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悪役令嬢、追放後の酒造り。──その一滴、世界を救う。  作者: 南蛇井


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17/22

エルドの視察

灰色の空が低く垂れこめ、風は雪を巻き上げながら街道を吹き抜けていた。

どこまでも続く白銀の平原――その静寂を、わずかな蹄の音が破っていく。


馬車が雪を踏みしめるたび、白い粉が舞い上がり、冷気に溶けて消える。

空気は刺すように冷たいが、その中に、ほんのかすかに――甘い香りが混じっていた。

鼻をかすめる、発酵の匂い。命が密やかに息づく匂い。


エルドは外套の襟を立て、吐息を白く曇らせながら馬車の窓を開く。

遠く、丘の向こうに細く立ちのぼる煙が見えた。

灰のような空を突き抜けて昇るその一本の線が、凍てついた世界に唯一の“温もり”を示している。


「……あれが、クルナ村か。」


彼は小さく呟いた。

声は風に溶け、すぐに消える。

理性の国に生まれた王子は、いま、“泡立つ命”の匂いのする地へと向かっていた。


灰の空が、果てしなく広がっていた。

雪は細かく降り続け、音もなく世界を覆っていく。


馬車の中、王太子エルドは厚手の外套の裾を整えながら、冷たい窓越しに白い道を見つめていた。

護衛の姿はない。王都を出るとき



白銀の平原を、馬車が一台進んでいた。

 灰色の空の下、風が地を這うように吹きすさび、雪片が斜めに流れていく。


 その中で、王太子エルドはただ一人、静かに座っていた。

 分厚い外套の襟を立て、冷気を防ぎながらも、その瞳はまっすぐ前を見据えている。


 彼の隣に護衛の姿はない。

 王都を出る際、誰も同行を許さなかったのだ。

 「理性の王子」と呼ばれる彼にとって、この旅は政治でも信仰でもなく――ただ“真実”を確かめるためのものだった。


 足元には、密輸で押収された一本の瓶が置かれている。

 淡い光を放つ液体、“星酔”。

 それは教会が“悪魔の酒”と断じたもの。


 エルドは、馬車の揺れの中で目を閉じ、心の奥でつぶやいた。


「真実を見極める。それが理性ある者の務めだ。」


 だがその矢先、鈍い音が響いた。

 ――ガクン、と。

 馬車が大きく傾き、車輪が雪に沈み込む。


 御者が慌てて外に出て確認するが、軸が完全に埋まっていた。

 これ以上進むことはできない。


 エルドは静かに立ち上がり、外套の前を整える。

 雪が頬に触れた瞬間、息が白く広がった。


「……ここからは、歩こう。」


 彼は一本の杖を手に取り、吹きつける風の中へと足を踏み出す。

 遠く、白の彼方に、かすかに煙を上げる村影が見えた。

 その煙は、どこか甘く、温かい匂いを含んでいた――発酵の香り。


 エルドは、ほんの一瞬だけ足を止め、空を見上げた。

 灰雲の向こう、かすかに光が揺らめいている。


「……理性は、どこまでが人を導く?」


 小さく呟くと、再び歩き出した。

 雪の中へ――理性と泡の狭間へ。

雪を踏みしめながら村外れへと進むうち、エルドは一つの灯を見つけた。

 風に消えそうな小さな明かり――それは納屋の隙間から漏れる焚き火の光だった。


 扉をそっと押すと、乾いた木の香りと、かすかに甘い匂いが鼻をくすぐる。

 中では、数人の農夫が輪になって座っていた。

 彼らの粗末な手には、木のカップ。

 中の液体から、やわらかな泡が立ちのぼっている。


 火の粉が舞い、笑い声が混じる。

 その輪の中に、小さな子どもが一人。

 泡を指でつつき、ぷくりと弾けるたびに無邪気に笑っている。


 その笑顔を見て、農夫たちもまた、自然と笑みを浮かべた。

 冷え切った冬の夜に、それはあまりにも温かい音だった。


 エルドは扉の影から、その光景を黙って見つめていた。

 教会の報告書には、「悪魔の酒」「魂を惑わす泡」と書かれていた。

 だが――目の前のこの光景に、悪意の影は一つもない。


エルド(心の声):「……これが“堕落”か?」


 焚き火の音と笑い声。

 小さな命が笑い、手を伸ばし、泡の光を追いかけている。


「いや、これは――生きる音だ。」


 その瞬間、エルドの胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。

