理性の崩壊と“星酔戦争”
王都の中心にそびえる聖堂は、静寂に包まれていた。
天井まで届く大理石の柱が並び、壁面には“理性の光”を象徴する巨大なステンドグラス。
だがその光の中で――、いま、罪として焼かれるのは“泡酒”の瓶だった。
祭壇の上で、炎が静かに踊る。
瓶の中で弾ける泡が、最後の息のようにぱちりと消えるたび、群衆の顔がちらりと歪む。
焦げた甘い香りが、どこか懐かしさを誘うのに、誰も声を上げない。
聖壇の上に立つ教皇レクシオンは、銀糸の法衣をまとい、深い皺の刻まれた手を高く掲げた。
その声は冷たく、よく研がれた刃のように響く。
レクシオン:「“星酔”は悪魔の囁きだ。
理性を失い、魂を濁す毒。
我らは神の理によって、秩序を守らねばならぬ!」
信徒たちは息を呑み、頭を垂れた。
だがその沈黙は、信仰の静けさではなかった。
どこか、怯えと空虚が混ざっている。
祭壇の光が群衆の中を流れ――ひとりの男の頬に届く。
それはエルドだった。
彼は分厚い法衣に身を包みながらも、目は僅かに揺れている。
エルド(心の声):「……理性のために、心を殺すのか。」
かつて誇りだった“理性の信仰”が、
今は、誰かを断罪し、焼き払うための道具になっている――。
聖堂の天井から、焦げた泡がひとつ、静かに降ってきた。
それがエルドの掌に落ち、弾ける。
その小さな音が、不思議と重く響いた。
レクシオン:「我らは清めねばならぬ。理性なき者を。泡立つ罪を。」
その声を合図に、聖堂の奥で火柱が上がった。
焼かれる瓶。崩れる香。
“理性の国”が――静かに、狂気へと傾き始めていた。
夜明け前、灰色の空の下に白い吐息が立ちこめていた。
王都の城門が重々しく開き、鉄鎧の列が静かに進み出る。
――“星酔討伐軍”。
馬の蹄が凍った地を叩き、車輪が雪を巻き上げる。
馬車の荷には、重く鈍い音を立てる鉄の鎖と、火炎玉。
それらは“神封印器具”と呼ばれ、泡酒の蔵を焼き尽くすための道具だった。
前列を行く兵士長は、分厚い外套をはためかせながら口を歪める。
兵士長:「命の泡? 笑わせるな。
酔った顔に理性はねぇ。俺たちが正気を取り戻させてやる。」
その言葉に、部下たちは笑い声を上げる――だが、それはどこか乾いた笑いだった。
笑い終えた後の沈黙に、雪が音もなく降り積もっていく。
その隊列の中、ひとりの青年が無言で馬車の奥に揺られていた。
“監査官”として同行する、エルド・リュース。
彼の手には、理性の象徴――金属製の記録帳。
しかしその頁を開くことはなかった。
エルド(心の声):「……討伐、とは何を討つのか。
泡か。命か。それとも――笑顔か。」
吹きつける風が冷たい。
けれど、その風の中に――ほんのわずか、甘くて、懐かしい香りが混じっていた。
誰かが鼻をひくつかせる。
別の兵士が、ふと口の端を緩める。
その香りを“知っている”のだ。
かつて、罪を知らぬ笑顔で杯を交わした日の記憶。
若い兵士:「……なんか、いい匂いがしませんか。」
兵士長(振り返らずに):「気のせいだ。あれは罪の匂いだ。」
だが、否定の声をかき消すように――
雪の向こう、微かな蒸気が立ちのぼった。
白と灰の境に漂うその香りは、凍てついた心の奥で、静かに“発酵”を始める。
