気に溶けるように、静かに広がった。
「ずっと苦しそうだったのに……
最後に、笑って逝きました。
あの一口で、救われたって言ってたんです。」
アレッサの瞳がわずかに見開かれる。
次の瞬間、頬を伝う雫が、手の中の石に落ちた。
――ぽたり。
その瞬間、小石の表面が淡く光を放った。
まるで、その涙を受けて“命”が息を吹き返したように。
アレッサは唇を震わせ、かすかに笑みを浮かべた。
「……ありがとう。」
その声は祈りのようで、風のようにやさしかった。
「あなたの祈り、酵母が覚えているわ。」
コーデリアは顔を上げた。
その瞳に浮かぶ光は、涙と決意のどちらとも言えなかった。
「あなたの酵母は、まだ生きているわ。」
沈黙が二人を包む。
夜の冷たさの中で、彼女たちの間だけが、静かに温まっていく。
アレッサは小石を胸に抱き、そっと目を閉じた。
その掌の中で、光が小さく明滅する。
それはまるで、遠い未来へ託された“命の火種”のようだった。
風が、ふっと二人の間を抜けた。
夜気は冷たく、吐く息が白く絡み合い、すぐに消えていく。
ランタンの炎が揺れ、コーデリアの影が地面に長く伸びた。
アレッサは馬車の前で立ち止まり、最後にもう一度だけ振り返る。
そこに立つ少女は、小さな両手を胸の前で固く組み、祈りの言葉を紡いだ。
「……どうか、あなたの泡が、また立ちますように。」
その声は、夜の静けさの中に沈んでいく。
けれど確かに、空気が震えた。
祈りが風に溶け、アレッサの髪をそっと撫でる。
アレッサは目を細め、穏やかに笑った。
その瞳は涙に濡れていたが、悲しみではなく、どこか温かな確信に満ちていた。
「泡は止まらない。命のかたちだから。」
その言葉を残し、アレッサは馬車に乗り込む。
古びた扉が軋み、ゆっくりと閉じられる。
御者が手綱を鳴らすと、車輪がぬかるみを踏みしめ、泥を弾いた。
――ぎしり、ぐしゃり。
その音が、まるでどこか遠くで“発酵の音”が始まるように響く。
泡立ち、膨らみ、やがて新しい命を孕む音。
コーデリアはその音を聞きながら、静かに頭を垂れた。
祈りの姿勢のまま、いつまでもその場を離れなかった。
馬車の灯が夜の闇に溶けていく。
そして――
風の中に、ほんの一瞬、葡萄と蜂蜜のような甘い香りが残った。
コーデリアは、動けなかった。
馬車の轍が遠ざかる音が、雨上がりの地面に吸い込まれていく。
冷たい風が吹き、裾を揺らす。
その手のひらには――アレッサが最後に触れた、涙の温もりがまだ残っていた。
ふと、指先でその雫をそっと拭う。
すると、そこに小さな泡がふわりと浮かび上がる。
光を受けて淡く輝き、静かに弾けた。
コーデリア(心の声):「泡は……命の息。」
呟きが夜気に溶ける。
静寂が戻るはずの空間に、何かが微かに脈打っていた。
まるで、大地の下で眠る種が、息をし始めたかのように。
カメラはゆっくりと上空へ。
闇に伸びる街道を、一台の馬車が小さな灯を揺らしながら進んでいく。
その行方を見守るかのように、雲の切れ間から月が姿を現した。
白い光が、コーデリアの掌の上に落ちる。
そこでは、先ほど受け取った“酵母石”の残滓が、淡い光を帯びていた。
――ぽつ、ぽつ。
音にならない鼓動が、石の奥で響く。
それは、確かに“生きている”音。
そして、夜の静寂の中。
微細な光の粒が、泡のように空へ舞い上がる。
風に乗り、王都の上空へと消えていった。
――それは、「再生」の種。




