密造の夜 ―「命は隠せない」―
――夜、音という音が雪に吸い込まれていく。
クルナ村の家々はすべて戸を閉ざし、窓には分厚い布。
外を歩く者など誰もいない。
ただ、遠くで巡回隊の鐘が**カン、カン……**と鳴り、雪を踏みしめる靴音が答える。
「もう仕込みはやめた方がいい」
「聞いたか? 隣の村、蔵を焼かれたって……」
「神罰が下るぞ……」
怯えた囁きが夜気に滲み、やがて沈黙に呑まれる。
――その沈黙の奥、ただひとつだけ灯りの漏れる家があった。
村外れの古い蔵。
窓には布がかけられ、外からは誰も中を覗けない。
しかし、その布の隙間から、ほのかに金色の光が漏れていた。
中では、アレッサが小さなランプの火を掌で覆いながら、作業台に向かっていた。
指先に伝わるのは、樽のぬくもりと、静かに泡立つ液体の音。
「……もう少し、もう少しで“息をする”わ。」
彼女の声は、雪よりも小さく震えた。
外の世界が恐怖に沈む夜、
ただこの蔵の中だけが、生きている音を奏でていた。
蔵の扉が**ギィ……**と重たく閉まる音が響いた。
入ってきたのは、煤に染まった大きな体。鍛冶師ランバルトだった。
彼は周囲を一瞥し、窓の隙間を布で塞ぐと、
外の雪原を振り返って低く呟く。
「……こんな夜に仕込みなんざ、命知らずもいいとこだ。」
アレッサは樽の上に腰をかけ、ランプの明かりに照らされながら微笑んだ。
その微笑みには、恐怖よりもどこか誇りのようなものが宿っている。
「だから、あなたが来てくれたんでしょう?」
ランバルトは一瞬だけ目を逸らし、
「ったく……」と小さく唸りながら、奥の棚から木槌を取り出した。
そのとき、樽の隙間から小さな顔が三つ、ぴょこっと覗いた。
村の孤児たち――昼間は炭売り、夜はここで手伝う“秘密の仲間”だ。
「ねぇ、これが“生きてる酒”なんだろ?」
一番小さな少年が、泡立つ樽を見つめて訊ねた。
アレッサは膝を折り、樽の縁に手を当てる。
「ええ。息をしてるの。」
泡がぷくりと弾け、その光が少年の頬を淡く照らした。
その瞬間だけ――
外の冷たい雪も、教会の鐘の音も、ここには届かない。
ただ小さな蔵の中で、
命のように泡立つ音と、少年たちの笑顔だけが、
“恐怖の夜”を溶かすぬくもりになっていた。
雪を踏みしめる音が、闇の中から近づいてくる。
――カン……カン……。
金属の打ち鳴らされる音。
教会の巡回兵が、雪明かりの中を松明を掲げて進んでいた。
炎が風に揺れ、吹雪の夜を切り裂く。
蔵の壁に、その光が滲み込む。
扉の隙間から伸びた赤い光が、
アレッサたちの影を壁に大きく映し出した。
ランバルトが反射的に動く。
「火を落とせ!」
声を潜めながらランプの火を覆うと、
一瞬にして蔵は暗闇に沈んだ。
少年たちは息を呑み、樽の影に飛び込む。
かすかに聞こえるのは、泡のぷくぷくという音。
それが、まるで心臓の鼓動のように響く。
アレッサは、ひとり樽のそばに残り、
両手で瓶を包み込んだ。
その中には、まだ生きている“星酔”の原液。
発酵が進むたび、瓶の中に小さな泡が浮かび上がる。
アレッサ(心の声):「泡よ、静まって……今だけでいい。」
外では、巡回兵の声。
「この辺りから香りがしたぞ……!」
アレッサは祈るように瓶を抱く。
しかし、次の瞬間――
ぷくり。
泡が一粒、静寂を破るように弾けた。
淡い光が、瓶の中から漏れ出して、
彼女の頬と指先を照らす。
それは、まるで“命”そのものが逃げ出そうとしているようだった。
ランバルトが振り返り、目を見開く。
アレッサはかすかに微笑んだ。
「……いいの。止まれないのよ、命は。」
外の足音が、すぐそこまで迫っていた。
雪がやみ、静寂が戻った。
外を巡回していた教会兵の足音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
蔵の中では、誰もがしばらく息を殺したまま動けなかった。
やがて、ランバルトが肩の力を抜き、深く息を吐く。
「……命知らずの女だな。バレたら、今度こそ終わりだぞ。」
アレッサは樽の側にしゃがみ込み、
そっと木肌に手をあてた。
内部から伝わる、かすかな“呼吸”――。
液体の中で泡が立ち、やさしく弾ける音が聞こえる。
「命を隠す方が、もっと終わりよ。」
声は小さいが、揺るぎなかった。
ランプの炎が再びともされ、淡い光が二人の顔を照らす。
泡が浮かび、弾けるたび、アレッサの瞳がその光を映す。
アレッサ:「命は隠せない。
発酵も、人の心も――どんなに冷たい法でも、止められないの。」
ランバルトは黙ったまま、その横顔を見つめる。
強さと儚さを同時に宿した瞳。
その中に、雪の夜よりも確かな“熱”が灯っているのを感じた。
彼は小さく笑い、煤けた手で頭をかいた。
「……やれやれ。あの王子、きっとお前の泡に惹かれたんだな。」
アレッサはわずかに目を細め、遠くを見るように呟く。
「だったら――あの人の中にも、まだ泡が生きてる。」
外では、再び雪が舞い始めていた。
蔵の屋根に積もる白が静かに光り、
その下で、命の泡がやさしく“ぷくり”と息をしていた。
蔵の奥では、最後の瓶が静かに満ちていた。
淡い光を帯びた液体が、瓶の中で小さく泡立つ。
アレッサは慎重に栓を閉め、その瞬間――
蔵の中に満ちた“泡の音”が、一斉に重なり合った。
「ぷくり、ぷくり……」
まるで無数の心臓が鼓動しているかのように。
それは音ではなく、祈りのような響きだった。
寒さに凍えた空気の中で、
泡だけが、生き物のように呼吸を続けている。
ランバルトが息を呑み、少年たちが顔を上げる。
アレッサは目を閉じ、そっと呟いた。
「――生きてる。」
その言葉とともに、
蔵の窓の外に、光の粒が舞い上がった。
雪の夜空を漂うその光は、泡のように揺れながら高く昇っていく。
まるで、地上の発酵が天へ届くように。
ナレーション:
「禁忌の夜、泡は息をした。
それは罪ではなく、希望の音だった。」
冷たい風が蔵を撫で、灯がわずかに揺れる。
そして――泡の音が、静かな夜を温め続けていた。




