王都に届く“星酔”
――冬の王都。
雪を照らす街灯が、金色の霧をまとう夜だった。
白亜の屋敷群が並ぶ貴族街の中央、ひときわ華やかな灯が輝く。
サフィール公爵邸。今宵は、年に一度の「冬至の夜会」。
水晶のシャンデリアがきらめき、金糸の幕が風のように揺れている。
楽団の奏でる弦の音が高く澄み、笑い声と香水の香りが絡み合う。
その中で、ひとつの噂が広がり始めていた。
「辺境クルナ村の酒ですって。飲むと夢に星が降るそうよ。」
貴婦人が囁き、隣の伯爵が笑う。
「星が? ハハ、それはもう神の祝福か悪魔の囁きか……」
笑いが広がり、銀のグラスが次々と掲げられる。
中に注がれているのは、澄んだ琥珀色の液体――
だが、その表面には、淡く青い光が泡のように浮かんでいた。
香りは花でも果実でもない。
冷たい空気の中で、ひときわ温かく、甘く澄んだ“星の匂い”。
誰かが息を呑む。
誰かが陶然と目を細める。
グラスを傾けるたび、泡がきらめき、灯がゆらぐ。
音楽は高鳴るが――その奥には、説明のつかない熱が生まれつつあった。
それは酔いではない。
もっと原始的な、生命の熱。
そして、誰もまだ気づいていなかった。
この泡立つ香気こそが、王都という密閉された世界に、
“発酵”という名の亀裂を走らせようとしていることに。
サフィール公爵邸の大広間――音楽がいったん途切れ、司会役の男が壇上に立つ。
白手袋をした給仕たちが、銀の盆を携えて列をなす。
その上には、淡く光を帯びた液体が揺れていた。
「諸君、今宵のために特別に取り寄せた――《星酔》と申す酒を。」
ざわめきが走る。
「星酔?」
「辺境の産らしい」「飲むと夢を見るとか……」
訝しげな声と興味の笑いが交錯する。
司会の男は、ひときわ滑らかな口調で続けた。
「伝承によれば――一滴で、魂が星と交わる。
神々が禁じた香気と呼ばれた、失われし“発酵の魔”でございます。」
軽い嘲りの笑いが起こり、それでも誰も杯を拒まなかった。
好奇心と退屈の入り混じった夜には、少しの危険がよく似合う。
やがて、グラスが配られる。
琥珀の液体の底に、泡のような光が微かに瞬く。
最初の一口が――夜会の空気を変えた。
音が遠のく。
ランプの火が揺らめき、まるで風が室内を横切ったよう。
次の瞬間、天井から細かな光の粒が舞い降りた。
それは雪ではない。
だが、確かに降っていた――泡の幻が。
若い騎士が息をのむ。
「……雪が、降っている……? いや、これは……星……?」
隣の貴婦人が両手で顔を覆い、震える声で囁く。
「ああ……音が見えるわ……!」
ヴァイオリンの弦が光の線となり、花弁のように散る。
誰もが笑い、涙ぐみ、言葉を失う。
幸福と懐かしさ。
生まれてはじめて“世界と自分が混ざる”感覚。
やがて幻は溶け、音楽が戻る。
だが、誰もが知っていた――いま確かに“夢を見た”と。
そしてその瞬間、ひとつの噂は確信へと変わった。
――飲むと夢を見る酒。
それは、神の祝福でも、悪魔の誘惑でもない。
“星が酔う”ほどの、命の記憶そのものだった。
王都ヴァレンティヌス城――白大理石の謁見の間。
高窓から射す冬光が、床の紋章を冷たく照らしていた。
王座の前には、教会の司祭レクシオンと王国官吏たちが並び、王太子エルドに頭を垂れている。
その空気には、祈りではなく告発の重さが漂っていた。
レクシオン:「陛下代理、王太子殿下。
辺境クルナ村より流入している“星酔の香”――それは、明らかに禁忌の魔酒にございます。」
教会の紋章を刻んだ杖が床を叩く。
音が石壁に響き渡るたび、官吏たちの顔がわずかに強張る。
官吏:「王都の夜会でも確認されました。
一口で幻視を見せ、酔った者は神の声を聞いたと騒ぐ。
放置すれば信仰と秩序の崩壊は免れませぬ。」
レクシオンの声が続く。
「魂を泡立たせ、現を曇らせる――まさに“悪の酵母”の仕業。
断種と封印をもって、再び眠らせねばなりません。」
沈黙が落ちる。
エルドはゆっくりと視線を上げ、冷たい灰色の瞳で彼らを見渡した。
エルド:「……悪の酵母、か。」
その声は穏やかだった。
だが、わずかに笑みを含んでいた。
「その酒を口にした者たちが――笑っていたと聞いた。
生気を取り戻し、涙を流し、言葉を交わしたと。
……人の笑みまで、罪と呼ぶつもりか。」
