第3話:断罪の杯
夜半。
王都の中心にそびえる中央神殿は、まるで氷でできた塔のように沈黙していた。
外では風が雪を運び、ステンドグラスの外面を白く曇らせている。
その内側、儀式の間には、無数の燭台が並び、
ひとつひとつの炎がゆらりと揺れては、長い影を壁に踊らせていた。
床は冷たい大理石。
その中央には、磨き抜かれた円形の祭壇が置かれている。
まるで鏡のように光を反射し、
上に載せられた“純水の杯”だけが、唯一の焦点として静止していた。
透明な水。
一滴の濁りもなく、香りも音も持たない。
それは神聖さの象徴であり、同時に──何も生きていない静止の象徴でもあった。
今宵、ここで行われるのは「理性の浄化の儀」。
罪人が魔性の酒を否定し、神の名のもとに“清らかな水”を飲み干す。
それによって、体内の酵母──生命の芽を死滅させるのだという。
それは古来より、理性の国における“清め”の儀であった。
だがその真意は、赦しではなく服従にある。
命を、熱を、発酵を、
すべて理性の秩序へと沈めるための――静かな殺戮。
神殿の奥では、聖職者たちが低く祈りを唱えていた。
男たちの声が石の天井に反響し、波のように重なってゆく。
その中央、白い祭服をまとった一人の少女──アレッサが跪いていた。
両手は鎖で繋がれ、首には小さな銀環が光る。
その表情は静かで、恐怖の影すら浮かばない。
まるで、自らの運命を受け入れた者のように、
ただ、杯の中の水面を見つめていた。
炎が揺れ、彼女の瞳に一瞬の輝きが映る。
それは、理性の国が決して理解しないもの──
命の揺らめきだった。
鐘が鳴った。
硬質な音が、白い石の天井を何度も跳ね返り、やがて祈りのように空気へ溶けていく。
円形の祭壇を囲み、白衣の神官たちが沈黙の列をなして立っていた。
その中心に立つアレッサの姿は、まるで氷の彫像のようだった。
両腕を鎖で束ねられたまま、視線だけが正面を見据えている。
足元の影が、燭光の揺らめきに合わせて波のように揺れた。
神官たちが一斉に低い聖歌を唱える。
その旋律は穏やかで、しかしどこか無慈悲な規則を感じさせた。
生を讃えるのではなく、静を祈る歌。
命を鎮め、泡を潰すための祈り。
聖歌が途切れると、教皇レクシオン三世が前へ進み出た。
彼の法衣は雪のように白く、杖の先端には黄金の杯が輝いている。
その姿は、まるで神の理性を体現するもののようだった。
「アレッサ・フォン・グラーデ。」
「この杯を飲めば、お前の罪は流れ、酵母は死ぬ。」
「理性は清められ、魂は再び静寂を得るだろう。」
朗々たる声が石壁に反響し、
広間全体がその言葉に支配されたように、時の流れを止めた。
アレッサは一歩、祭壇の前に進み出る。
目の前の杯の中には、透明な水。
光を受けて淡く揺れるその水面は、美しく、完璧で、そして──死んでいた。
彼女は静かに唇を開く。
(アレッサ・モノローグ)
「水は澄んでいる。けれど、息をしていない。」
彼女の目には、確かにそれが見えていた。
泡の立たぬ水。
命の音を持たぬ静止。
それは、この国が愛してやまない“理性”そのものの姿だった。
燭台の炎が、かすかに揺れる。
アレッサの瞳にも、その揺らめきが映り込む。
それは、まだ消えていない──命の微かな泡のように。
静寂。
聖歌も止み、炎さえ息を潜める。
神殿全体が、ひとつの心臓になって鼓動を止めたかのようだった。
アレッサは、祭壇の上の杯を見つめた。
そこには何の香りもない。
風のない世界に浮かぶ、完璧な透明。
理性が磨き上げた静謐の象徴。
彼女はゆっくりと両の手を差し出す。
鎖の擦れる音が、冷たく響いた。
杯が手の中に収まると、その重みがわずかに震えを伝える。
その震えが、まるで彼女の心そのもののように微細で、確かだった。
群衆が見守る中、レクシオン三世が声を放つ。
その声は、神殿の天井を渡り、石壁を伝って広がる。
「飲め。」
「それでお前の罪は終わる。」
その言葉は祝福ではなく、終止符。
彼の語る“終わり”は、清めでも贖いでもない。
それは、命を理性に従わせるための――殺意の祈り。
アレッサは杯を唇に寄せた。
ほんの少し傾け、冷たい液体を一口、喉へと流し込む。
――瞬間、全身に冷たさが走った。
それは水ではなく、“死”そのものが体内を通過していくような感覚。
発酵を止める冷気。
泡を潰し、香りを消す、無の味。
唇を離し、アレッサは静かに息を吐く。
その吐息には、わずかに白い霧が混じった。
夜の冷気ではなく、失われた温もりの名残。
(アレッサ・モノローグ)
「……これが、理性の味。」
杯の中では、まだ少しの水が揺れている。
その表面に、彼女の瞳が映る。
