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悪役令嬢、追放後の酒造り。──その一滴、世界を救う。  作者: 南蛇井


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19/22

酒と鉄と祈り

雪解けの朝――。

クルナ村の外れにあるアレッサの蔵は、まだ冬の息を残していた。

白い息が梁をくぐり、石の床へと降りる。冷たい空気の下、床板の奥から、かすかに「しゅう……」という音が聞こえていた。


アレッサはランプを手に、床の扉を開く。

階段の下には、古い洞窟。湿った岩肌が青白く光り、そこから淡い蒸気が立ち上っている。

――ここが、かつて“魔素泉”が噴き出した場所。

王国が恐れて封印した、命の暴走源。


だが、アレッサの眼差しは静かだった。

彼女にとってそれは「災厄」ではなく、「命の底の泡」――。

いずれまた、人と神をつなぐ導きになると信じていた。


岩壁の隙間から、鉄の軋む音。

階段を降りてくる大男――鍛冶師ランバルトが、巨大な金属器を背負って現れた。

肩には霜が降りている。それでも目は、炎のように生きていた。


「本当にここでやるのか?」

ランバルトの声は低く響く。

「魔素が暴れたら、村ごと吹き飛ぶぞ。」


「だからこそ、導かなきゃ。」アレッサは言う。

「封じるだけじゃ、命は腐る。泡は逃げ場を求めて、また溢れるの。」


ランバルトはため息をつき、背中の荷を降ろす。

それは銀色に光る鉄の機構――曲線を描く管、繊細な符文が刻まれた胴。

彼の鍛えた“神鉄ミスリル製の蒸留器”だ。


「こいつは、神の金属でできてる。」

ランバルトは手でなぞりながら呟く。

「どんな魔素も、祈りも、まっすぐに通す。――まあ、うまくいきゃ、だがな。」


アレッサは微笑む。

「祈りで封じるなら、鉄で導けばいい。命の泡を、神に返すために。」


「鉄が神に届くなら、俺たちはとうに神を鍛ってるさ。」

その言葉に、アレッサは笑い、灯を掲げた。


光が反射し、洞窟の壁に金属の輝きが跳ねる。

封印の印が、わずかに震えた。

地の底で眠る泉が、二人の声に応えるように泡をひとつ――ぽん、と弾けさせた。


アレッサはその音を聞き取り、そっと目を閉じた。

それは恐れではなく、祈りの始まりだった。


「目覚めて。命の泉。

 私たちはもう、封じるために来たんじゃないの。」


その言葉に、蒸気がゆらりと立ちのぼる。

鉄と祈り――冷たくも温かいものが、ゆっくりと調和を始めた。


――この瞬間、創造の幕が上がったのだった。



夜が、蔵を包んでいた。

外は雪解けの風が吹きすさび、屋根の氷が滴を落とす。

その音に混じって、ひとつ――鍛冶場から響く低い衝撃音。


カン――カン――カン。


火花が闇を裂き、鉄の匂いと酒の香りが同時に立ちのぼる。

ランバルトが上半身を汗で濡らしながら、真紅に染まった金属を打っていた。

彼の前の台には、溶け合う金属の流れ。


神鉄ミスリルに、聖銀セレスティアを混ぜ、

そこにほんの一滴――“星酔ほしよいの雫”の残渣を垂らす。


「鉄に酒を混ぜる馬鹿がどこにいる、ってか……」

ランバルトは苦笑する。

「でもよ、鉄も命も、熱と泡で出来てるなら――悪くねぇだろ。」


火床の光が弾け、鉄槌が振り下ろされるたびに、

周囲の空気が震えた。だが、その響きには不思議な“柔らかさ”があった。


――それは祈りの音だった。


背後で、アレッサとコーデリアが静かに詩を唱えている。

焔の明滅に合わせて、二人の声が重なっていく。


コーデリア:「この音……まるで鐘のよう。」

ランバルト:「神が聞くなら、いい鍛冶場だな。」


アレッサは両手を胸に組み、金属の光を見つめた。

「祈りは、熱を通す。心を打てば、鉄も答えるの。」


ランバルトは笑い、もう一度、槌を握る。

鉄が鳴る。泡のような火花が舞う。

そのひとつひとつが、命の息吹のように弾けて消える。


やがて、炉の中の光がゆっくりと沈み、

残ったのは、青白く輝く金属の塊。


ランバルトはそれを水に沈めた。

**ジュウッ――**という音とともに、蒸気が白く立ち上る。

その中に、まるで星の光のようなきらめきが見えた。


