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悪役令嬢、追放後の酒造り。──その一滴、世界を救う。  作者: 南蛇井


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18/22

泡は消えない

灰色の空が、ゆっくりと雪を吐き出していた。

冬の終わりの王都――冷えた石畳の上に、白い紙が無数に貼られている。


「異端摘発の布告」

「泡酒を造りし者、教義を歪めし者、速やかに報告せよ」


風に煽られ、布告がはためくたびに、民たちは顔を伏せて足を速めた。

広場の中央では、修道士レクシオンが演説台に立ち、

声を張り上げて“理性の救済”を説いている。


レクシオン:「理性こそ、神の光。泡は罪の影。

 清めよ、信じよ――己の心に曇りを宿すな!」


だが、群衆の中でひとり、老婆が目を閉じた。

唇の端には、かすかに笑みが浮かんでいる。

――まだ鼻の奥に残っているのだ。

あの夜、ひと口だけ飲んだ“泡の酒”の香りが。


その甘い記憶が、寒気のなかで、ひと筋の温もりとなっていた。


* * *


一方、辺境――クルナの雪原。

夜空の下、木々の枝から雪解け水がぽたり、ぽたりと落ちている。

村の中央の広場では、焚き火が燃え、

桶の中では発酵した液体が静かに泡を立てていた。


子ども:「見て、ほら、また泡が出た!」

農夫:「ああ、今年もよく育ってる。春が近い証拠だ。」


笑い声が重なり、泡がはじける音が夜に混じる。

その光景は祈りに似ていた――いや、祈りそのものだった。


焚き火のそばで、コーデリアが古びた聖典を開く。

火の明かりが、彼女の睫毛を金色に照らした。


コーデリア(朗読):「神は命に息を吹き、泡をもって息づかせた……」


その声が風に乗り、遠くの雪原へと広がっていく。


* * *


王都の冷たい鐘の音と、辺境の焚き火のはぜる音。

二つの世界が、同じ空の下で響き合っていた。


理性の都は氷のように透きとおり、

命の辺境は泡のようにあたたかく。


だが、どちらも消えることのない“光”を宿していた。

王都の空は、まるで磨き上げられた刃のように冷たかった。

雪は止んでいたが、石畳の上を渡る風はなお白く、

息を吸うたびに肺の奥が痛むほどの寒気が満ちていた。


中央広場では、黒衣の修道士たちが列をなし、

銀の鎖を持って“泡狩り”と呼ばれる摘発を進めていた。

酒樽が割られ、泡立つ液体が石畳を流れていく。

甘い香りが、冷たい空気の中でかすかに残り、

人々の記憶を刺激する――あの夜の笑い、あのぬくもり。


高壇の上に立つのは、教皇代理レクシオン。

銀の法衣をまとい、凍てつく風を背に演説を始めた。


レクシオン:「理性は人を清め、泡は人を汚す。

 それが神の摂理である。

 理性なき歓楽は、魂を泡立て、崩壊へ導く毒なのだ。」


その声は鐘の音のように広場を震わせ、

人々は沈黙のまま、祈るように頭を垂れる。


だが――彼らの表情には、どこか“曇り”があった。

恐れでも、怒りでもない。

胸の奥にかすかに残る“香り”が、理性の壁を揺らしていた。


ある老婆が、指先で空気をすくうように鼻先をかぐ。

青年が唇を結びながら、ほんの一瞬、遠い笑い声を思い出す。

それは泡の弾ける音に似た、儚い記憶。


老婆(小声で):「清め……か。

 けれど、心まで凍らせるのは、神の御心なのかね。」


レクシオンはその呟きを聞き取れなかった。

彼の視線の先には、ただ“秩序”だけがあった。


広場の泡はすでに消え、

そこに残るのは、冷たく光る石畳だけ――。


だが、その香りは確かに漂っていた。

消えたはずの泡の記憶が、

人々の胸の奥で、静かに“発酵”を続けていた。



雪解けの音が、村のあちこちで小さく響いていた。

氷の下を流れる水が目を覚まし、

白い世界の底からゆっくりと“春”が発酵を始めている。


クルナ村――かつて「神罰の地」と呼ばれたその場所で、

人々は再び泡酒の仕込みを始めていた。


大鍋の中では、麦と果実が混ざり合い、

木の杓文字がくるくると音を立てる。

