第2話 理性の王子
王都グランセルの朝は、どこまでも澄んでいる。
その清らかさは、まるで空気から匂いというものが抜け落ちたかのようだった。
王城の最奥、謁見の間。
磨き抜かれた白大理石の床が光を反射し、足音ひとつが壁に吸い込まれていく。
高窓から差し込む陽光は白く、だが温度を持たない。
照らされるものすべてが、まるで標本のように整い、静止していた。
その中央に立つ男がひとり。
王太子、エルド・ヴァレンティヌス。二十五歳。
白銀の鎧の上に、王家の紋章をあしらった紺のマントを掛けている。
端正な顔立ちに、一点の乱れもない。
“理性の王子”――そう呼ばれる所以は、彼の冷徹な判断力と均整の取れた思考にある。
だが、今、その整然とした瞳の奥には、薄く影が射していた。
玉座の上には老王レオノール三世。
その傍らには、純白の法衣をまとった教皇レクシオン三世が立つ。
二人の権威が並び立つ光景は、この国の秩序そのものだった。
レオノール王が静かに口を開く。
> 「アレッサ・フォン・グラーデ。
お前の婚約者にして、“異端の発酵学士”と呼ばれた女の断罪が、無事終わったそうだな。」
エルドはうなずき、頭を垂れる。
> 「はい。儀式は滞りなく。」
レクシオンが、金の杖を軽く床に打ち付けた。
乾いた音が響く。
> 「彼女の罪は明白だ。魔素を発酵させ、理性を惑わせる酒を造った。
それは神の定めに背く行為。国の礎を揺るがしかねぬ。」
エルドの眉がわずかに動いた。
ほんの一瞬、彼の胸の奥にアレッサの声が蘇る。
──〈泡が膨らむのは、命がまだ息をしている証拠よ〉。
だが、その記憶をすぐに押し殺す。
理性の王子に、ためらいは許されない。
> 「……承知しております。
彼女の研究は、あまりにも危険すぎました。」
レオノール王はゆっくりと立ち上がり、書簡を差し出す。
> 「ならば、王国の理性を示せ。
アレッサの名を記録から抹消するこの文書に、そなたの署名を。」
謁見の間の空気が一層静まる。
エルドは羊皮紙を見つめる。
墨の匂いすらしない――まるで“無臭の宣告”だ。
彼は手袋を外し、羽根ペンを取った。
その指が、わずかに震える。
誰も気づかぬほどの、微かな動き。
> (アレッサ。君は本当に、罪人なのか?)
胸の奥でそう問いながらも、ペン先は止まらない。
筆が走る音が、静寂を切り裂いた。
> 「……エルド・ヴァレンティヌス。理性の名において、署名します。」
最後の文字を書き終えたとき、レクシオンが微笑んだ。
それは慈悲にも見えたが、実際は“確認印”のような冷たい微笑だった。
> 「よろしい。これで王国は、穢れから解放された。」
広間に再び鐘の音が響く。
白い光が、彼の瞳を照らす。
だが、そこにはどこか遠く、凍えるような空虚さが宿っていた。
断罪の鐘が鳴り止んだ翌日。
王城グランセルの高塔には、なおも余韻のような静けさが漂っていた。
風は冷たく、窓辺のカーテンさえ動かない。
謁見の間の奥――白亜の円卓を囲んで、王国の重鎮たちが静かに座している。
その中心に、老王レオノール三世がいた。
白髪の下の瞳は、歳月を経てもなお鋭く、氷のような光を宿している。
会議の目的はひとつ。
昨日執り行われた〈アレッサ・フォン・グラーデ断罪〉の正当性を、記録として残すためであった。
書記官が羊皮紙を整え、宰相が一通の報告書を差し出す。
> 「断罪の儀、滞りなく完了。民の間には一時の動揺はあれど、王国の秩序は保たれております。」
老王はうなずき、低く言葉を紡ぐ。
> 「理性の王国において、感情は毒だ。
……アレッサの研究は、民の心に亀裂を入れかねん。
“酒”とは甘き麻酔にすぎん。人を誤らせる。」
その言葉に、王城の空気がさらに重く沈む。
誰もが沈黙を保つ中、ただ一人、王太子エルドだけが微かに視線を伏せた。
(――彼女は、そんなつもりではなかった。)
(貧しい人々を、少しでも笑顔にしたかっただけなのに。)
胸の奥でその思いが泡のように浮かび上がるが、彼はすぐに押し殺した。
王の隣に立つ教皇レクシオン三世が、まるでそれを読んだかのように、静かに口を開く。
> 「王子殿下。理性を守るとは、感情を棄てることです。
愛も、哀れみも、すべては判断を濁らせる。
あなたが“王”となるためには、迷いは敵です。」
レクシオンの声は穏やかだったが、その底には祈りではなく“命令”の響きがあった。
広間にわずかな時間、鐘の音のような沈黙が流れる。
やがて、レオノール王が一枚の文書を差し出した。
その紙には、王国法の記録に残すための最後の署名欄が空白のまま残されている。
> 「エルドよ。
お前の手で、この判を押せ。
民の安寧のために――王国の理性を証すために。」
エルドは視線を落とす。
羊皮紙の上には、あの名――「アレッサ・フォン・グラーデ」。
もう、彼女はこの国の記録から消される存在。
それでも、インクのにじみはまだ新しく、彼女が“昨日まで生きていた”証のように見えた。
> (……君は本当に罪人なのか?)
