泡は消えない
灰色の空が、ゆっくりと雪を吐き出していた。
冬の終わりの王都――冷えた石畳の上に、白い紙が無数に貼られている。
「異端摘発の布告」
「泡酒を造りし者、教義を歪めし者、速やかに報告せよ」
風に煽られ、布告がはためくたびに、民たちは顔を伏せて足を速めた。
広場の中央では、修道士レクシオンが演説台に立ち、
声を張り上げて“理性の救済”を説いている。
レクシオン:「理性こそ、神の光。泡は罪の影。
清めよ、信じよ――己の心に曇りを宿すな!」
だが、群衆の中でひとり、老婆が目を閉じた。
唇の端には、かすかに笑みが浮かんでいる。
――まだ鼻の奥に残っているのだ。
あの夜、ひと口だけ飲んだ“泡の酒”の香りが。
その甘い記憶が、寒気のなかで、ひと筋の温もりとなっていた。
* * *
一方、辺境――クルナの雪原。
夜空の下、木々の枝から雪解け水がぽたり、ぽたりと落ちている。
村の中央の広場では、焚き火が燃え、
桶の中では発酵した液体が静かに泡を立てていた。
子ども:「見て、ほら、また泡が出た!」
農夫:「ああ、今年もよく育ってる。春が近い証拠だ。」
笑い声が重なり、泡がはじける音が夜に混じる。
その光景は祈りに似ていた――いや、祈りそのものだった。
焚き火のそばで、コーデリアが古びた聖典を開く。
火の明かりが、彼女の睫毛を金色に照らした。
コーデリア(朗読):「神は命に息を吹き、泡をもって息づかせた……」
その声が風に乗り、遠くの雪原へと広がっていく。
* * *
王都の冷たい鐘の音と、辺境の焚き火のはぜる音。
二つの世界が、同じ空の下で響き合っていた。
理性の都は氷のように透きとおり、
命の辺境は泡のようにあたたかく。
だが、どちらも消えることのない“光”を宿していた。
王都の空は、まるで磨き上げられた刃のように冷たかった。
雪は止んでいたが、石畳の上を渡る風はなお白く、
息を吸うたびに肺の奥が痛むほどの寒気が満ちていた。
中央広場では、黒衣の修道士たちが列をなし、
銀の鎖を持って“泡狩り”と呼ばれる摘発を進めていた。
酒樽が割られ、泡立つ液体が石畳を流れていく。
甘い香りが、冷たい空気の中でかすかに残り、
人々の記憶を刺激する――あの夜の笑い、あのぬくもり。
高壇の上に立つのは、教皇代理レクシオン。
銀の法衣をまとい、凍てつく風を背に演説を始めた。
レクシオン:「理性は人を清め、泡は人を汚す。
それが神の摂理である。
理性なき歓楽は、魂を泡立て、崩壊へ導く毒なのだ。」
その声は鐘の音のように広場を震わせ、
人々は沈黙のまま、祈るように頭を垂れる。
だが――彼らの表情には、どこか“曇り”があった。
恐れでも、怒りでもない。
胸の奥にかすかに残る“香り”が、理性の壁を揺らしていた。
ある老婆が、指先で空気をすくうように鼻先をかぐ。
青年が唇を結びながら、ほんの一瞬、遠い笑い声を思い出す。
それは泡の弾ける音に似た、儚い記憶。
老婆(小声で):「清め……か。
けれど、心まで凍らせるのは、神の御心なのかね。」
レクシオンはその呟きを聞き取れなかった。
彼の視線の先には、ただ“秩序”だけがあった。
広場の泡はすでに消え、
そこに残るのは、冷たく光る石畳だけ――。
だが、その香りは確かに漂っていた。
消えたはずの泡の記憶が、
人々の胸の奥で、静かに“発酵”を続けていた。
雪解けの音が、村のあちこちで小さく響いていた。
氷の下を流れる水が目を覚まし、
白い世界の底からゆっくりと“春”が発酵を始めている。
クルナ村――かつて「神罰の地」と呼ばれたその場所で、
人々は再び泡酒の仕込みを始めていた。
大鍋の中では、麦と果実が混ざり合い、
木の杓文字がくるくると音を立てる。
立ち上る湯気には、ほのかに甘い香りが混じっていた。
「もうすぐだ!」
「ほら、見て! 泡が生きてる!」
