表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢、追放後の酒造り。──その一滴、世界を救う。  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/22

第3話:断罪の杯

夜半。

王都の中心にそびえる中央神殿は、まるで氷でできた塔のように沈黙していた。

外では風が雪を運び、ステンドグラスの外面を白く曇らせている。

その内側、儀式の間には、無数の燭台が並び、

ひとつひとつの炎がゆらりと揺れては、長い影を壁に踊らせていた。


床は冷たい大理石。

その中央には、磨き抜かれた円形の祭壇が置かれている。

まるで鏡のように光を反射し、

上に載せられた“純水の杯”だけが、唯一の焦点として静止していた。


透明な水。

一滴の濁りもなく、香りも音も持たない。

それは神聖さの象徴であり、同時に──何も生きていない静止の象徴でもあった。


今宵、ここで行われるのは「理性の浄化の儀」。

罪人が魔性の酒を否定し、神の名のもとに“清らかな水”を飲み干す。

それによって、体内の酵母──生命の芽を死滅させるのだという。


それは古来より、理性の国における“清め”の儀であった。

だがその真意は、赦しではなく服従にある。

命を、熱を、発酵を、

すべて理性の秩序へと沈めるための――静かな殺戮。


神殿の奥では、聖職者たちが低く祈りを唱えていた。

男たちの声が石の天井に反響し、波のように重なってゆく。

その中央、白い祭服をまとった一人の少女──アレッサが跪いていた。


両手は鎖で繋がれ、首には小さな銀環が光る。

その表情は静かで、恐怖の影すら浮かばない。

まるで、自らの運命を受け入れた者のように、

ただ、杯の中の水面を見つめていた。


炎が揺れ、彼女の瞳に一瞬の輝きが映る。

それは、理性の国が決して理解しないもの──

命の揺らめきだった。


鐘が鳴った。

硬質な音が、白い石の天井を何度も跳ね返り、やがて祈りのように空気へ溶けていく。


円形の祭壇を囲み、白衣の神官たちが沈黙の列をなして立っていた。

その中心に立つアレッサの姿は、まるで氷の彫像のようだった。

両腕を鎖で束ねられたまま、視線だけが正面を見据えている。

足元の影が、燭光の揺らめきに合わせて波のように揺れた。


神官たちが一斉に低い聖歌を唱える。

その旋律は穏やかで、しかしどこか無慈悲な規則を感じさせた。

生を讃えるのではなく、静を祈る歌。

命を鎮め、泡を潰すための祈り。


聖歌が途切れると、教皇レクシオン三世が前へ進み出た。

彼の法衣は雪のように白く、杖の先端には黄金の杯が輝いている。

その姿は、まるで神の理性を体現するもののようだった。


「アレッサ・フォン・グラーデ。」

「この杯を飲めば、お前の罪は流れ、酵母は死ぬ。」

「理性は清められ、魂は再び静寂を得るだろう。」


朗々たる声が石壁に反響し、

広間全体がその言葉に支配されたように、時の流れを止めた。


アレッサは一歩、祭壇の前に進み出る。

目の前の杯の中には、透明な水。

光を受けて淡く揺れるその水面は、美しく、完璧で、そして──死んでいた。


彼女は静かに唇を開く。


(アレッサ・モノローグ)

「水は澄んでいる。けれど、息をしていない。」


彼女の目には、確かにそれが見えていた。

泡の立たぬ水。

命の音を持たぬ静止。

それは、この国が愛してやまない“理性”そのものの姿だった。


燭台の炎が、かすかに揺れる。

アレッサの瞳にも、その揺らめきが映り込む。

それは、まだ消えていない──命の微かな泡のように。


静寂。

聖歌も止み、炎さえ息を潜める。

神殿全体が、ひとつの心臓になって鼓動を止めたかのようだった。


アレッサは、祭壇の上の杯を見つめた。

そこには何の香りもない。

風のない世界に浮かぶ、完璧な透明。

理性が磨き上げた静謐の象徴。


彼女はゆっくりと両の手を差し出す。

鎖の擦れる音が、冷たく響いた。

杯が手の中に収まると、その重みがわずかに震えを伝える。

その震えが、まるで彼女の心そのもののように微細で、確かだった。


群衆が見守る中、レクシオン三世が声を放つ。

その声は、神殿の天井を渡り、石壁を伝って広がる。


「飲め。」

「それでお前の罪は終わる。」


その言葉は祝福ではなく、終止符。

彼の語る“終わり”は、清めでも贖いでもない。

それは、命を理性に従わせるための――殺意の祈り。


アレッサは杯を唇に寄せた。

ほんの少し傾け、冷たい液体を一口、喉へと流し込む。


――瞬間、全身に冷たさが走った。

それは水ではなく、“死”そのものが体内を通過していくような感覚。

発酵を止める冷気。

泡を潰し、香りを消す、無の味。


唇を離し、アレッサは静かに息を吐く。

その吐息には、わずかに白い霧が混じった。

夜の冷気ではなく、失われた温もりの名残。


(アレッサ・モノローグ)

