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悪役令嬢、追放後の酒造り。──その一滴、世界を救う。  作者: 南蛇井


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10/22

王都に届く“星酔”

――冬の王都。

雪を照らす街灯が、金色の霧をまとう夜だった。


白亜の屋敷群が並ぶ貴族街の中央、ひときわ華やかな灯が輝く。

サフィール公爵邸。今宵は、年に一度の「冬至の夜会」。


水晶のシャンデリアがきらめき、金糸の幕が風のように揺れている。

楽団の奏でる弦の音が高く澄み、笑い声と香水の香りが絡み合う。


その中で、ひとつの噂が広がり始めていた。


「辺境クルナ村の酒ですって。飲むと夢に星が降るそうよ。」


貴婦人が囁き、隣の伯爵が笑う。


「星が? ハハ、それはもう神の祝福か悪魔の囁きか……」


笑いが広がり、銀のグラスが次々と掲げられる。

中に注がれているのは、澄んだ琥珀色の液体――

だが、その表面には、淡く青い光が泡のように浮かんでいた。


香りは花でも果実でもない。

冷たい空気の中で、ひときわ温かく、甘く澄んだ“星の匂い”。


誰かが息を呑む。

誰かが陶然と目を細める。


グラスを傾けるたび、泡がきらめき、灯がゆらぐ。

音楽は高鳴るが――その奥には、説明のつかない熱が生まれつつあった。


それは酔いではない。

もっと原始的な、生命の熱。


そして、誰もまだ気づいていなかった。

この泡立つ香気こそが、王都という密閉された世界に、

“発酵”という名の亀裂を走らせようとしていることに。



サフィール公爵邸の大広間――音楽がいったん途切れ、司会役の男が壇上に立つ。

白手袋をした給仕たちが、銀の盆を携えて列をなす。

その上には、淡く光を帯びた液体が揺れていた。


「諸君、今宵のために特別に取り寄せた――《星酔セイスイ》と申す酒を。」


ざわめきが走る。

「星酔?」

「辺境の産らしい」「飲むと夢を見るとか……」

訝しげな声と興味の笑いが交錯する。


司会の男は、ひときわ滑らかな口調で続けた。


「伝承によれば――一滴で、魂が星と交わる。

 神々が禁じた香気と呼ばれた、失われし“発酵の魔”でございます。」


軽い嘲りの笑いが起こり、それでも誰も杯を拒まなかった。

好奇心と退屈の入り混じった夜には、少しの危険がよく似合う。


やがて、グラスが配られる。

琥珀の液体の底に、泡のような光が微かに瞬く。


最初の一口が――夜会の空気を変えた。


音が遠のく。

ランプの火が揺らめき、まるで風が室内を横切ったよう。

次の瞬間、天井から細かな光の粒が舞い降りた。


それは雪ではない。

だが、確かに降っていた――泡の幻が。


若い騎士が息をのむ。


「……雪が、降っている……? いや、これは……星……?」


隣の貴婦人が両手で顔を覆い、震える声で囁く。


「ああ……音が見えるわ……!」


ヴァイオリンの弦が光の線となり、花弁のように散る。

誰もが笑い、涙ぐみ、言葉を失う。


幸福と懐かしさ。

生まれてはじめて“世界と自分が混ざる”感覚。


やがて幻は溶け、音楽が戻る。

だが、誰もが知っていた――いま確かに“夢を見た”と。


そしてその瞬間、ひとつの噂は確信へと変わった。


――飲むと夢を見る酒。

それは、神の祝福でも、悪魔の誘惑でもない。

“星が酔う”ほどの、命の記憶そのものだった。


王都ヴァレンティヌス城――白大理石の謁見の間。

高窓から射す冬光が、床の紋章を冷たく照らしていた。


王座の前には、教会の司祭レクシオンと王国官吏たちが並び、王太子エルドに頭を垂れている。

その空気には、祈りではなく告発の重さが漂っていた。


レクシオン:「陛下代理、王太子殿下。

 辺境クルナ村より流入している“星酔の香”――それは、明らかに禁忌の魔酒にございます。」


教会の紋章を刻んだ杖が床を叩く。

音が石壁に響き渡るたび、官吏たちの顔がわずかに強張る。


官吏:「王都の夜会でも確認されました。

 一口で幻視を見せ、酔った者は神の声を聞いたと騒ぐ。

 放置すれば信仰と秩序の崩壊は免れませぬ。」


レクシオンの声が続く。


「魂を泡立たせ、うつつを曇らせる――まさに“悪の酵母”の仕業。

 断種と封印をもって、再び眠らせねばなりません。」


沈黙が落ちる。

エルドはゆっくりと視線を上げ、冷たい灰色の瞳で彼らを見渡した。


エルド:「……悪の酵母、か。」


その声は穏やかだった。

だが、わずかに笑みを含んでいた。


「その酒を口にした者たちが――笑っていたと聞いた。