「理性の軍勢が歩むたび、泡の記憶が雪に染みた。
それは、誰の胸にも眠る“あたたかい罪”の匂いだった。」
夜空を裂くように、遠くで鐘が鳴った。
それは祈りの合図ではなく――討伐の始まりを告げる音。
雪に包まれたクルナ村の外周に、鉄の鎧がずらりと並ぶ。
たいまつの列が、まるで蛇のように夜を這い、村を囲い込んでいった。
炎の色が、白い雪を朱に染める。
兵士長:「神の名のもとに、“星酔”を封じよ! 一滴も残すな!」
その号令と同時に、火炎玉が投げ込まれた。
次の瞬間――轟音。
蔵の屋根が爆ぜ、橙の炎が夜空に昇る。
蒸留器の銅が悲鳴のような音を立てて溶け落ちた。
アレッサは叫びながら走る。
アレッサ:「水を! 桶を! 子どもたちを先に避難させて!」
彼女の声は炎に呑まれ、それでも届く。
村人たちは必死に子どもや老人を背負い、雪道を駆け抜けた。
その中心で、エルドは立ち尽くしていた。
燃え盛る蔵の光が、彼の頬を照らす。
その瞳には、崩れていく理性の象徴――“秩序の炎”が映っていた。
エルド:「これは……救済か? ただの破壊だ!」
答える声はない。
ただ、焔が爆ぜ、祈りの歌を掻き消すだけ。
コーデリアは、血に染まった手で負傷者を抱えながら振り向く。
その顔に煤がついても、眼差しは真っ直ぐだった。
コーデリア:「理性は人を救うためにある……でも今は、人を焼いている。」
その言葉が、エルドの胸に突き刺さる。
理性という言葉が、こんなにも痛いものだとは思わなかった。
炎の向こう――アレッサが蔵の中に飛び込む。
倒れた樽の間に膝をつき、崩れ落ちた蒸留器の破片を拾い上げた。
掌に当たるそれは、まだ熱を持ち、微かに泡の匂いを残している。
アレッサ(震える声で):「……みんなの、祈りだったのに……」
涙が一滴、破片に落ち、蒸気となって消える。
その瞬間――地の底から、かすかな光が滲み出した。
ひび割れた床の隙間から、青白い脈動が見える。
まるで村そのものが息を吹き返すように。
「焼かれても、壊されても――命は、下へ下へと滲み続ける。
理性が封じても、泡は必ずどこかで発酵を始める。」
アレッサが顔を上げる。
炎の赤と、地底の光の青。
二つの輝きが彼女の瞳に重なったとき――
“魔素泉”が、再び脈動を始めた。
夜空が裂けていた。
赤黒い魔素の霧が、星を覆い隠す。
大地は焼け、血と鉄と灰が入り混じった匂いが漂う。
そこは、もはや“戦場”ではなかった。
理性も、陣形も、祈りさえも崩れ去った“狂気の渦”だった。
人と魔族が入り乱れ、剣と牙が無差別に閃く。
叫び声も、もはや言語を失い、ただ呻きと咆哮が交錯していた。
アレッサはその中心で立ち尽くす。
雪も血も同じ赤に染まり、空気が焼けつくほど熱い。
彼女の頬には、何かが飛び散った。
それは――魔族の血。
地面に滴った血が、彼女の腰に下げた“星酔”の瓶に触れた瞬間、
ぼん、と小さな光が弾けた。
アレッサ:「……これは……?」
その光が魔素の霧に触れると、ほんの一瞬、風が澄んだ。
狂気に染まっていた兵士の瞳が、かすかに揺らぐ。
同じく、暴れ狂っていた魔族の腕が止まり、息を荒げて膝をつく。
アレッサは悟った。
それは酒の香り――“星酔”が、魔素の暴走を鎮めている。
アレッサ:「魔素が……酒と反応している……?