空気がひび割れる。
誰もすぐには言葉を返せなかった。
レクシオンは眉をひそめ、静かに一歩前に出る。
「笑みは麻酔にすぎません。
偽りの幸福こそ、神の意志を最も穢すもの。
我らは、その根を断つためにここにおります。」
沈黙ののち、エルドは深く息を吐き、椅子の肘掛けに手を置いた。
その瞳の奥には、わずかな泡のような揺らぎがあった。
エルド:「……よかろう。調査隊を派遣する。
ただし――“断罪”ではなく、“確認”としてだ。」
官吏たちが頭を下げる。
レクシオンの唇が硬く結ばれた。
だが、誰も気づかない。
王太子の指先が震えていることに。
その震えは、恐れではなく――迷いの熱だった。
エルド(内心):「アレッサ……。
お前は、また世界を泡立てるつもりか。」
静まり返る謁見の間に、雪の音だけが微かに届く。
命令は下った。
だがその“調査”の裏には――再会を願う男の、密やかな火が灯っていた。
王都・冬至の夜会。
金糸のカーテンと水晶灯の下、笑い声が絶えない。
王太子エルドは、銀の杯を手にしていた。
杯の中で、淡い泡が浮き上がっては弾ける。
花でも果実でもない――それは、どこか“記憶の香り”に似ていた。
「……辺境の酒、“星酔”でございます」
給仕がそう告げた瞬間、エルドの眉がわずかに動く。
名を聞いただけで、胸の奥がざわめいた。
彼は迷いもせず、杯を口へ運ぶ。
――一口。
液体が舌の上で静かに泡立ち、微かな熱を残して喉を流れた。
その瞬間、視界がわずかに滲む。
音が遠ざかり、光が歪む。
次の瞬間、世界は――雪に覆われていた。
灰と白の境目。
吐く息が白く、冷気が頬を撫でる。
足元には、凍った地面。
そして、そこに――灯るランプの光。
光の中で、木樽を抱えた少女が立っている。
アレッサ:「……また、泡が息をしてるよ。」
声はやわらかく、雪の上に落ちる泡のように溶けていく。
彼女の瞳は、かつて見たことのないほど穏やかだった。
エルド(心の声):「……やはり、お前か。
あの泡はまだ、生きていた。」
遠くで“ぷつり”と泡のはじける音がする。
それが鼓動のように繰り返され、胸の奥で響いた。
エルドが手を伸ばしかけた瞬間――
光景は弾ける泡のように崩れ、再び眩しい夜会の光が戻る。
ざわめき、笑い声、音楽。
すべてが元通りのはずなのに、世界がどこか違って見えた。
彼の掌には、まだ温もりが残っていた。
まるで幻が、確かに“触れた”かのように。
煌びやかな夜会の音が、遠ざかっていく。
金と光の渦の中で、エルドだけが――まるで別の世界に立っていた。
貴族たちは酔いと幻の幸福に包まれ、笑い声を上げる。
だが、その笑いはどこか空虚で、泡のように軽かった。
エルドはゆっくりと杯を置き、立ち上がる。
椅子のきしむ音が、やけに大きく響いた。
侍従:「で、殿下!? どちらへ……!」
エルド:「……星を、確かめに行く。」
その言葉は、淡々としているのに、不思議と熱を帯びていた。
まるで“何か”を取り戻しに行く者の声。
彼は外套を羽織り、迷いなく歩き出す。
夜気が頬を打ち、雪が舞う。
城下の灯が滲み、星々が静かに瞬いていた。
エルド(心の声):「あの泡が、まだ生きているのなら――」
足取りは重くも、確かだった。
夜の王都を抜け、北へ。
かつて夢で見た“雪の村”へと、彼は向かっていく。
――その胸の奥で、泡の音が小さく弾けた。
煌びやかな夜会のざわめきが、次第に遠ざかっていく。
テーブルの上――エルドが置き去りにした杯がひとつ。
中の液体はもうぬるくなっているのに、
泡だけが、まだ生きているように小さく弾けていた。
ぽつ、ぽつ……
その光は、まるで呼吸するように淡く瞬く。
貴婦人:「……ねえ、見て。まだ光ってるわ。」
伯爵:「ふむ……酒が、光るなど――まるで魂の名残だな。」
誰かが笑い、誰かがうっとりと見とれる。
だが、誰も気づかない。
その泡が、ゆっくりと夜空へ――溶けていくことを。
窓の外。
王都の空に、ひとつの星が泡のように瞬いた。
ナレーション:
「理性の都に、泡が立った。
それは禁忌の匂いか――あるいは、新しい命の兆しか。」
光はやがて闇に溶け、静かな余韻だけが残る。
まるで、世界が次の“発酵”を始める前の静けさのように。




