辺境への追跡命令
謁見の間には、冬の光が沈黙のように満ちていた。
ステンドグラスを透けて差し込む陽が、床の大理石に長い色の帯を落とす。
その色は氷のように冷たく、どこか泡立つように揺れて見えた。
王都ヴァレンティヌス――その中心、王城の心臓部。
昼下がりの空は灰色で、窓の外には細かい雪が舞っている。
音という音はすべて、厚い石壁に吸い込まれていた。
その静寂の中に立つのは、王太子エルド。
黒衣の外套を羽織り、玉座の前でまっすぐに立つ姿は、まるで影のように動かない。
彼の左右には、王国の官僚たちと教会の高位聖職者たち。
いずれも厳粛な顔で、息を潜めている。
その中央、黄金の法衣を纏い、銀杖を手に立つのは――教皇代理レクシオン。
彼の存在は、まるで冬の聖火。
光を宿しているのに、近づけば焼かれるような冷たさがある。
窓の外の雪は、静かに降り続けていた。
王都の喧噪から最も遠いこの部屋で、
“星酔”という名の泡立つ噂が、いま、王の血族の前に持ち込まれようとしていた。
謁見の間を満たす空気は、張りつめた糸のように冷たかった。
そこには“政治”の匂いと、“恐怖”の沈黙があった。
円卓の上には、一つの瓶が置かれている。
厚手のガラス越しに淡い光が瞬き、まるで内側で泡が呼吸しているかのようだった。
それは密輸品――辺境で造られた“星酔”。
官僚の一人が震える声で報告する。
「辺境クルナ村を中心に、“発酵酒”が密かに流通しております。
……王都にも、すでに入り込んでおります。」
もう一人がそれに続く。
「特に貴族街の夜会では、“夢に星が降る酒”として人気を集め……
民心を惑わせている、との報告が。」
その瞬間、玉座の前の空気がさらに重く沈む。
瓶の中の泡が、光の中でふつりと弾けた。
そして――静寂を切り裂くように、教皇代理レクシオンが一歩前に出た。
金糸の法衣が揺れ、冬の陽光を受けて白く煌めく。
その声は、聖堂で祈りを唱えるときのように澄んでいながら、冷たく鋭い。
「この泡の酒は、魂を酔わせる“悪の息”です。」
低く響く声が、石壁を伝って反響する。
「放置すれば、信仰は腐り、秩序は崩壊する。
人が神に背き、泡の夢に沈む――かつて滅んだ古代の罪を、再び繰り返すつもりか?」
誰も答えなかった。
官僚たちは視線を落とし、ただ、光る瓶を恐れるように見つめていた。
それはただの酒ではなかった。
“命の発酵”――ある者には救い、ある者には異端。
そして、エルドには――ひとりの女の面影を呼び起こす“記憶の香り”でもあった。
静まり返った謁見の間に、冬の陽光が斜めに射し込む。
ステンドグラスを透けた光は、まるで凍った水面のように床を染めていた。
エルドは椅子に深く腰を下ろしたまま、卓上のグラスを見つめている。
その中では、“星酔”の泡がかすかに踊っていた。
――無邪気に、静かに、まるで命の鼓動のように。
やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「……しかし、この酒を飲んだ民が、笑っていたと聞く。」
声は低く、だが明確に響いた。
「恐怖や暴動ではなく、“幸福”を語ったと。」
その言葉に、列をなす官僚たちは互いに視線を交わす。
禁忌の名を持つ泡酒――それを“幸福”と呼ぶなど、誰も想像していなかった。
レクシオンが一歩前に出る。
彼の足音は、聖堂の鐘のように重く響く。
「それこそが悪魔の誘惑です。」
その声音は、確信に満ちていた。
「快楽の泡は、魂を溶かす。
笑みを偽り、心を腐らせ、人を神から遠ざける。
それを“幸福”と呼ぶなど――この世で最も危うい異端。」
言葉が石壁に反響し、空気がひときわ冷え込む。
エルドの指先が、グラスの縁に触れた。
泡が弾け、淡い光が瞳の中で瞬く。
