エルドの視察
灰色の空が低く垂れこめ、風は雪を巻き上げながら街道を吹き抜けていた。
どこまでも続く白銀の平原――その静寂を、わずかな蹄の音が破っていく。
馬車が雪を踏みしめるたび、白い粉が舞い上がり、冷気に溶けて消える。
空気は刺すように冷たいが、その中に、ほんのかすかに――甘い香りが混じっていた。
鼻をかすめる、発酵の匂い。命が密やかに息づく匂い。
エルドは外套の襟を立て、吐息を白く曇らせながら馬車の窓を開く。
遠く、丘の向こうに細く立ちのぼる煙が見えた。
灰のような空を突き抜けて昇るその一本の線が、凍てついた世界に唯一の“温もり”を示している。
「……あれが、クルナ村か。」
彼は小さく呟いた。
声は風に溶け、すぐに消える。
理性の国に生まれた王子は、いま、“泡立つ命”の匂いのする地へと向かっていた。
灰の空が、果てしなく広がっていた。
雪は細かく降り続け、音もなく世界を覆っていく。
馬車の中、王太子エルドは厚手の外套の裾を整えながら、冷たい窓越しに白い道を見つめていた。
護衛の姿はない。王都を出るとき
白銀の平原を、馬車が一台進んでいた。
灰色の空の下、風が地を這うように吹きすさび、雪片が斜めに流れていく。
その中で、王太子エルドはただ一人、静かに座っていた。
分厚い外套の襟を立て、冷気を防ぎながらも、その瞳はまっすぐ前を見据えている。
彼の隣に護衛の姿はない。
王都を出る際、誰も同行を許さなかったのだ。
「理性の王子」と呼ばれる彼にとって、この旅は政治でも信仰でもなく――ただ“真実”を確かめるためのものだった。
足元には、密輸で押収された一本の瓶が置かれている。
淡い光を放つ液体、“星酔”。
それは教会が“悪魔の酒”と断じたもの。
エルドは、馬車の揺れの中で目を閉じ、心の奥でつぶやいた。
「真実を見極める。それが理性ある者の務めだ。」
だがその矢先、鈍い音が響いた。
――ガクン、と。
馬車が大きく傾き、車輪が雪に沈み込む。
御者が慌てて外に出て確認するが、軸が完全に埋まっていた。
これ以上進むことはできない。
エルドは静かに立ち上がり、外套の前を整える。
雪が頬に触れた瞬間、息が白く広がった。
「……ここからは、歩こう。」
彼は一本の杖を手に取り、吹きつける風の中へと足を踏み出す。
遠く、白の彼方に、かすかに煙を上げる村影が見えた。
その煙は、どこか甘く、温かい匂いを含んでいた――発酵の香り。
エルドは、ほんの一瞬だけ足を止め、空を見上げた。
灰雲の向こう、かすかに光が揺らめいている。
「……理性は、どこまでが人を導く?」
小さく呟くと、再び歩き出した。
雪の中へ――理性と泡の狭間へ。
雪を踏みしめながら村外れへと進むうち、エルドは一つの灯を見つけた。
風に消えそうな小さな明かり――それは納屋の隙間から漏れる焚き火の光だった。
扉をそっと押すと、乾いた木の香りと、かすかに甘い匂いが鼻をくすぐる。
中では、数人の農夫が輪になって座っていた。
彼らの粗末な手には、木のカップ。
中の液体から、やわらかな泡が立ちのぼっている。
火の粉が舞い、笑い声が混じる。
その輪の中に、小さな子どもが一人。
泡を指でつつき、ぷくりと弾けるたびに無邪気に笑っている。
その笑顔を見て、農夫たちもまた、自然と笑みを浮かべた。
冷え切った冬の夜に、それはあまりにも温かい音だった。
エルドは扉の影から、その光景を黙って見つめていた。
教会の報告書には、「悪魔の酒」「魂を惑わす泡」と書かれていた。
だが――目の前のこの光景に、悪意の影は一つもない。
エルド(心の声):「……これが“堕落”か?」
焚き火の音と笑い声。
小さな命が笑い、手を伸ばし、泡の光を追いかけている。
「いや、これは――生きる音だ。」
その瞬間、エルドの胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
理性という名の氷が、ほんの少し、溶けていくように。
