表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢、追放後の酒造り。──その一滴、世界を救う。  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/22

第4話:追放の夜(静寂の余韻)

夜の王都は、まるで息を潜めたかのように沈黙していた。

 月は厚い雲に覆われ、街灯の灯も風に揺れては消えかけている。


 神殿の裏手にある馬車留め場では、冷たい泥が車輪の跡を何重にも刻んでいた。

 昼の喧騒を知る者が見れば、それがどれほど寂しい場所か一目でわかるだろう。


 アレッサは、そこに立っていた。

 白衣を脱ぎ、簡素な灰色の旅装に身を包み、荷物は小さな袋ひとつだけ。

 腰に吊るされた薬瓶と、手に抱えた一冊のノート──

 それが彼女の全財産であり、過去を証す唯一の遺物だった。


 王都グランセルで培ってきた研究のすべては、神殿に没収された。

 発酵の樽も、香りの記録も、あの泡の観察日誌も。

 それでも、彼女の顔には不思議な穏やかさがあった。


 遠くで、神殿の鐘が鳴る。

 一度、二度──ゆっくりと、追放の刻を告げる音。


 アレッサは目を閉じた。

 冷たい夜気が頬を撫で、髪を揺らす。

 それはまるで、神ではなく「風」だけが彼女を見送っているようだった。


「発酵は、いつも沈黙から始まる。」


 唇がわずかに動き、音にもならぬ言葉が宙に溶けた。


「だから、これは終わりではない。」


 その呟きは、凍える空気の中でほのかな温もりを残す。

 彼女の瞳には、もう恐れはなかった。

 あるのは、ただ静かな確信──

 命は滅びず、形を変えて息づくという、誰にも奪えない信念。


 馬車の影が、ゆっくりと近づいてくる。

 その音が、泥の上で静かに泡立つように響いた。

闇の中に、かすかな足音が響いた。

 湿った石畳を踏みしめる音が、静まり返った夜気を切り裂いていく。


 アレッサが顔を上げると、遠くにぼんやりとランタンの灯が揺れていた。

 風に揺られながら、それはゆっくりと近づいてくる。


 光の中に現れたのは、一人の少女だった。

 白い法衣の裾を泥に汚し、肩で息をしている。

 まだ十代半ばの幼さが残るその顔を、揺れる光が照らした。


「……コーデリア?」


 アレッサが思わず名を呼ぶと、少女はびくりと肩を震わせた。

 それでも逃げずに、胸に抱えた何かを大切そうに握りしめたまま、彼女の前まで歩み寄る。


「……こんな時間に、何をしているの?」


 問う声には、叱責よりも驚きと優しさが混じっていた。


 コーデリアは唇を噛み、震える手で小さな布包みを差し出す。

 包みを解くと、中から乳白色に光を宿す小石が転がり出た。

 それはまるで、静かな呼吸をしているように淡く明滅している。


「これ……“ルヴァインの涙”の欠片です。」


 少女の声はかすれていた。

 しかし、その目だけは真っすぐで、闇を恐れていなかった。


「古文書で読みました。酵母が……最後に眠る場所だって。」


 アレッサは、そっと息をのんだ。

 月も隠れた夜の下で、その石だけが命のように微かに脈打っている。


 彼女は両手でその小石を受け取り、掌に乗せる。

 温かい。

 まるで、どこかで眠っていた“命”が目を覚ますような感触。


 アレッサは目を細めて微笑んだ。


「あなた……なぜ、これを?」


 問いかける声は静かで、涙を含んでいた。


 コーデリアは俯いたまま、かすかに笑う。


「あなたが造った酒を……私の母が、最後に飲んだんです。

 笑って逝きました。

 だから、私も信じたいのです。

 あなたの“酵母”が、まだ生きているって。」


 アレッサの指が、そっと震えた。

 手の中の“酵母石”が、静かに光を増していく。


アレッサは息をのんだ。

 手の中の小石が、ほんのりと温もりを帯びている。

 冷たい夜気の中、その温度だけが確かに“生きている”と告げていた。


「……あなた、なぜこんなことを?」


 声は震えていたが、そこには怒りも疑いもなかった。