「……できたな。」

ランバルトはつぶやく。


コーデリアが目を細める。

「これが、“神鉄”……?」


「いや――」アレッサが微笑む。

「祈りで生まれた、命の鉄よ。」


蒸気の中、三人の影が重なり、

まるで新しい“神話”が、鍛冶場の音から生まれたようだった。


夜明け前の蔵は、静寂に包まれていた。

炉の火はすでに落ち、代わりに朝の光が小窓から差し込む。

薄明の中、完成した神鉄の蒸留器が静かに息づいていた。


管の先端から――ひと雫。


ぽたり。


その瞬間、蔵の空気がふるえた。

落ちた液体は、ただの酒ではなかった。

透き通った滴が、落下と同時に光を放ち、

床下に眠る“魔素泉”の脈動と共鳴する。


アレッサは思わず息をのむ。

掌を差し出すと、その雫が指先に触れた。

ほんの一瞬――温かい。


けれど次の瞬間、まるで心臓がもうひとつ生まれたような衝撃が走る。

視界の端で、泡の粒がふわりと浮かび、朝の光に照らされて虹色に輝いた。


アレッサ:「……これが……。」


隣でランバルトが目を見張る。

蒸留器の内部は青く光り、

金属そのものが呼吸をしているように見えた。


「まさか、魔素と同調してるのか?」


アレッサは首を振り、そっと雫を唇に触れさせた。

味――それは酒でも水でもない。

胸の奥が熱くなり、涙が零れそうになるほど“生きている”味だった。


アレッサ:「この泡は、争いのためじゃない。

  命と命を溶かすための、祈りの味よ。」


その言葉に、コーデリアが小さく十字を切る。

「……星のように酔わせる、か。」


アレッサは微笑み、掌の中の滴を見つめる。

「名をつけましょう。――星酔ほしよいの雫。」


その名が告げられた瞬間、

蔵の奥で魔素泉が静かに光を放つ。

蒸気が立ちのぼり、泡の粒が宙に舞い、

それらが光を受けて――星のように弾けた。


ランバルトがその光景を見上げ、ぽつりとつぶやく。

「まるで、神が“乾杯”してるみてぇだな。」


アレッサとコーデリアは笑い合う。

雪解けの朝、冷たく透明な空気の中で、

新しい“奇跡の酒”が誕生した。


それはただの酒ではない。

魔と人、理性と命――あらゆる隔たりを“溶かす”ための、一滴だった。

夜。

クルナの村は、雪解けの祝宴に包まれていた。

焚き火がいくつも灯り、泡立つ酒瓶が並び、

笑い声と弦楽の音が夜空に溶けていく。


アレッサはその中心で、慎重に一本の瓶を掲げた。

中で微かに光を放つ――星酔の雫。

それは泡のきらめきを宿した“命の酒”だった。


アレッサ:「皆に捧げます。争いの代わりに、この泡で祝おう。」


人々が歓声を上げ、木のカップを掲げる。

弾ける泡、笑い、温かな光。

まるで村全体がひとつの心臓のように脈打っていた。


――そのときだった。


焚き火の向こう、雪明かりの中に影がひとつ。

人ではない、黒い外套をまとった長身の影。

尖った耳と、淡い灰紫の肌。


「……魔族だ。」

誰かが息をのむ。

その場の空気が、一瞬で凍りついた。


しかしアレッサは動じない。

彼女は静かに一歩前へ出て、瓶を手にしたまま声をかけた。


アレッサ:「あなたも、寒いでしょう。少し……温まっていきませんか?」


男――ザラドは、赤黒い瞳で彼女を見つめた。

その瞳の奥は、かつて“禁忌の酒”に狂わされ、理性を失った炎のよう。

今は、ただ虚ろな灰色の光を湛えていた。


アレッサはためらわず、カップに星酔の雫を注ぐ。

泡が立ち、淡く光る。

その光がザラドの頬を照らした。


アレッサ:「この酒は、争いを溶かすために生まれたの。」

ザラド:「……酒で、俺を赦すつもりか。」

アレッサ:「赦しじゃないわ。――もう一度、生きるための味よ。」


沈黙。

ザラドはそのカップを手に取り、ためらいなく飲み干した。


瞬間――焚き火がふっと揺れ、風が止む。

彼の全身が淡い光に包まれ、

その瞳の奥に“炎”が戻った。


ザラド(かすれた声で):「……これだ……。

 これが、我らの失われた“血の味”だ。」


目尻から、ひとすじの涙がこぼれた。

その涙にも、わずかに泡が混じり、月光を反射して消えていく。