 理性という名の氷が、ほんの少し、溶けていくように。



焚き火の輪の奥に、ひときわ静かな影があった。

 修道服のフードを深く被った女性――その姿は一見、旅の修道女のように見える。

 しかし、エルドの目はわずかな仕草に反応した。

 手の動き、視線の柔らかさ、そして――何より、あの静かな気配。


エルド(心の声):「……まさか。」


 女性がふとこちらを向き、微笑んだ。

 焚き火の光がその頬を照らす。

 雪の夜に似つかわしくない、どこか春のような温もりを帯びた笑みだった。


コーデリア:「旅のお方、冷えておられますね。少し温まりませんか?」


 その声を聞いた瞬間、確信へと変わる。

 逃亡したはずの異端の修道女――コーデリア。


 エルドはゆっくりと彼女に近づく。

 周囲の農夫たちは、何も知らぬまま笑っていた。

 泡立つ酒の香が、二人の間に淡く漂う。


エルド:「……お前がここにいるということは、やはり噂は真実か。」

コーデリア(穏やかに):「噂は泡のようなものです。触れれば弾ける。

 でも、消えても――香りは残るのです。」


 そう言って、コーデリアは木のカップを差し出した。

 その指先は冷たく、けれど震えてはいなかった。


 エルドは短く息をつき、目を閉じる。

 ほんの一瞬のためらいのあと、唇をカップに触れさせる。


 柔らかな泡が舌先で弾け、ふわりと香りが広がった。

 苦味も、甘味も、言葉にならないほど自然な温かさ。

 それは“酒”というよりも、“命の味”に近かった。


 喉を通る感覚に、胸の奥で何かが――弾けた。

 それは理性では説明できない、静かな衝動。


エルド(心の声):「……これが、泡の罪か。

 いや――人が生きるという、祝福なのかもしれぬ。」


 焚き火の光の中で、コーデリアは静かに微笑んだ。

 その瞳の奥に宿るのは、逃亡者の影ではなく、確かな“信仰”の輝きだった。

ChatGPT:


 焚き火の光が揺れる。

 炎のはぜる音に混じって、カップの中の泡が――“ぷくり”と小さく弾けた。


 エルドは手にした木のカップを見つめながら、低くつぶやく。


エルド:「理性こそ、人を人たらしめるものだ。

 それを失えば、ただの獣にすぎん。」


 その声には、冷たい雪原の風のような硬さがあった。

 しかし、コーデリアは焚き火の向こうから静かに笑みを浮かべる。


コーデリア:「では――笑うことは理性の外ですか?」


エルド:「……笑うこと?」


コーデリア:「理性は秩序を守ります。

 でも、泡はそれを越えて、生きるんです。

 形を変え、弾けて、また生まれる。

 それを“神の造化”と呼ぶなら……どうして罪にできますか?」


 エルドは言葉を失った。

 焚き火の光が彼の瞳に映り、理性の奥で何かがわずかに揺らぐ。


 外では、農夫の子どもたちが笑っていた。

 指で泡を弾き、弾けるたびに笑い声を上げる。

 その声が雪明かりの夜に広がり、泡とともに消えていく。


エルド(心の声):「理性は秩序を保つ。

 だが……秩序に笑顔はあるか?」


 コーデリアがそっと目を閉じ、焚き火の熱を胸に感じる。

 その横顔は、氷の世界に灯った“泡の光”のように淡く輝いていた。


夜の帳が、辺境の雪原を静かに包みこんでいた。

 焚き火の炎が、しんしんと降る雪に溶けては消え、かすかな蒸気を生み出している。

 その光のそばに、エルドはひとり立っていた。


 外套の肩に雪が積もる。

 それを払うこともせず、彼はただ、夜空を見上げた。


 白い雪が――まるで泡のように舞い落ちる。

 ひとひら、またひとひら。

 焚き火の熱で儚く消えるその様が、どこか“生”そのもののように見えた。


エルド(独白):「……理性も、命も、どちらも“燃える”のだな。」


 彼の声はかすかに白い息となり、闇に溶けた。


 そのとき、背後から小さな笑い声が聞こえた。

 コーデリアだ。

 焚き火の向こうで、子どもたちと泡を弾かせながら笑っている。


 その笑いは、雪夜の静けさに溶け込み、

 やがて泡のように――はじけて、消えていった。


 けれどエルドの胸には、その音が確かに残った。

 理性の氷の下で、小さく、温かく、泡が生まれるように。




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