酔えば……暴走が止まる!」
彼女は震える手で、背の荷を下ろした。
そこには、かつてランバルトが遺した“神鉄の蒸留器”――
その最後の原型が、慎重に包まれていた。
傷だらけの金属を撫で、彼女は小さく微笑む。
アレッサ:「ランバルト……あなたの“祈り”、借りるわ。」
地面に設置し、魔素石を炉心に投げ込む。
蒸留器が低く唸り、青白い火が灯る。
音が響く――鉄の鳴動、泡の立つ音、そして風。
蒸留器の口から、透明な泡が立ち上り始めた。
泡は夜気に触れ、淡い金光を放ちながら浮かんでいく。
それが戦場全体に広がると、空気が変わった。
暴走していた魔素の渦が、泡の光を受けて静まり始める。
苦しげにのたうつ兵士の表情が、安堵に変わっていく。
魔族の叫びが、やがて嗚咽へと変わる。
兵士:「……あれは……酒の、香り?」
魔族の女:「懐かしい……昔、母が作ってくれた……匂い……」
アレッサは両手を空に広げた。
泡の光が彼女の髪を照らし、まるで聖女のように輝く。
アレッサ:「笑って……酔って……それが、人間よ!」
泡は夜空を埋め尽くし、
それはまるで“理性の檻”を溶かすように、光の粒となって舞い上がった。
そして――戦場に、初めて“静寂”が訪れた。
雪が舞い、泡が溶け、涙が落ちる。
そのすべてが、混ざり合い、
夜明けの前に“新しい命の匂い”を残していった。
灰色の空が、まるで終焉の鐘のように重く垂れ込めていた。
王都はすでに瓦礫の街と化し、
聖堂の尖塔も半ば崩れ、天へ伸びる祈りの形を失っていた。
だがその広場に――わずかな“灯り”があった。
アレッサとコーデリアが抱えて運んできた“星酔の瓶”。
砕け散った石畳を照らすように、瓶の中で淡い金光が揺れている。
吹き荒れる魔素の風の中、
エルドが立っていた。
白い外套は灰と血に染まり、
手に持つ書は、もはや“理性の経典”ではない。
代わりに、その腕には――ひとつの杯。
兵士たちが取り囲む。
その背後では、暴走した魔素の炎が
建物の影を飲み込んでいく。
兵士長:「逃げろ、エルド! ここはもう終わりだ!」
エルド:「終わりじゃない!」
エルドは振り返り、
崩れ落ちた聖堂の前で、荒れ狂う風に叫んだ。
エルド:「聞け! 理性では救えぬ命がある!」
兵士たち:「……!」
彼の声は、瓦礫の隙間に反響した。
その叫びの裏で、アレッサが静かに瓶の栓を抜く。
ぷしゅ、と泡の音。
光が走る。
“星酔の雫”が空気に触れた瞬間、
魔素の嵐が一拍、息を止めたように静まった。
コーデリア:「……神よ。理性を封じ、命を解き放ちたまえ。」
アレッサは酒を杯に注ぎ、
震える手で最前列の兵士へと差し出す。
アレッサ:「飲んで。これは毒じゃないわ。――祈りよ。」
兵士は躊躇い、
だが次の瞬間、崩れ落ちる塔の音が背後から轟く。
恐怖の代わりに、彼は静かに杯を受け取った。
唇をつけた瞬間――彼の目が見開かれた。
その瞳に、光が宿る。
兵士:「……あたたかい……」
一人、二人と、兵士たちが酒を口にする。
そのたびに魔素の風が弱まり、
泡が空へ舞い上がっていく。
笑い声が生まれた。
涙も流れた。
敵味方を越えて、互いに抱き合う姿が現れ始める。
アレッサ:「笑って。酔って。……それが、人間よ!」
その声に応えるように、広場全体が光に包まれる。
泡が雪のように舞い、
崩れかけた聖堂のステンドグラスに映り込んだ。
ガラスの破片が、光を受けて輝く。
まるで神が笑っているかのように。
やがて夜が明け、
光の粒が王都を覆う。
魔素の嵐は静まり、
焦げた街路に、かすかな“ルヴァインの香”が漂う。
――理性が崩れた朝に、
初めて“祈り”が生まれた。
聖堂の天蓋が崩れ、灰と光が入り混じる。
王都の心臓――神の座と呼ばれた玉座の間は、
いまや静寂と瓦礫に支配されていた。