子どもたちが笑いながら鍋を囲む。
ひとりの少女が泡を掌にすくい、息を吹きかけた。
それが弾け、光の粒になって夜気に消える。
その瞬間――村の広場が、焚き火の赤と泡の白に照らされた。
焚き火のそばで、コーデリアが一冊の聖典を膝に置いていた。
逃亡の身でありながら、その表情には静かな確信があった。
彼女は火の明かりを頼りに、一節を朗読する。
コーデリア:「――神は命に息を吹き、
泡をもって息づかせた。」
その声は、炎に溶けて、やさしく人々の耳に届く。
誰もが自然と手を止め、聞き入る。
そして次の瞬間、誰からともなく笑いがこぼれた。
祈りの代わりに笑い、
嘆きの代わりに泡を吹く。
それがこの村の“祈祷”だった。
焚き火の光の向こう――
外套の影に、ひとりの男が立っていた。
エルド。
かつて理性の使徒と呼ばれた男は、
何も言わずにその光景を見つめている。
泡が弾ける音。
子どもの笑い声。
そして、焚き火に照らされるコーデリアの横顔。
その全てが、
彼の胸の中に、理性では説明のつかない温もりを灯していく。
エルド(心の声):「……泡の命は、理屈では止まらない。
ならば――これもまた、神の息吹なのかもしれぬ。」
空を見上げると、雪が泡のように光りながら舞い落ちていた。
それはまるで、天が静かに“発酵”しているようだった。
エルドはひとり、雪原の外れに立っていた。
月は薄く雲に隠れ、夜気は凍りつくように静かだ。
彼の手の中には、小瓶。
琥珀色の液体はもうほとんど残っておらず、
底にわずかな泡がゆっくりと揺れている。
コーデリアが差し出した、小さな贈り物――
「理性の王子」へと渡された、命の滴だった。
エルドはしばらくその泡を見つめていた。
瓶の中で、ほんの一粒が、まだ生きている。
微かに震え、光を帯びて――まるで心臓の鼓動のように。
エルド(心の声):「これが、命の音……。
法では測れず、理屈でも語れぬ“存在”か。」
彼はゆっくりと瓶の栓を外す。
冷たい空気が触れた瞬間、泡が小さく跳ねた。
その一滴を、彼は雪の上に落とす。
――ぽん、と音がした。
白い雪面の上に、透明な泡がひとつ弾け、
そこから淡い光がふわりと立ち上る。
光は風に乗り、夜空へと昇っていった。
瞬間、エルドの眼鏡のレンズに反射して、
一筋の光が流れる。
理性の透鏡が、その泡の輝きを捉え――そして揺らいだ。
エルド(独白):「理性は秩序を造り、
命はそれを発酵させる……。
どちらも、神の業か。」
吐く息が白く散る。
その白も、泡のように空へ溶けていく。
彼は瓶をそっとポケットに戻し、
雪の大地を一歩、また一歩と踏みしめた。
その足跡の上に、夜風がやわらかく舞う。
まるで、見えない泡が世界の底から
静かに立ち上っているかのようだった。
――雪解けの音が、静かに世界を満たしていた。
白銀の大地を細い水流が走り、その上をいくつもの泡がゆっくりと流れていく。
それは、まるで誰かの祈りが形を変えたような、儚くも確かな光。
ナレーション:
「泡は消える。
だがその匂いは、誰の記憶にも残る。
理性が封じようとしても――命は、発酵をやめない。」
カメラは泡を追う。
それは川を下り、石の街を抜け、やがて新しい村へと辿り着く。
夕暮れ。
子どもがひとり、川辺でその泡を見つける。
彼は小さな手でそっと掬い上げ、
弾ける瞬間――ふわりと笑った。
笑い声が、春の風に乗って広がる。
泡は弾け、消えていく。だが、その跡に残る香りが、
どこか懐かしく、あたたかく漂っていた。
ナレーション:
「泡は消えない。
それは“命が続く”という、ささやかな証だった。」
そして画面は、雪解けの川面を映しながら、
ゆっくりとフェードアウトしていく。
光が揺れ、風が通り抜ける。
――命は今日も、静かに発酵している。