コーデリアが小さく息をのんだ。


コーデリア:「……命が、戻った。」


やがて、村人の誰かがカップを差し出した。

恐れはもうない。

泡を分かち合う笑いが広がり、

焚き火の光が人と魔を分け隔てなく包み込む。


ランバルトが肩を組みながら笑う。


ランバルト:「いい夜だな。人間も魔族も、酔えば同じ顔だ。」


アレッサは焚き火の向こう、涙を拭うザラドを見つめた。

彼の頬を流れる雫は、まるで星の泡のように淡く光り、消えていった。


そして、風がひと吹き。

その夜、クルナの村に“新しい文化”が芽吹いた――

人と魔が同じ酒で酔い、同じ泡を見上げる、共酔の祈りが。

夜のクルナ村は、まるで星が降りたようだった。

雪解けの大地に焚き火が並び、

その炎の周りで村人たちは笑い、歌い、杯を掲げていた。


蔵の前の大樽には、新たに生まれた“星酔の雫”。

光を帯びた透明な液体が、まるで命そのもののように泡立っている。


アレッサ:「さあ、皆――これが、私たちの“奇跡”よ。」


拍手と歓声が湧き起こり、

子どもたちは泡を手でつかもうとして、笑い声を上げる。

その笑いが、春を呼ぶ風のように夜を温めていた。


だが、その中に――ひとり、冷たい影が立っていた。


黒い外套、煤けた皮鎧。

長く尖った耳、そして灰紫の肌。

焚き火に照らされ、鋭い瞳だけが光っている。


村人A:「……まさか、魔族?」

村人B:「追い払え! 村を荒らしに来たんだ!」


叫びとともに、人々の笑顔が凍る。

しかしアレッサだけは動かなかった。

彼女は手にした瓶を掲げ、静かに一歩踏み出す。


アレッサ:「待って。この人は……“飲みに来た”のよ。」


村人たちが息をのむ中、アレッサは外套の男の前に立つ。

炎が二人の影を壁に映し、ゆらゆらと溶け合う。


アレッサ:「あなたも、寒いでしょう? 少し温まりませんか。」


男は黙って彼女を見下ろした。

頬に刻まれた古傷――そして、焦点の定まらぬ瞳。

その中には、かつて禁忌の酒に溺れ、理性を失った過去の残響があった。


ザラド:「……俺を覚えているのか。人間。」

アレッサ:「ええ。あなたの剣が、村を救ったことも。」


アレッサは瓶の口を開け、慎重に木の杯へ注ぐ。

ぽたり――透明な一滴が落ちる。

次の瞬間、淡い光と共に泡が立ち、

それが小さく弾けて夜気に溶けた。


アレッサ:「これは“星酔の雫”。

 争うためじゃない。命と命を、溶かすための酒。」


ザラドはしばし黙したまま、

炎に照らされるその杯を見つめた。

やがて、ゆっくりと唇を寄せ――飲み干した。


一瞬、風が止んだ。

彼の喉が鳴り、息が白くほどける。

そして――その瞳に光が宿った。


ザラド:「……これだ……我らの……失われた“血の味”だ。」


その言葉とともに、彼の目尻から一筋の涙がこぼれる。

それは銀色の泡のように輝き、頬を伝って消えていった。


コーデリア(小声で):「……命が、戻った。」


村人たちは息を呑み、やがて静かに杯を掲げた。

誰かが言う――「飲もう。人も魔も、同じ泡の下で。」


その声が合図のように広がり、

人々と魔族が共に笑い、杯を合わせる。


焚き火が高く舞い上がり、泡が夜空に昇る。

まるで星々が笑っているかのように。


ランバルト:「鉄で打った蒸留器も、祈りで作った酒も――

 結局、人を繋ぐための“道具”だったんだな。」


アレッサは静かに頷いた。

風が彼女の髪を揺らし、

遠くで泡が弾ける音が、まるで祈りのように響いていた。


――その夜、クルナ村で初めて、

“人と魔が同じ酒で酔う”という文化が生まれた。

それは争いの終わりではなく、共に生きる始まりだった。


夜が明けかけていた。

クルナ村の丘の上――白く凍てついた草の上を、朝の風がゆるやかに撫でていく。


空の端には、金糸のような光。

長い夜を越えた世界が、静かに息を吹き返す瞬間だった。


丘の上に、四つの影が並んでいた。

アレッサ、コーデリア、ランバルト、そしてザラド。

人と魔族、鍛冶師と神官、そしてひとりの醸造家。

それぞれの手に、小さな木の杯が握られている。

杯の中には、透明な酒――“星酔の雫”。


それは光を受けて、まるで液体の星のように瞬いていた。


