裏切りと救済
夜更けの王都。
神殿の最奥――人々が“知の聖域”と呼ぶ、地下の資料庫は静まり返っていた。
白い大理石の柱が果てしなく並び、
その間を渡るように並ぶ書棚には、何百年もの信仰と記録が眠っている。
燭台の炎が小さく揺れ、その度に金文字の背表紙が淡く光を返す。
外は雪。
窓越しに射す青白い月明かりが床の大理石に反射し、
まるで氷の川が流れているかのようだった。
空気は冷たいが、
静けさの中にただ一つ、命のような音が響いている。
――羊皮紙をめくる、かすかな音。
その音の主は、一人の修道女。
銀糸のような髪を肩に垂らし、薄い外套を羽織った若い女性――コーデリア。
彼女は机に広げた書簡の束を見つめていた。
震える手で羽ペンを取り、墨壺に浸す。
灯火がその瞳に映り、青くゆらぐ。
古びた報告書の表題には、
『辺境クルナ村・神罰の記録』と刻まれている。
コーデリアは、そっと息を吸い込んだ。
その吐息さえ、図書庫の空気に吸い込まれるように消える。
「……神よ、どうか、見ていてください。」
小さく呟き、ペン先を走らせた。
インクが紙を染めていく音が、祈りのように響く。
「原因:信仰の堕落」
→ 「原因:地下水の発酵反応」
「悪魔の酒“星酔”」
→ 「自然発酵による未知の酵母生成」
書き換えた部分を見つめ、コーデリアは手を胸に当てる。
燭台の火がわずかに強まり、彼女の横顔を照らした。
――その顔には、恐怖よりも確信が宿っている。
「神は、命の働きを否定しない。
ならば――泡の息も、神の造りしもの。」
静かな声が、石造りの壁に反響する。
外では雪が降り続け、
その白い粒が、まるで泡のように窓を流れ落ちていった。
夜更けの神殿資料庫。
静寂を裂くのは、わずかな羽ペンの擦れる音だけだった。
高い天井の下、無数の書架が並び、古の羊皮紙が冷たい空気の中で眠っている。
一本の燭台が、白い石壁にゆらめく影を描いていた。
コーデリアは机に積まれた報告書の山を前に、細い指で羽ペンを握っていた。
指先は震えている――だが、瞳だけは真っ直ぐ、揺るぎがなかった。
報告書の表題には、重々しく刻まれている。
「辺境クルナ村・神罰の記録」
その文字を見つめ、彼女はひとつ深呼吸をした。
吐息がランプの火を揺らし、影が机の上を波のように走る。
ゆっくりとペン先を走らせる。
インクが羊皮紙を染める音が、やけに大きく響いた。
「原因:信仰の堕落」
→ 「原因:地下水の発酵反応」
「悪魔の酒“星酔”」
→ 「自然発酵による未知の酵母生成」
――わずか数行の書き換え。
だが、それは教会の教義そのものを覆す“罪の一筆”だった。
コーデリアはペンを静かに置く。
震える息を整え、胸の前で十字を切った。
燭火の光が、彼女の瞳に淡く宿る。
コーデリア(心の声):「神は、命の働きを否定しない。
ならば――泡の息も、神の造りしもの。」
その祈りの言葉が、静寂の中に溶けていった。
まるで、泡が静かに弾ける音のように。
扉が、**ギィ……**と低く軋いた。
静まり返った資料庫の空気がわずかに揺れ、コーデリアの背筋が固まる。
振り向くよりも先に、柔らかな布の擦れる音がした。
白衣の修道女が二人、静かに入ってくる。
その足取りは祈りのように穏やかで――同時に、告発の予感を孕んでいた。
そして、その後ろに現れたのは、
銀糸の法衣をまとい、氷のような瞳を持つ男――教皇代理レクシオン。
燭台の炎が彼の銀髪を撫で、石床に長い影を落とす。
その姿は、まるで神の審判そのものだった。
レクシオン:「夜更けに筆を執るとは……勤勉だな、コーデリア。」
低く響く声。
一見、称賛の響きを帯びているようで――その奥に、刃の冷たさが潜んでいた。
コーデリア:「……少し、記録の誤りを正しておりました。」
わずかに息を整え、視線を逸らさずに答える。
だが、その指先が机の下で震えているのを、誰も見逃さなかった。
レクシオン(微笑を崩さず):「誤りか。
神の記録に“誤り”があると?」
その言葉が、静寂の中に落ちた刃のように響く。
沈黙。
修道女の一人が机に歩み寄り、書きかけの羊皮紙に手を伸ばした。
指先でそっと撫でると――新しいインクの香りが、微かに立ちのぼる。
まだ、乾いていなかった。
燭火の揺らめきが、レクシオンの瞳に反射する。