長い沈黙。
外では雪が降っているのか、光の粒が窓の外をゆっくり流れていく。
そして――王太子の唇がかすかに動いた。
「……人の笑みまで、罪と呼ぶつもりか。」
その一言は、刃よりも静かに、しかし深く刺さった。
官僚たちは息を呑み、誰も言葉を継げない。
レクシオンの眉が、わずかに動いた。
その沈黙の中で、泡がまた一粒――淡く光って弾けた。
エルドは長い沈黙のあと、静かに椅子を離れた。
その動作ひとつで、謁見の間の空気が張り詰める。
玉座の背後――王国旗が冬の風にわずかに揺れていた。
深紅の布地に金糸で縫い取られた紋章。
それはかつて“秩序と信仰”を象徴した印だが、今のエルドの目には、どこか褪せて見えた。
彼はゆっくりとその旗を見上げながら、低く告げる。
「この件、放置はできぬ。」
その言葉に、官僚たちがざわめきを漏らす。
次の瞬間、彼の声がはっきりと響いた。
「――辺境クルナ村へ、調査隊を派遣する。」
張り詰めた沈黙が一拍置かれ、やがて室内に安堵の息が広がる。
官僚たちは胸を撫で下ろし、聖職者たちは深く頭を垂れた。
彼らの誰もが、「王太子は正義を選んだ」と信じた。
レクシオンが前へ進み、敬虔な笑みを浮かべる。
「御英断にございます。神は殿下に祝福を。」
だが、エルドの微笑みはどこか遠い。
彼は再び卓上のグラスを見やった。
泡がひとつ、静かに弾けて消える。
「……祝福か、それとも泡立つ呪いか。」
彼の声は、冬の光に溶けるように淡く響いた。
その瞬間、王国旗の金糸が一筋――風に揺れ、光を反射した。
まるで、見えない何かがこの瞬間、ゆっくりと“発酵”を始めたかのように。
謁見が終わり、重い扉が静かに閉じられる。
残されたのは、広すぎるほどの沈黙。
王城の謁見の間は、今や息を潜めたように静まり返っていた。
長卓の上、置き去りにされた一本の瓶――「星酔」。
淡い青光を宿したその液体が、まるで心臓の鼓動のように微かに脈打っている。
エルドは無言のまま、その瓶に手を伸ばした。
指先に触れた硝子は冷たく、だがどこか生き物のように温もりを返す。
エルド(心の声):「アレッサ……お前の泡は、まだ世界を動かしているのか。」
瓶の中で、小さな泡がゆらりと浮かび上がる。
それはまるで、遠い記憶の欠片――あの夜、彼女が語った“発酵の祈り”を思い出させた。
外では、雪が降り始めていた。
白い粒が窓硝子を叩き、溶け、流れる。
王都の塔に灯る明かりが滲み、まるで空全体が“発酵するように”ゆらめいて見える。
エルドは静かに息を吐いた。
エルド:「止めに行くためじゃない。
確かめに行く――お前が見ている“泡の未来”を。」
彼は瓶をそっと机に戻し、黒い外套を肩に掛ける。
布の影が雪明かりを遮り、その瞳だけが淡く光った。
それは冷たさの奥に、確かな熱を宿した決意の光。
――王都の鐘が、遠くで鳴った。
音はゆっくりと雪に吸われ、夜の底に溶けていく。
だがその響きの向こうで、ひとつの運命が泡のように、確かに立ち上がろうとしていた。
重厚な扉がゆっくりと閉じられる。
音が途切れ、謁見の間には、まるで世界から音が消えたかのような静寂が訪れた。
机上に残されたのは、ただ一本の瓶――星酔。
青白い光を内に宿し、微かに呼吸しているように泡が揺らめく。
その泡のひと粒が、ふと――
“ぷくり”と、静かに弾けた。
淡い光が宙に広がり、
その瞬間だけ、去りゆくエルドの背を優しく照らし出す。
黒い外套の裾が揺れ、王子の姿は光の向こうに溶けていった。
そして、光も泡も、静かに消える。
ナレーション(またはト書き)
「理性の王子は、泡の夢を追う。
それが罪か、祝福か――
まだ、誰にもわからない。」
雪の降りしきる王都。
鐘の音が遠くで響き、世界は再び、静かな冬の息を吐いた。