揺れる瞳の奥には、わずかに泡のような光――
消えずに、かすかに生きていた。
アレッサは杯を見つめた。
残る水は、わずかに指先ほど。
それでも、その静止した透明が――あまりに不自然に思えた。
彼女は小さく息を吸い、杯を傾けた。
冷たい液体が、祭壇の白い石に落ちる。
――その瞬間。
ポツ。
ポツポツ……。
水面が、泡立った。
ひとつ、またひとつ。
泡はゆっくりと膨らみ、淡い光をまといながら弾ける。
まるで“息”を取り戻したように、泡が呼吸を始めた。
神官たちが一斉に息をのむ。
燭台の火が揺れ、聖歌の残響が歪む。
冷たいはずの石の上で、確かに“生命の音”が鳴っていた。
「泡立った……!?」
「神が拒んでいる!」
「水が穢れたのだ!」
ざわめきが波のように広がる。
誰もがそれを、奇跡ではなく、災いとして見た。
レクシオン三世が黄金の杖を打ち鳴らす。
音が、空気を断ち切るように響く。
「貴様、何をした!」
彼の声は雷鳴のようでありながら、どこか怯えを含んでいた。
理性で世界を統べてきた男にとって、“発酵”は最も忌まわしい異音。
それは、死の中に命があるという秩序への反逆だった。
アレッサは顔を上げる。
その瞳は静かで、確信に満ちていた。
まるで、泡が映り込んだ光を宿しているように。
「いいえ。」
「これは、“生きている”んです。」
声は柔らかく、しかし神殿の石壁を震わせるほどに澄んでいた。
「あなたたちが“死”と呼ぶものの中にも、息づく力がある。
腐ることも、膨らむことも、みな同じ命の姿です。」
一瞬、沈黙。
聖職者たちが息を止め、光る泡がひとつ、またひとつ弾けた。
「それが、私の信じる世界です。」
その声の余韻が、神殿に“香り”のように漂う。
理性の国の中心で、初めて“命の音”が響いた。
神殿の扉が開く。
夜の冷気とともに、群衆のざわめきが雪崩れ込んだ。
「悪魔の女だ!」
「魔酵母の呪いを撒いた!」
「また理性を穢そうとしている!」
怒号が、祈りの場を飲み込む。
松明の火が揺れ、白衣の神官たちが慌ててアレッサの両腕を掴む。
彼女の袖口からこぼれた布切れが、祭壇の水溜まりに触れ、
――そこでもまた、ひとつ、泡が弾けた。
「見ろ! まだ泡立っている!」
「悪魔の息だ!」
聖職者たちは後ずさり、群衆は恐怖に顔を歪める。
ただひとり、アレッサだけが静かに立っていた。
まるで嵐の中心にいるような、揺るがぬ静寂の中で。
彼女はゆっくりと目を閉じ、微笑んだ。
その表情は、どこか祈りにも似ていた。
「清めようとしても、泡は止まらない。」
「それが命のかたちだから。」
その声は、鐘の音のように穏やかに響いた。
怒りをぶつける者も、耳を塞ぐ者も、その一瞬だけは動けなかった。
群衆の隙間で、ひとりの若い神官が立ち尽くしていた。
彼は見てしまった――
泡が光を受けて、まるで涙の粒のように輝く瞬間を。
その頬を、一筋の涙が伝う。
しかし、その音を掻き消すように、レクシオン三世が杖を叩きつけた。
「連れ出せ!」
杖の響きが、鐘の音に変わる。
怒声と足音が混ざり、アレッサの姿は扉の向こうに消えていった。
残された泡が、ひとつだけ静かに弾ける。
その音は、理性の国に生まれた最初の命の音だった。
鎖の音が、神殿の静寂を引き裂くように響いた。
白い大理石の床を、アレッサは裸足で歩く。
冷たい石の感触が足裏に伝わるたび、かすかに泡が潰れるような音がした。
彼女の背後で、杯からこぼれた水が広がっていく。
その水面が、ゆっくりと――泡立ちはじめた。
ポツ。
ポツポツ……。
小さな泡が光を受けて、まるで生き物のように震える。
燭台の炎が揺れ、その泡が吸い込むように光を映す。
闇と光の境目で、確かに命が呼吸していた。
アレッサは振り返らない。
ただ、静かに歩きながら目を閉じる。
彼女の唇がわずかに動く。
「命は、清められない。」
「泡のように、形を変えて生き続ける……。」
その声は祈りにも似て、しかしどこか反逆の響きを持っていた。
まるで理性に抗う小さな酵母の声。
教皇レクシオン三世は祭壇の前で膝をつき、震える声で祈りを捧げていた。
「主よ、穢れを清めたまえ。理性を……秩序を……」
だが、その祈りの隙間に――
小さな音が混じった。
ポツ。
ポツポツ……。
泡が弾ける音。
静寂の中で、それは確かに息づくものの鼓動となって響いた。
神殿の天井に描かれた聖人たちの顔が、揺れる炎に歪む。
まるで、彼らの誰かが笑っているかのように。
そして、アレッサの足音が遠ざかる。
鎖の音が消え、祈りの声が止む。
残されたのは、ただ――
泡が弾ける音だけだった。
それは理性の支配が始まって以来、
この国で最初に響いた、命の反逆の音。