 生気を取り戻し、涙を流し、言葉を交わしたと。

 ……人の笑みまで、罪と呼ぶつもりか。」


空気がひび割れる。

誰もすぐには言葉を返せなかった。


レクシオンは眉をひそめ、静かに一歩前に出る。


「笑みは麻酔にすぎません。

 偽りの幸福こそ、神の意志を最も穢すもの。

 我らは、その根を断つためにここにおります。」


沈黙ののち、エルドは深く息を吐き、椅子の肘掛けに手を置いた。

その瞳の奥には、わずかな泡のような揺らぎがあった。


エルド:「……よかろう。調査隊を派遣する。

 ただし――“断罪”ではなく、“確認”としてだ。」


官吏たちが頭を下げる。

レクシオンの唇が硬く結ばれた。


だが、誰も気づかない。

王太子の指先が震えていることに。


その震えは、恐れではなく――迷いの熱だった。


エルド(内心):「アレッサ……。

 お前は、また世界を泡立てるつもりか。」


静まり返る謁見の間に、雪の音だけが微かに届く。

命令は下った。

だがその“調査”の裏には――再会を願う男の、密やかな火が灯っていた。



王都・冬至の夜会。

金糸のカーテンと水晶灯の下、笑い声が絶えない。

王太子エルドは、銀の杯を手にしていた。


杯の中で、淡い泡が浮き上がっては弾ける。

花でも果実でもない――それは、どこか“記憶の香り”に似ていた。


「……辺境の酒、“星酔”でございます」


給仕がそう告げた瞬間、エルドの眉がわずかに動く。

名を聞いただけで、胸の奥がざわめいた。

彼は迷いもせず、杯を口へ運ぶ。


――一口。


液体が舌の上で静かに泡立ち、微かな熱を残して喉を流れた。

その瞬間、視界がわずかに滲む。

音が遠ざかり、光が歪む。


次の瞬間、世界は――雪に覆われていた。


灰と白の境目。

吐く息が白く、冷気が頬を撫でる。

足元には、凍った地面。


そして、そこに――灯るランプの光。

光の中で、木樽を抱えた少女が立っている。


アレッサ:「……また、泡が息をしてるよ。」


声はやわらかく、雪の上に落ちる泡のように溶けていく。

彼女の瞳は、かつて見たことのないほど穏やかだった。


エルド(心の声):「……やはり、お前か。

 あの泡はまだ、生きていた。」


遠くで“ぷつり”と泡のはじける音がする。

それが鼓動のように繰り返され、胸の奥で響いた。


エルドが手を伸ばしかけた瞬間――


光景は弾ける泡のように崩れ、再び眩しい夜会の光が戻る。

ざわめき、笑い声、音楽。

すべてが元通りのはずなのに、世界がどこか違って見えた。


彼の掌には、まだ温もりが残っていた。

まるで幻が、確かに“触れた”かのように。

煌びやかな夜会の音が、遠ざかっていく。

金と光の渦の中で、エルドだけが――まるで別の世界に立っていた。


貴族たちは酔いと幻の幸福に包まれ、笑い声を上げる。

だが、その笑いはどこか空虚で、泡のように軽かった。


エルドはゆっくりと杯を置き、立ち上がる。

椅子のきしむ音が、やけに大きく響いた。


侍従:「で、殿下!? どちらへ……!」

エルド:「……星を、確かめに行く。」


その言葉は、淡々としているのに、不思議と熱を帯びていた。

まるで“何か”を取り戻しに行く者の声。


彼は外套を羽織り、迷いなく歩き出す。

夜気が頬を打ち、雪が舞う。

城下の灯が滲み、星々が静かに瞬いていた。


エルド(心の声):「あの泡が、まだ生きているのなら――」


足取りは重くも、確かだった。

夜の王都を抜け、北へ。

かつて夢で見た“雪の村”へと、彼は向かっていく。


――その胸の奥で、泡の音が小さく弾けた。

煌びやかな夜会のざわめきが、次第に遠ざかっていく。

テーブルの上――エルドが置き去りにした杯がひとつ。


中の液体はもうぬるくなっているのに、

泡だけが、まだ生きているように小さく弾けていた。


ぽつ、ぽつ……

その光は、まるで呼吸するように淡く瞬く。


貴婦人:「……ねえ、見て。まだ光ってるわ。」

伯爵:「ふむ……酒が、光るなど――まるで魂の名残だな。」


誰かが笑い、誰かがうっとりと見とれる。

だが、誰も気づかない。

その泡が、ゆっくりと夜空へ――溶けていくことを。


窓の外。

王都の空に、ひとつの星が泡のように瞬いた。


ナレーション:

「理性の都に、泡が立った。

 それは禁忌の匂いか――あるいは、新しい命の兆しか。」


光はやがて闇に溶け、静かな余韻だけが残る。

まるで、世界が次の“発酵”を始める前の静けさのように。




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