その光の中で、冷たい笑みがわずかに深まった。
レクシオンは報告書を手に取り、
白い指先で**「トン、トン」**と軽く叩いた。
その小さな音が、広い資料庫の静寂を鋭く裂く。
蝋燭の炎が揺らぎ、コーデリアの頬に影を落とした。
レクシオン:「“神罰ではない”……そう記すのか。」
低く抑えられた声。
だが、言葉の一つ一つが冷たい刃のようだった。
コーデリア:「真実です。
あの村の酒は、命を奪ってはいません。
むしろ、人を笑わせ、癒やしています。」
その声は震えていない。
小さくとも確かな信念が、彼女の胸の奥に灯っていた。
レクシオンは静かに目を細める。
その瞳はまるで、冷えた聖水の底を覗き込むように無感情だった。
レクシオン:「それが悪魔の誘惑だ。
幸福を与えるふりをして、魂を腐らせる。」
資料庫に、風のない寒さが降りた。
古い書の束が一枚、ふとめくれる。
だがコーデリアは、視線を逸らさなかった。
その瞳には、かつて神に憧れた少女の純粋さではなく――
“真実を見てしまった者”の光が宿っていた。
コーデリア:「では問います。
笑うこと、祈ること、愛すること――
それも“堕落”ですか?」
その言葉に、空気が止まった。
どこかで蝋がパチリと弾ける音がした。
レクシオンの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れる。
しかしすぐ、冷たく硬い信仰の仮面が戻る。
レクシオン:「お前の信仰は泡のように脆い。」
その言葉を、コーデリアは微笑で受けた。
唇に宿るのは諦めではなく、確かな確信。
コーデリア:「泡はすぐ弾ける。
でも――その瞬間に、光るの。」
静寂。
燭火がまた揺れ、二人の影を重ねては離す。
その狭間で、ひと粒の“泡の光”のような信念が生まれていた。
レクシオンの指が、静かに空を切った。
その合図ひとつで、背後の修道女たちが一斉に動く。
ガタン――!
机が倒れ、羊皮紙が雪のように宙を舞った。
インクの染みが床に散り、灯火が揺らめく。
コーデリアは両腕を掴まれる。
だが、抵抗する力よりも早く、言葉が口をついた。
コーデリア:「神は人を縛らない!
もし泡が罪なら、命も罪になります!」
その叫びが、冷たい石壁に反響する。
資料庫の天井が低く唸り、古文書がぱらぱらと落ちた。
だが――返ってくる声はない。
祈りの館に、ただ沈黙だけが降りる。
レクシオンは背を向け、静かに言葉を落とした。
その声は、祈りの終わりを告げる鐘のように冷たかった。
レクシオン:「連行せよ。
彼女の名は今日より“異端”とする。」
修道女たちが腕を強く引く。
コーデリアの足が滑り、倒れかけた蝋燭の炎が揺れる。
その光が、一瞬だけ彼女の顔を照らした。
頬を濡らすものは――涙ではなかった。
瞳の奥に宿るのは、消えぬ光。
泡のように儚くとも、確かに燃える命の輝きだった。
コーデリア(心の声):「……神は、見ている。
泡の中にも、私たちの祈りを。」
彼女の外套が翻り、扉の向こうに闇が広がる。
その中で、わずかなインクの匂いだけが――信念の残り香のように漂っていた。
神殿の回廊に、靴音が響いた。
白い石の床に、雪混じりの風が流れ込む。
黒い修道服の裾を翻し、コーデリアは駆ける。
背後では鐘が鳴っていた――。
それは祈りの音ではなく、異端を告げる鐘。
ゴォォォン……
ゴォォォン……
響くたび、胸の奥で信仰が軋む。
だが、彼女は立ち止まらない。
夜の雪が降りしきる中、鐘楼の影を縫うように走り抜け、
裏門の鉄扉を押し開ける。
冷たい風が顔に当たり、息が白く散った。
その瞬間――。
彼女の外套の内側から、小瓶がひとつ落ちる。
**カラン……**と音を立て、地に割れた。
割れた瓶の中から、淡い光の泡が一粒、ふわりと立ちのぼる。
雪の夜に、まるで命の残響のように漂い、やがて消えた。
コーデリアはそれを見上げ、そっと呟く。
コーデリア:「……神は、きっと見ている。
泡のひと粒にも、祈りは宿るって。」
鐘の音が遠ざかる。
代わりに、風の音と泡の余韻が夜を包む。
ナレーション:
「その夜、信仰の城に初めての亀裂が入った。
それは裏切りではなく――救済の始まりだった。」
雪が泡の光を飲み込み、
闇の中で、静かな再生の息吹が確かに芽吹いていた。