焚き火の輪の奥に、ひときわ静かな影があった。
修道服のフードを深く被った女性――その姿は一見、旅の修道女のように見える。
しかし、エルドの目はわずかな仕草に反応した。
手の動き、視線の柔らかさ、そして――何より、あの静かな気配。
エルド(心の声):「……まさか。」
女性がふとこちらを向き、微笑んだ。
焚き火の光がその頬を照らす。
雪の夜に似つかわしくない、どこか春のような温もりを帯びた笑みだった。
コーデリア:「旅のお方、冷えておられますね。少し温まりませんか?」
その声を聞いた瞬間、確信へと変わる。
逃亡したはずの異端の修道女――コーデリア。
エルドはゆっくりと彼女に近づく。
周囲の農夫たちは、何も知らぬまま笑っていた。
泡立つ酒の香が、二人の間に淡く漂う。
エルド:「……お前がここにいるということは、やはり噂は真実か。」
コーデリア(穏やかに):「噂は泡のようなものです。触れれば弾ける。
でも、消えても――香りは残るのです。」
そう言って、コーデリアは木のカップを差し出した。
その指先は冷たく、けれど震えてはいなかった。
エルドは短く息をつき、目を閉じる。
ほんの一瞬のためらいのあと、唇をカップに触れさせる。
柔らかな泡が舌先で弾け、ふわりと香りが広がった。
苦味も、甘味も、言葉にならないほど自然な温かさ。
それは“酒”というよりも、“命の味”に近かった。
喉を通る感覚に、胸の奥で何かが――弾けた。
それは理性では説明できない、静かな衝動。
エルド(心の声):「……これが、泡の罪か。
いや――人が生きるという、祝福なのかもしれぬ。」
焚き火の光の中で、コーデリアは静かに微笑んだ。
その瞳の奥に宿るのは、逃亡者の影ではなく、確かな“信仰”の輝きだった。
ChatGPT:
焚き火の光が揺れる。
炎のはぜる音に混じって、カップの中の泡が――“ぷくり”と小さく弾けた。
エルドは手にした木のカップを見つめながら、低くつぶやく。
エルド:「理性こそ、人を人たらしめるものだ。
それを失えば、ただの獣にすぎん。」
その声には、冷たい雪原の風のような硬さがあった。
しかし、コーデリアは焚き火の向こうから静かに笑みを浮かべる。
コーデリア:「では――笑うことは理性の外ですか?」
エルド:「……笑うこと?」
コーデリア:「理性は秩序を守ります。
でも、泡はそれを越えて、生きるんです。
形を変え、弾けて、また生まれる。
それを“神の造化”と呼ぶなら……どうして罪にできますか?」
エルドは言葉を失った。
焚き火の光が彼の瞳に映り、理性の奥で何かがわずかに揺らぐ。
外では、農夫の子どもたちが笑っていた。
指で泡を弾き、弾けるたびに笑い声を上げる。
その声が雪明かりの夜に広がり、泡とともに消えていく。
エルド(心の声):「理性は秩序を保つ。
だが……秩序に笑顔はあるか?」
コーデリアがそっと目を閉じ、焚き火の熱を胸に感じる。
その横顔は、氷の世界に灯った“泡の光”のように淡く輝いていた。
夜の帳が、辺境の雪原を静かに包みこんでいた。
焚き火の炎が、しんしんと降る雪に溶けては消え、かすかな蒸気を生み出している。
その光のそばに、エルドはひとり立っていた。
外套の肩に雪が積もる。
それを払うこともせず、彼はただ、夜空を見上げた。
白い雪が――まるで泡のように舞い落ちる。
ひとひら、またひとひら。
焚き火の熱で儚く消えるその様が、どこか“生”そのもののように見えた。
エルド(独白):「……理性も、命も、どちらも“燃える”のだな。」
彼の声はかすかに白い息となり、闇に溶けた。
そのとき、背後から小さな笑い声が聞こえた。
コーデリアだ。
焚き火の向こうで、子どもたちと泡を弾かせながら笑っている。
その笑いは、雪夜の静けさに溶け込み、
やがて泡のように――はじけて、消えていった。
けれどエルドの胸には、その音が確かに残った。
理性の氷の下で、小さく、温かく、泡が生まれるように。