ランバルトが曇った鉄槌を腰に下げ、朝の光を見上げる。


ランバルト:「……夜通し打っても、鉄は人の心ほどには素直にならんもんだ。」


コーデリアが微笑む。


コーデリア:「でも、祈りは届く。たとえ言葉にしなくても。」


アレッサは二人の言葉を聞きながら、静かに一歩前に出た。

丘の先、霧の向こうにはクルナの村――

その煙突から立ちのぼる白煙が、夜明けの光に溶けてゆく。


アレッサは杯を両手で包み、唇を開いた。


アレッサ:「祈りは言葉じゃない。

 生きること、それ自体が――祈りになるの。」


彼女の声は、春の風に混じって丘を渡った。

その瞬間、四人は無言のまま杯を掲げる。


朝日が昇る。

橙の光が杯を照らし、

中の泡が光を受けてふわりと宙へ舞い上がった。


それはまるで、夜空の星が地上に戻っていくような光景だった。


泡は風に乗って弾け、

その輝きが頬に当たるたび、心の奥に温かなものが灯る。


ザラドは低く呟いた。


ザラド:「……これが、祈りか。血でも剣でもない……穏やかな力。」


コーデリアがうなずく。


コーデリア:「そう。争いのない祈り。命の泡。」


ランバルトは杯を掲げ、太陽に向かって笑った。


ランバルト:「鉄も祈りも、結局は“作る”ってことだな。

 なら俺たちは――神の鍛冶場にいるってわけだ。」


アレッサは静かに頷き、朝の光の中で呟く。


アレッサ:「泡は消える。けれど、その匂いは残るわ。

 ――命が、まだ発酵をやめていない証として。」


四人の笑顔の上を、朝の風が通り抜ける。

その風の中に、ほんのかすかに――甘い酒の香りが漂っていた。


それは、人と魔とが共に迎えた最初の夜明けの香り。

技術と祈りが、初めてひとつに溶けた瞬間だった。


――“星酔の雫”の誕生は、

 クルナの地に新しい“信仰”を生んだ。

 それは神を崇める祈りではなく、

 生きる者すべてが泡と共に笑うための――ささやかな祈りだった。


夜明けが完全に世界を包みはじめたころ。

クルナ村の蔵の屋根――雪をいただく瓦の上で、ひとりの男が風に立っていた。


外套の裾を翻し、銀縁の眼鏡の奥に朝の光を宿す。

理性の使徒――エルド。


彼の視線の先、丘の向こうでは、アレッサたちが杯を掲げていた。

泡が立ち、朝日に溶け、やがて空へと舞い上がる。

その光景を、彼はただ静かに見つめていた。


手には、一冊の書ではなく――

淡く光る小瓶。

“星酔の雫”と呼ばれる酒の、試作品だった。


瓶の中では、金の粒がゆらめいている。

それはまるで、理性の光と命の泡が、ひとつに溶け合ったような輝きだった。


エルドは指先でその瓶を軽く傾け、呟いた。


エルド:「理性は秩序を築き、命はそれを泡立たせる……

 どちらも、神が与えた“創造”だ。」


朝の風が吹き抜け、瓶の口から小さな泡がひとつ、ふわりと飛び出した。

それは雪明かりの中で弾け、微かな香りを残して消える。


その香りを、エルドは目を閉じて吸い込んだ。

冷たく、そして温かい――相反する感覚が胸に広がる。


彼はゆっくりと理性の書を懐から取り出す。

表紙には、今まで何百と重ねた戒律の印。

だが次の瞬間、エルドはその書を閉じ、胸に抱えたまま静かに笑った。


エルド:「……理性も、命も。

 もしそれが同じ神の息なら――私はもう、どちらも疑わない。」


空を見上げる。

そこには、夜の名残をかすかに残す薄青の天。

泡の粒がいくつも昇り、やがて消えていく。


雪が光を帯び、世界がゆっくりと動き出す。


やがて彼は蔵を背にし、歩き出した。

その足跡が、白い屋根に新しい道を刻む。


ナレーション:

「泡は消える。だがその匂いは、誰の記憶にも残る。

 理性が封じようとしても――命は、発酵をやめない。」


そして遠く、鐘の音が響く。

王都からの報せ――“神の審判”の刻が近づいていた。


エルドは振り返らずに呟く。


エルド:「ならば、次は……神に酔わせてみせよう。」


雪明かりの中、理性の使徒は再び歩みを進めた。

その先には、まだ見ぬ“信仰の戦場”が待っている。

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