「……これが、理性の味。」


杯の中では、まだ少しの水が揺れている。

その表面に、彼女の瞳が映る。

揺れる瞳の奥には、わずかに泡のような光――

消えずに、かすかに生きていた。


アレッサは杯を見つめた。

残る水は、わずかに指先ほど。

それでも、その静止した透明が――あまりに不自然に思えた。


彼女は小さく息を吸い、杯を傾けた。

冷たい液体が、祭壇の白い石に落ちる。

――その瞬間。


ポツ。

ポツポツ……。


水面が、泡立った。


ひとつ、またひとつ。

泡はゆっくりと膨らみ、淡い光をまといながら弾ける。

まるで“息”を取り戻したように、泡が呼吸を始めた。


神官たちが一斉に息をのむ。

燭台の火が揺れ、聖歌の残響が歪む。

冷たいはずの石の上で、確かに“生命の音”が鳴っていた。


「泡立った……!?」

「神が拒んでいる!」

「水が穢れたのだ!」


ざわめきが波のように広がる。

誰もがそれを、奇跡ではなく、災いとして見た。


レクシオン三世が黄金の杖を打ち鳴らす。

音が、空気を断ち切るように響く。


「貴様、何をした!」


彼の声は雷鳴のようでありながら、どこか怯えを含んでいた。

理性で世界を統べてきた男にとって、“発酵”は最も忌まわしい異音。

それは、死の中に命があるという秩序への反逆だった。


アレッサは顔を上げる。

その瞳は静かで、確信に満ちていた。

まるで、泡が映り込んだ光を宿しているように。


「いいえ。」

「これは、“生きている”んです。」


声は柔らかく、しかし神殿の石壁を震わせるほどに澄んでいた。


「あなたたちが“死”と呼ぶものの中にも、息づく力がある。

腐ることも、膨らむことも、みな同じ命の姿です。」


一瞬、沈黙。

聖職者たちが息を止め、光る泡がひとつ、またひとつ弾けた。


「それが、私の信じる世界です。」


その声の余韻が、神殿に“香り”のように漂う。

理性の国の中心で、初めて“命の音”が響いた。




神殿の扉が開く。

夜の冷気とともに、群衆のざわめきが雪崩れ込んだ。


「悪魔の女だ!」

「魔酵母の呪いを撒いた!」

「また理性を穢そうとしている!」


怒号が、祈りの場を飲み込む。

松明の火が揺れ、白衣の神官たちが慌ててアレッサの両腕を掴む。

彼女の袖口からこぼれた布切れが、祭壇の水溜まりに触れ、

――そこでもまた、ひとつ、泡が弾けた。


「見ろ! まだ泡立っている!」

「悪魔の息だ!」


聖職者たちは後ずさり、群衆は恐怖に顔を歪める。

ただひとり、アレッサだけが静かに立っていた。

まるで嵐の中心にいるような、揺るがぬ静寂の中で。


彼女はゆっくりと目を閉じ、微笑んだ。

その表情は、どこか祈りにも似ていた。


「清めようとしても、泡は止まらない。」

「それが命のかたちだから。」


その声は、鐘の音のように穏やかに響いた。

怒りをぶつける者も、耳を塞ぐ者も、その一瞬だけは動けなかった。


群衆の隙間で、ひとりの若い神官が立ち尽くしていた。

彼は見てしまった――

泡が光を受けて、まるで涙の粒のように輝く瞬間を。


その頬を、一筋の涙が伝う。

しかし、その音を掻き消すように、レクシオン三世が杖を叩きつけた。


「連れ出せ!」


杖の響きが、鐘の音に変わる。

怒声と足音が混ざり、アレッサの姿は扉の向こうに消えていった。


残された泡が、ひとつだけ静かに弾ける。

その音は、理性の国に生まれた最初の命の音だった。


鎖の音が、神殿の静寂を引き裂くように響いた。

白い大理石の床を、アレッサは裸足で歩く。

冷たい石の感触が足裏に伝わるたび、かすかに泡が潰れるような音がした。


彼女の背後で、杯からこぼれた水が広がっていく。

その水面が、ゆっくりと――泡立ちはじめた。


ポツ。

ポツポツ……。


小さな泡が光を受けて、まるで生き物のように震える。

燭台の炎が揺れ、その泡が吸い込むように光を映す。

闇と光の境目で、確かに命が呼吸していた。


アレッサは振り返らない。

ただ、静かに歩きながら目を閉じる。

彼女の唇がわずかに動く。


「命は、清められない。」

「泡のように、形を変えて生き続ける……。」


その声は祈りにも似て、しかしどこか反逆の響きを持っていた。

まるで理性に抗う小さな酵母の声。


教皇レクシオン三世は祭壇の前で膝をつき、震える声で祈りを捧げていた。


「主よ、穢れを清めたまえ。理性を……秩序を……」


だが、その祈りの隙間に――

小さな音が混じった。


ポツ。

ポツポツ……。


泡が弾ける音。

静寂の中で、それは確かに息づくものの鼓動となって響いた。


神殿の天井に描かれた聖人たちの顔が、揺れる炎に歪む。

まるで、彼らの誰かが笑っているかのように。


そして、アレッサの足音が遠ざかる。

鎖の音が消え、祈りの声が止む。


残されたのは、ただ――

泡が弾ける音だけだった。


それは理性の支配が始まって以来、

この国で最初に響いた、命の反逆の音。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