その問いが、胸の内で泡のように弾ける。
だが、隣のレクシオンの瞳がわずかに動いたのを見た瞬間、彼は悟った。
――ここで迷えば、王国の秩序そのものが揺らぐ。
エルドはゆっくりと羽根ペンを取り、淡いインクに浸す。
指先が震える。だが、その震えを理性の仮面で押さえつけるように、筆先を滑らせた。
> 「……はい。理性の名において。」
墨の線が、冷たい羊皮紙の上を走る。
その瞬間、エルドの中で、何かがひとつ――静かに泡のように潰えた。
レオノール王が頷き、レクシオンが満足げに微笑む。
誰も気づかぬまま、エルドの手の中のペンから、黒い滴がぽたりと床に落ちた。
まるで、それが“彼自身の心”のように。
王城の奥、謁見の間に隣接する控室。
窓の外では雪がちらつき、石壁に積もる白が夜明け前の光に淡く反射していた。
炉は消され、室内は冷えきっている。
それでも、部屋の中央に立つ二人の距離は、炎よりも熱く、そして脆かった。
アレッサ・フォン・グラーデは、深紅の外套を羽織り、旅装のまま立っていた。
髪に残るわずかな香り――葡萄と蜜の匂い。
それを嗅いだだけで、エルドの胸がかすかに疼く。
> 「王子殿下。お別れの挨拶に来てくださったのですね。」
その声音は、まるで別れをもう受け入れている者のものだった。
エルドは唇を結び、目を逸らす。
> 「……いえ。最後に、確認しておきたかったのです。あなたの考えを。」
外では雪が静かに降り続けている。
その音が、まるで世界の呼吸のように聞こえた。
> 「君の研究は……危険だ。」
> 「魔素を発酵させれば、制御できぬ力を生む。
それは神を冒涜する行為だ。」
アレッサは短く息を吐き、微笑んだ。
その笑みは、痛みを包むようなやさしさを帯びていた。
> 「ならば、花も罪になりますね。」
エルドの眉がわずかに動く。
> 「花、だと?」
> 「咲いて、枯れて、また種を残す。
死を抱きしめて生きるのが、自然というものです。
発酵も、それと同じ。
命が命をつなぐ――ただ、それだけのことです。」
> 「……君の理想は、危険すぎる。」
> 「酒が人を救う? それは夢物語だと思いますか?」
> 「人は夢では生きられない。」
> 「でも、夢を追うことを“罪”と呼ぶなら……」
> 「この国は、いつ笑うのですか?」
沈黙。
その一瞬、雪明かりが窓から差し込み、アレッサの頬を照らした。
その光が、まるで泡のように儚く揺れる。
エルドは言葉を失い、拳を握った。
瞳の奥に、理性と情熱の二つの炎が交錯する。
(……違う。彼女は間違っていない。)
(それでも、正しいと言えないのが“王”という立場だ。)
彼は深く息を吸い、感情を押し殺した。
> 「……これ以上は、君を守れない。」
アレッサは小さく目を閉じる。
そして、穏やかに微笑んだ。
> 「ええ。王子さま。
あなたが理性で私を断つのなら、
私は“酵母”であなたを赦しましょう。」
エルドの肩がわずかに震えた。
しかし彼は、背を向けることしかできなかった。
扉を閉める直前、ふと、微かな香りが彼の鼻先をかすめる。
甘く、暖かく、命の匂い。
その匂いを振り払うように、エルドは足早に去った。
残されたアレッサは、そっと窓辺に手を伸ばす。
雪の結晶が、指先で溶け、わずかに泡立った。
> 「……ほら、ね。
命は、止まらない。」
扉が閉じられた瞬間、室内の空気が崩れた。
王子の足音が遠ざかるのを聞きながら、アレッサは膝から力が抜けた。
冷たい石の床に手をつく。
掌の下で、冷たさと共に、ほのかな香りが蘇る。
かつて彼と酌み交わした、小さな試験酒。
黄金色の液体が揺れ、二人で笑った夜が蘇る。
> 「あのとき……あなたも、笑っていたのに。」
声に出すと、涙の代わりに微かな笑みが零れた。
彼女は静かに目を閉じ、掌に残る残り香を感じながら呟く。
> 「理性は、きっと美しい。
でも、少しだけ冷たすぎるのね……。」
その言葉は、誰に届くこともなく、
冷えた石壁に吸い込まれていった。
──同じ頃。
長い廊下を歩くエルドは、途中で立ち止まっていた。
肩越しに、閉ざされた扉を一度だけ振り返る。
雪の反射で白く染まる廊下。
彼の手の中には、ひとつの小瓶があった。
アレッサが最後に贈った、実験用の酒。
光を受けて揺れる液面の奥では、
細かな泡が生まれては消え、また生まれていた。
まるでそれ自身が、呼吸しているかのように。
> 「……彼女の夢が、本当に“罪”なのか?」
囁きのような言葉が、雪の静寂に消える。
けれど胸の奥では、答えの出ない問いが脈打っていた。
> 「だが、僕は──理性の王子である。」
そう言い聞かせるように、彼は小瓶を懐にしまう。
顔を上げると、そこには凍てつく王国の空が広がっていた。
白い息が立ちのぼり、すぐに消える。
それはまるで、理性に触れた温もりの儚さのようだった。