 ただ、あまりに人の心に近い優しさが、彼女を揺らしていた。


 コーデリアは俯いたまま、小さく息を吸い込む。

 その白い指が、まだ泥の跡を残した裾を握りしめている。


「あなたが造ったお酒を……母が飲んだんです。」


 言葉は夜の空気に溶けるように、静かに広がった。


「ずっと苦しそうだったのに……

 最後に、笑って逝きました。

 あの一口で、救われたって言ってたんです。」


 アレッサの瞳がわずかに見開かれる。

 次の瞬間、頬を伝う雫が、手の中の石に落ちた。


 ――ぽたり。


 その瞬間、小石の表面が淡く光を放った。

 まるで、その涙を受けて“命”が息を吹き返したように。


 アレッサは唇を震わせ、かすかに笑みを浮かべた。


「……ありがとう。」


 その声は祈りのようで、風のようにやさしかった。


「あなたの祈り、酵母が覚えているわ。」


 コーデリアは顔を上げた。

 その瞳に浮かぶ光は、涙と決意のどちらとも言えなかった。


「あなたの酵母は、まだ生きているわ。」


 沈黙が二人を包む。

 夜の冷たさの中で、彼女たちの間だけが、静かに温まっていく。


 アレッサは小石を胸に抱き、そっと目を閉じた。

 その掌の中で、光が小さく明滅する。

 それはまるで、遠い未来へ託された“命の火種”のようだった。


 風が、ふっと二人の間を抜けた。

 夜気は冷たく、吐く息が白く絡み合い、すぐに消えていく。

 ランタンの炎が揺れ、コーデリアの影が地面に長く伸びた。


 アレッサは馬車の前で立ち止まり、最後にもう一度だけ振り返る。

 そこに立つ少女は、小さな両手を胸の前で固く組み、祈りの言葉を紡いだ。


「……どうか、あなたの泡が、また立ちますように。」


 その声は、夜の静けさの中に沈んでいく。

 けれど確かに、空気が震えた。

 祈りが風に溶け、アレッサの髪をそっと撫でる。


 アレッサは目を細め、穏やかに笑った。

 その瞳は涙に濡れていたが、悲しみではなく、どこか温かな確信に満ちていた。


「泡は止まらない。命のかたちだから。」


 その言葉を残し、アレッサは馬車に乗り込む。

 古びた扉が軋み、ゆっくりと閉じられる。

 御者が手綱を鳴らすと、車輪がぬかるみを踏みしめ、泥を弾いた。


 ――ぎしり、ぐしゃり。


 その音が、まるでどこか遠くで“発酵の音”が始まるように響く。

 泡立ち、膨らみ、やがて新しい命を孕む音。


 コーデリアはその音を聞きながら、静かに頭を垂れた。

 祈りの姿勢のまま、いつまでもその場を離れなかった。


 馬車の灯が夜の闇に溶けていく。

 そして――

 風の中に、ほんの一瞬、葡萄と蜂蜜のような甘い香りが残った。

コーデリアは、動けなかった。

 馬車の轍が遠ざかる音が、雨上がりの地面に吸い込まれていく。

 冷たい風が吹き、裾を揺らす。

 その手のひらには――アレッサが最後に触れた、涙の温もりがまだ残っていた。


 ふと、指先でその雫をそっと拭う。

 すると、そこに小さな泡がふわりと浮かび上がる。

 光を受けて淡く輝き、静かに弾けた。


コーデリア(心の声):「泡は……命の息。」


 呟きが夜気に溶ける。

 静寂が戻るはずの空間に、何かが微かに脈打っていた。

 まるで、大地の下で眠る種が、息をし始めたかのように。


 カメラはゆっくりと上空へ。

 闇に伸びる街道を、一台の馬車が小さな灯を揺らしながら進んでいく。

 その行方を見守るかのように、雲の切れ間から月が姿を現した。


 白い光が、コーデリアの掌の上に落ちる。

 そこでは、先ほど受け取った“酵母石”の残滓が、淡い光を帯びていた。


 ――ぽつ、ぽつ。


 音にならない鼓動が、石の奥で響く。

 それは、確かに“生きている”音。


 そして、夜の静寂の中。

 微細な光の粒が、泡のように空へ舞い上がる。

 風に乗り、王都の上空へと消えていった。


 ――それは、「再生」の種。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