破砕したステンドグラスの欠片が床を覆い、
その一枚一枚に、炎と泡の残光が揺れている。
玉座の前に、ひとりの老いた影。
レクシオン教皇。
法衣は煤に焼け、かつての威厳はその背から抜け落ちていた。
彼は両手で顔を覆い、崩れかけた祭壇の前に膝をついている。
レクシオン:「……理性は……秩序を守るはずだった。
なのに、どうして……神の名で、人を焼いたのだ……」
その声は、かすれた祈りのようでもあり、
告解のようでもあった。
そこへ、ゆっくりとした足音。
エルドが現れる。
外套は灰と血に染まり、だがその目には澄んだ光があった。
手にしているのは、“星酔”の瓶。
光を宿した泡が、まだ生きていた。
エルドは崩れかけた玉座の前に進み出て、静かに膝を折る。
エルド:「教皇猊下……神が与えた泡です。
理性で裁くためでなく――赦すために。」
レクシオンはその言葉に顔を上げた。
頬には煤の跡、目には長年の信仰の影。
レクシオン:「赦す……? この私が、誰を?」
エルド:「まず、ご自身を。」
エルドは瓶の栓を開ける。
ぷしゅ、と小さな音。
崩れた聖堂に、ほのかな香りが広がる。
泡が立ちのぼり、朝の光と交じり合う。
その美しさに、レクシオンの肩が震えた。
彼は震える手で、エルドの差し出す杯を受け取る。
そして、恐る恐る唇をつけた。
ひとくち。
泡が舌に触れた瞬間――彼の目が見開かれた。
その瞳に、光が差す。
レクシオン:「……これは……神の赦し、なのか……。」
頬を伝う涙が、一粒、杯の中に落ちる。
それが泡と混じり合い、柔らかく弾けた。
次の瞬間、背後のステンドグラスが砕ける音。
朝日が差し込む。
黄金の光が、舞い上がる泡を照らす。
崩れゆく玉座が、まるで光の海に沈むように包まれる。
エルドは静かに目を閉じ、祈るように呟く。
エルド:「理性は道を示し、命は赦しを与える。
――どちらも、神の手の中に。」
泡が光を反射しながら天へと昇り、
その残り香が、崩れた聖堂に“命”の匂いを残した。
――王都の夜明け。
理性の王国が滅び、祈りの国が生まれた瞬間だった。
――夜が終わった。
王都を覆っていた魔素の霧が、ゆっくりと晴れていく。
崩壊した塔。
瓦礫に沈む広場。
焼けた石畳の上に、柔らかな香りが漂っていた。
“星酔”の香――泡酒の、あの甘く澄んだ香気。
朝日が昇る。
光に照らされ、街全体が金色の霞に包まれる。
そしてその中から、無数の泡が立ちのぼった。
大小さまざまな泡が、空へ、空へ。
それは祈りのように静かで、祝祭のように美しい。
焼け跡に座り込んだ人々が、ひとり、またひとりと顔を上げる。
その隣には、角を折った魔族の青年。
互いの肩を支え合い、笑いながら空を見上げる。
敵も、信徒も、異端も――
いまこの瞬間、誰もが“同じ泡”を見ていた。
少し離れた瓦礫の上で、コーデリアが呟く。
コーデリア:「泡は消える。けれど、香りは生き続ける。」
その隣で、アレッサが目を細め、風に髪をなびかせた。
アレッサ:「命が発酵をやめない限り……この世界はまだ、造りかけよ。」
二人の声が、朝の光の中に溶けていく。
丘の上。
エルドがひとり立っていた。
手には、最後の一本となった“星酔”の瓶。
彼は静かに栓を抜き、空へ掲げる。
泡があふれ、太陽の光を受けて七色に輝く。
エルド(微笑して):「理性も、命も……どちらも泡のように、美しい。」
風が吹く。
泡が太陽の中に溶け、空を黄金に染める。
その光は、まるで“神の息吹”のように世界を包み込んだ。
――そして、ナレーションが流れる。
「理性は秩序を築いた。
命はそれを崩し、また新たに泡立てた。
――それこそが、“神の創造”という名の発酵だった。」
最後の泡が、静かに、空の彼方で弾ける。
その香りだけが、永遠に残った。