立ち上る湯気には、ほのかに甘い香りが混じっていた。


「もうすぐだ!」

「ほら、見て! 泡が生きてる!」


子どもたちが笑いながら鍋を囲む。

ひとりの少女が泡を掌にすくい、息を吹きかけた。

それが弾け、光の粒になって夜気に消える。

その瞬間――村の広場が、焚き火の赤と泡の白に照らされた。


焚き火のそばで、コーデリアが一冊の聖典を膝に置いていた。

逃亡の身でありながら、その表情には静かな確信があった。

彼女は火の明かりを頼りに、一節を朗読する。


コーデリア:「――神は命に息を吹き、

 泡をもって息づかせた。」


その声は、炎に溶けて、やさしく人々の耳に届く。

誰もが自然と手を止め、聞き入る。

そして次の瞬間、誰からともなく笑いがこぼれた。


祈りの代わりに笑い、

嘆きの代わりに泡を吹く。

それがこの村の“祈祷”だった。


焚き火の光の向こう――

外套の影に、ひとりの男が立っていた。


エルド。


かつて理性の使徒と呼ばれた男は、

何も言わずにその光景を見つめている。


泡が弾ける音。

子どもの笑い声。

そして、焚き火に照らされるコーデリアの横顔。


その全てが、

彼の胸の中に、理性では説明のつかない温もりを灯していく。


エルド(心の声):「……泡の命は、理屈では止まらない。

 ならば――これもまた、神の息吹なのかもしれぬ。」


空を見上げると、雪が泡のように光りながら舞い落ちていた。

それはまるで、天が静かに“発酵”しているようだった。

エルドはひとり、雪原の外れに立っていた。

月は薄く雲に隠れ、夜気は凍りつくように静かだ。


彼の手の中には、小瓶。

琥珀色の液体はもうほとんど残っておらず、

底にわずかな泡がゆっくりと揺れている。


コーデリアが差し出した、小さな贈り物――

「理性の王子」へと渡された、命の滴だった。


エルドはしばらくその泡を見つめていた。

瓶の中で、ほんの一粒が、まだ生きている。

微かに震え、光を帯びて――まるで心臓の鼓動のように。


エルド(心の声):「これが、命の音……。

 法では測れず、理屈でも語れぬ“存在”か。」


彼はゆっくりと瓶の栓を外す。

冷たい空気が触れた瞬間、泡が小さく跳ねた。


その一滴を、彼は雪の上に落とす。


――ぽん、と音がした。


白い雪面の上に、透明な泡がひとつ弾け、

そこから淡い光がふわりと立ち上る。


光は風に乗り、夜空へと昇っていった。

瞬間、エルドの眼鏡のレンズに反射して、

一筋の光が流れる。


理性の透鏡が、その泡の輝きを捉え――そして揺らいだ。


エルド(独白):「理性は秩序を造り、

 命はそれを発酵させる……。

 どちらも、神の業か。」


吐く息が白く散る。

その白も、泡のように空へ溶けていく。


彼は瓶をそっとポケットに戻し、

雪の大地を一歩、また一歩と踏みしめた。


その足跡の上に、夜風がやわらかく舞う。

まるで、見えない泡が世界の底から

静かに立ち上っているかのようだった。


――雪解けの音が、静かに世界を満たしていた。


白銀の大地を細い水流が走り、その上をいくつもの泡がゆっくりと流れていく。

それは、まるで誰かの祈りが形を変えたような、儚くも確かな光。


ナレーション:


「泡は消える。

 だがその匂いは、誰の記憶にも残る。

 理性が封じようとしても――命は、発酵をやめない。」


カメラは泡を追う。

それは川を下り、石の街を抜け、やがて新しい村へと辿り着く。


夕暮れ。

子どもがひとり、川辺でその泡を見つける。

彼は小さな手でそっと掬い上げ、

弾ける瞬間――ふわりと笑った。


笑い声が、春の風に乗って広がる。

泡は弾け、消えていく。だが、その跡に残る香りが、

どこか懐かしく、あたたかく漂っていた。


ナレーション:


「泡は消えない。

 それは“命が続く”という、ささやかな証だった。」


そして画面は、雪解けの川面を映しながら、

ゆっくりとフェードアウトしていく。


光が揺れ、風が通り抜ける。

――命は今日も、静かに発酵している。



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